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ニーヒルの日記

 温室での探索を終え、蘭は館に戻っていた。トツカは疲れたので休む、と言っていたから、蘭が使っていた客間のベッドを譲った。流石のトツカも、ニーヒルの寝室を使うのは気が引けるらしい。

 一人放り出された蘭はキッチンで湯を沸かしコーヒーを入れると、カップを持って談話室へ向かった。マグカップ用のコーヒーフィルターなんて便利な物はなかったので、大きなピッチャーにたっぷり入れておいた。あとでミルクでも入れて飲めばいいだろう。

 ロッキングチェアに深く腰掛け、コーヒーに口をつける。美味しかったが、初めてここで飲んだ、あのギンレイの入れたコーヒーには到底敵わなかった。

「……心臓を継ぐ、かぁ」

 ゆっくりと揺れる心地いい椅子の上で、ぽつりと漏らす。

 ここにきて選択肢が具体的になった気がする。メリットとデメリット、得る物と失う物。蘭にとっての幸福と不幸を両側の皿に載せて、天秤がぐらぐらと揺れる。

 桁外れの長寿。薬と薬草の知識。遺物を管理する力。遺物を作り出す力。人間社会からの排除、あるいは隠遁。それに伴う社会的な繋がりと立場の喪失。

「情報が足りないなぁ。例えば、人間社会からの排除って言うけど、具体的に何が問題になるんだ? 年を取らないことが怪しまれるのなら、見かけだけ誤魔化す薬を造ればなんとかなるかもしれない。社会的な繋がりや立場も、魔女をやりながら人間で居続けることは不可能なのか、試してみないと分からないよなぁ」

 ニーヒルが人と関わっていた頃と今では時代も条件も違いすぎる。魔女にしか出来ないことが減った代わりに、魔女だと疑われることもまた、減ったのではないか。そう思える。自分の立場を隠したままで人の世で暮らすことは不可能ではない気がしていた。

「ニーヒルが俺を魔女にしたくなかったのは孤独だったからだろう? 逆に言えば、孤独でないのなら、孤独が辛くないのなら、俺を魔女にしてもいいと思ったんじゃ」

 考えをまとめるために呟いた独り言に、ロッキングチェアが口を挟んできた。

「いいや、いいや、ニーヒルが魔女を継がせなかったのはそれだけじゃないだろう。魔女という生き方自体が、最早難しくなっていた。ああ、だから君を魔女にしなかったのだろう」

「ロッキングチェアは何か知ってるのか?」

「いいや、いいや、私はここで主を寛がせるだけだ。ああだけど、時々主が漏らした懸念だけは知っている。ニーヒルは、薬を作って生計を立てられるのが自分の代で終わりだと思っていた。そう、最早魔女の薬は必要とされないとも言っていた。孤独で、不自由で、必要とされず、求めることも出来ず、そんな生き方を、君にさせたくなかったのだろう」

 それはそうなのかもしれない。人間が造る薬は進歩して、魔女の薬に頼らなくても人は生きていけるようになった。魔女の造る道具や齎す叡智が人々を凌駕しなくなった。

 言うなれば、時代遅れなのだ。世代交代が遅すぎて、変化への対応が間に合わない。交わることもなく、情報も共有されない。連綿と一人の魔女として代を経て研鑽は積み重なるだろうが、一人の頭ではやがて行き詰まってしまう。その結果、置き去りにされてしまった。

「……ニーヒルは、傷付いてここに隠遁しちゃったから余計だろうな」

 だからギンレイも外の世界の便利さを知らず、ニーヒルの造った遺物を意気揚々と見せてきたのだろう。それが革新的なものだと信じて。

「でもだからってここに価値がないとは、俺は思わない。残したいと思う。……魔女にならずに残して欲しいなんて言うのは、多分我が儘なんだろうな」

 温室やギンレイの言葉を考えれば、取り出された心臓がここを維持できるのはあと数ヶ月。力を失った心臓がどうなるのかは分からない。砕け散って、これまで積み重ねた研鑽が無に帰すのか。力を失って、ただ止まってしまうだけなのか。

「ニーヒルのことが知りたいな。みんなの言葉じゃなく、ニーヒル自身の言葉で。俺が英語出来ればよかったんだけど」

「ニーヒルの日記を読めばいい。あの子はよく日記を書いていた。工房か、寝室か。書き残したものがあるはずだ」

「……読めないんだよ。ちらっと見たけど、全然わかんない。筆記体で書いてあるし」

 唇を尖らせ、拗ねてそういう蘭に対し、ロッキングチェアは笑いながらギシギシとその脚を軋ませた。

「疑問に思わないのか、魔女の卵。何故遺物達と話が出来るのか」

「え、あれ、そう言えば……」

「言葉を換える魔法がある。遺物にはそんな魔法がかかっている。オイルランプなら、その火をかざせば文字の解読だって可能だろう」

 蘭は勢いよく立ち上がった。背後でロッキングチェアは静かに動きを止める。

 オイルランプが素直に協力してくれるかは分からない。だが、やってみるべきだ。どのみち一度話をしなければとは思っていた。丁度いいだろう。

「ありがとう! 工房に行ってくる!」

 ロッキングチェアに礼を言い残し、蘭は工房へと駆け出していった。


「オイルランプ! 協力して欲しい」

 扉を開けるなり叫ぶと、机の上に静かに鎮座していたオイルランプは微かに揺れた。

「何だ、騒々しい」

「ニーヒルの日記を読みたい。俺じゃ翻訳できないけど、オイルランプなら出来るんだろう? そういう魔法がかかってるって聞いたぞ!」

「……誰がそんな余計なことを」

 苛々しい声音で言い捨てるランプはしかし、否定しなかった。

「頼むよ。興味本位じゃない。親のことを知りたいと思うのは当然のことだろ?」

 あと数ヶ月でこの館が維持できなくなるのなら、下手をしたら二度とここには来られない。なら、ニーヒルのことを知るのは今が最後のチャンスかもしれない。継ぐにしても継がないにしても、今ここで動かなければ後悔するだろう。

 蘭の切実さを見て取ったのか、オイルランプは一瞬たじろいだ後、その炎を高く燃え上がらせた。

「……蝋燭が減らない燭台がここの奥の棚にある。それを持ってきて蝋燭を立てろ。俺の火を分ける。その火に照らされる文字は、お前の最も理解できる文字として読み取れるだろう」

 ランプはそう言って黙り込んだ。燭台の場所まで教えてくれるつもりはないらしい。それでも、ランプなりに最大限譲歩してくれたのだろう。それが分かるから文句はなかった。

「ありがとう!」

 工房の奥の棚に歩み寄る。

 整然と並べられた実験道具の並びに、古びた銀の燭台があった。地下にしまい込まれていたものの一つだ。持って上がった記憶がある。

 その隣に、見慣れない薬草の束が置かれていた。薬草は全て棚にしまわれていたはずだ。何故こんなところに、と手を伸ばしかけた蘭は、その下にある白い器に気付いて手を止めた。

「……黙らされてるんだぁ」

 なら、この薬草に触れるのはよそう。そっと手を引っ込める。 

「蝋燭は引き出しの中にある。だが」

 蘭のその動きを蝋燭が見つからず戸惑っていると思ったのだろう。ランプは炎を白く燃やしながら、嘲るような声で言う。

「俺がするのは読めるようにするだけだ。知識もなく察しの悪い貴様が読んだところで、理解できるとは思わんがな」

「いいんだ、別に。ニーヒルと俺は別の人生を歩んできたんだから、理解しようと思ってない。実験のメモなんてそれこそ読んだってちんぷんかんぷんだよ。でもさ」

 蘭は引き出しから取り出した蝋燭を燭台にセットし、オイルランプに向けて差し出した。

「どんな実験をどうやてやってたか、とか、どれぐらい記録を残してたか、とか、そういうところから見えてくることもあるかもしれないだろ? それに、人間の書く日記なんだから、全然理解できないなんてことは、ないと思うんだよ」

「……は。好きにしろ」

 オイルランプは言い捨てるとその身を浮き上がらせ、蝋燭の先端に火を移した。ぱちり、と何かがはぜるような音を立てて蝋燭が点る。

「紙を近付けても燃えはしない。俺の炎は燃やせない炎だ。だが、お前の身体は燃やせるかもしれん。せいぜい気をつけろ、転生体」

「分かったよ。ありがとう」

 オイルランプはそれきり火を落とし、黙り込んでしまった。窓のない暗い室内で、手元の燭台だけがあたりを照らしている。壁に掛けられた蝋燭達も部屋全体を点すには力が足りなかった。

 ぐるりと部屋を見渡す。トツカが地図を作るために引っ張り出していた本は綺麗に片付いている。最初に見た時と同じように本棚にきっちりと本が収まっていた。そのうちの一冊を引っ張り出し、机に置いてみる。表紙は革張りで、金属の金具で止めてあった。中の紙は一枚一枚が分厚く頑丈だ。高級なものだったのだろう。

「……植生学」

 表紙の文字は確かに読める。読めるが、意味は分からない。

 ページをめくったところに目次があった。

『薬草栽培における土壌改良と四大元素の調和』

『月齢に基づく薬草の播種及び収穫に関する考察』

『薬効植物の気質分類と栽培環境の最適化』

『植物精気の抽出と保存に関する実践的研究』

『土壌の性質と植物の気質の相関性について』

 書いてある一つ一つの単語はかろうじて理解できるが、全くもって内容の想像が付かない。植物を育てるための知識が書かれた本なのだろう。そう思ってページをめくってみても何一つ頭に入ってこない。

「知識はあっても使えないってこういうことかぁ」

 諦めて、重い本を本棚に戻す。

 隣には研究日誌、と書かれた本があった。薄手の本で、同じく表紙は革張りだが先程の本よりは装飾が少ない。取り出して開いてみると、手書きの研究メモのようだった。


 ○月□日。ラベンダーの栽培について。

 ”ラベンダーは火の気質を帯びた植物であり、乾燥を好む性質を有する。土壌は砂質を主体とし、石灰を適量混入することで排水性を高めるべし。播種は春分の日より七日後、月が満ちる夜に行うを最良とする。”

 この通説の通りに栽培してみたが、温室で管理するのであれば春分からの日数は関係なく栽培できることが分かった。問題は水捌けと温度管理だろう。土壌の改良と温室の区画管理に気を配れば、年中栽培できる。これはかなりの進歩だ。



 △月□日。

 先日植えたラベンダーが真冬に花をつけた。薬効は元の三倍近い。上手く使えば季節に関係なく生薬をストックできるし、薬効もあげられるかもしれない。



「温室……って、あの遺物のか! あの季節感バグった花、研究のためだったのかぁ」

 それから暫く、条件を変えて様々な方法でラベンダーの栽培を試したらしい記録が続いていた。年号が書かれていないのでいつ頃の話かは分からないが、おそらくはハウス栽培なんて言葉がなかった時代からニーヒルはこうやって季節違いの花を育てていたのだろう。

 詳しく読んでも内容はさっぱりなので、ぱらぱらと適当にページをめくっていく。

 手帳も終盤に入ったところで、蘭はふと一つのページに目をとめた。



 ×月◆日

 知り合いの船乗りから珍しい花の種を受け取った。南国の島で咲く花の種だというが、誰も発芽すらさせられなかったらしい。今、この花を発芽させるのに国から懸賞金が出ているそうだ。

 懸賞金に興味はないが、植物学を専門とするものとして、挑戦してみたい気持ちがある。

 この手帳はもう残りが少ないので、次から詳細に記録を残すことにする。



「誰も見たことがない花かぁ。どんな花だったんだろうな」

 続きが気になるが、この研究手帳の続きは本棚にないようだ。仕方がないので手帳を本棚に戻し、他の本を物色する。

 いくつかの本や手帳を確認して分かったことがある。ニーヒルは相当植物が好きだったようだ。そして、凝り性で研究熱心で几帳面だった。研究手帳は日を置かずほぼ毎日、様々な植物の実験について書かれていたし、内容も整理されていた。肥料の配合や温度管理、水の量、根切虫への対処方法。何百もの植物一つずつに対し、育て方や注意事項が細かく書き残されている。

「いや……すごいな……俺には無理だよこれは」

 書き損じがないのもすごいが、もしかしたらこれはあの――ギンレイが得意げに持ってきた綺麗に字が書ける羽ペンの効果かもしれない。確かにこれだけ手書きで記録を残すなら必要だっただろう。実用性がないと言ったことを今更申し訳なく思う。自分にとっては使えないものでもニーヒルにとっては生活必需品だったのだ。ギンレイが得意げに出してくるのも当然だ。

 尊敬と畏怖と、あとちょっとだけ冷ややかな気持ちを抱きながら、手にしていた手帳を共に元の位置に戻す。

 一通り確認してみたが、ここにあるのはあくまでも研究メモや日誌、記録の類いのようだった。人となりを知る一助にはなるが、実際ニーヒルがどういう考えをしていたのかまでは読み取れない。もう少し個人的なことが知りたいのだが、ここにはそういうものは置いていないようだ。

「……寝室かぁ」

 工房の奥にある扉を見る。なんとなく、そう、本当になんとなく避け続けていた主の寝室。日記があるとしたらあの場所なのだろう。そうまでして過去を暴きたいか、という思いと、ここで躊躇ったら後悔するぞ、という焦燥感が衝突する。

「今読まなかったら、もう一生読む機会はない。嫌になったらその時にやめればいい。……よし」

 自分自身に言い聞かせるように宣言して、蘭はようやく最後の部屋――寝室へと足を踏み入れた。


 寝室は工房に比べて随分こぢんまりとしていた。部屋の広さは半分ほどだろうか。窓はあるが重たいカーテンがかかっている。その窓のそばに、ギンレイが持ち込んでいた時を知らせる鐘がかけられていた。やはりここに戻されていたのだ。今は知らせる相手もいないので、静かにそこに佇んでいる。

 他にあるのは物書き机と、それと対になった椅子だけだ。開閉式の机は今は閉じられている。机に歩み寄り、取っ手を引いてみた。鍵がかかっているかと思ったが、何の引っかかりもなく机は展開される。

「不用心だなぁ。……いや、ここまで来るのがハードル高いか」

 この部屋は他の部屋と違って直接廊下とは繋がっていない。唯一の出入り口は工房と繋がる先程の扉だけだ。位置的に壁越しにキッチンと繋がっているはずだが、壁が分厚いのか魔術的な仕掛けがあるのか、外の物音はここには届いてこない。

 開かれた天板の奥には小ぶりな棚があり、そこには手帳が数冊立てかけられていた。椅子に腰掛け、その手帳を開いてみる。

「こっちが日記みたいだ」

 先程の研究日誌よりは砕けた様子で、日々の様子が綴られていた。



 ○月○日

 ヴァーナおばさんがお腹の調子が悪いと言って薬を取りに来た。この前から調子が良くない。この前の薬はあまり効き目がなかったようだから、少し強い薬で様子を見た方がいいかもしれない。味は落ちるが丸薬にして、ミルクと一緒に飲み干してもらおう。


 ○月■日

 ヴァーナおばさんが、調子が良くなったと言ってお礼に子羊を置いていってくれた。もらいすぎだと言ったのに、この前の分も含めてだからといって聞かなかった。さばくのが苦手なので、また何処かの肉屋に解体をお願いしないといけないな。お願いするためにも新しい薬を造らないと。



「この頃は村で暮らしてたのか」

 ニーヒルの日記は概ねこの調子で、村の人々との交流が中心になっていた。小さな村に身を寄せ、薬を提供する代わりに食べ物を受け取っていたことが読み取れる。かなり牧歌的な雰囲気だ。魔女の暮らしと言われて想像するような生活がそこにあった。



 ○月×日

 同世代の魔女だという少女が訪ねてきた。遠い東の島国から旅をしてきたらしい。古い剣が落ちてる場所はないか、と聞かれたから、古戦場を案内しておいた。鋳つぶす予定のまま放棄された剣があった気がする。でも、古い剣なんか拾ってどうするんだろう。


 ○月△日

 この前来た魔女がお礼を言いに来た。案外律儀なんだな。話し相手も欲しかったから庭のハーブでハーブティを煎れたら、馴染みのない味だったらしく目を白黒させていた。悪いことをしたかも。



「これ、トツカかな」

 ある日を境にこの東から来た少女の描写が所々に増えていく。トツカはそれなりの頻度でニーヒルを訪ねていたらしい。村の人間とも顔見知りになっている様子が日記から読み取れる。



 ○月□日

 試していた温度管理の小屋がうまくいきそうだ。まだ小規模だが、ラベンダーが成功したら他の植物でも試してみたい。これでいつでも新鮮なハーブティが飲めるかも。



 ここで、先程の研究日誌の内容と合流した。パズルのピースを見つけたようで嬉しくなる。しかし、研究日誌の方では随分堅い口調で薬効が上がった、などと書いていたのに、本音はハーブティが飲みたい、だったのか。食い意地が張っていると言われたのも納得だ。苦笑しつつも、あの几帳面できっちりとした研究日誌とは違う一面を見られて微笑ましくもあった。

「あ、じゃあこの少し後かな。あの誰も見たことない花のこと」

 あの研究日誌の後ろの方に書いてあった。ならこの手帳の後ろの方にそれについての記載があるかも知れない。ぱらぱらと手帳の後ろを探してみると、それらしい描写が目に入った。



 ×月◆日

 船乗りのジョンから小さい種を譲り受けた。交易先で見つけた珍しい花の種らしい。植えてみても誰も咲かせられなかったと言うから、かなり発芽が難しいんだろう。

 上手く咲かせられたら懸賞金がもらえるぞ、そうしたら一杯奢ってくれ、と冗談めかして言われたが、どうしたものか。正直懸賞金には興味はないが、誰も見たことがないという花であれば是非とも咲かせてみたい。まずは、発芽条件を調べてみよう。


 ×月○日

 栄養を与えた土に埋めてみたが、発芽の気配が全くない。休眠している? 研究日誌にも書いたが、これはちょっと難物かもしれない。まぁ咲かなかったら咲かなかった時だけど、せっかくできた種をこのまま殺すのは忍びない。なんとか発芽だけでもさせられたらいいんだけど。


 △月○日

 ジョンは種のことなんかすっかり忘れていた。種を拾った場所のことを聞いても何のことだ? なんて言い出した。かろうじて覚えていた情報から、この花が土に生えるものではないらしいことが分かった。そんな植物は見たことがない。是非この目で見たい。何とかならないだろうか。


 ■月○日

 必要なのは湿度と温度の管理だった。水苔で包み腐葉土を与えて温度管理の小屋に入れたことで、微かな変化を感じ取った。まだ発芽までは至らない。だが、僕には声が聞こえている。発芽、させられるかもしれない。


 □月×日

 温度管理をした小屋の中、ナナカマドの上で、とうとうあの花が咲いた。蝶のような花弁の、白く美しい花だった。こんな優雅な花は見たことがない。薬を取りに来た皆が褒めてくれるので鼻が高かった。ジョンに知らせたかったが、最近姿を見せない。報奨金のことなど忘れているだろうが、花のことは自慢したかった。



「おおおお……咲かせたんだ……すごいなニーヒル。えっと、これがその花のスケッチか。あ、これって」

 蘭は、日記の一ページに書かれていた花の絵を見て言葉を失った。見慣れた花だ。というか、つい最近同じ花を見た。色こそ違うが、間違いなく同じ花だ。

「こ……っ、胡蝶蘭!?」

 そんなに育てるの難しい花だったのか。花屋には必ずあるからありふれた花だと思っていた。

 花を開花させたのがよほど嬉しかったのか、数日にわたっていろんな人に花を自慢しているのが見える。微笑ましくその様子を読んでいた蘭だったが、数日後の記録に気になる文章を見つけた。



 ×月×日

 とある国の国王から手紙が届いた。封蝋で厳重に封印されたその手紙には、報奨金を与えるので開花させた花を献上しろ、育て方を国に報告せよ、その花を育て上げた技術を買って王宮へ召し上げる、といったことが書かれていた。この命令調な文面からして拒否権はなさそうだ。この村での生活もそろそろ限界が近い。温室(あの温度管理ができる小屋をそう名付けた)ももう少し規模を拡大させたいし、これは好機かもしれない。

 トツカからはやめておけ、碌なことにならないと止められたが、薬を研究するにしろ花を育てるにしろ、後ろ盾があった方がやりやすいだろう。それに、腕を買ってくれる人間がいるのは、正直少し嬉しかった。



「ニーヒルが王宮に召し上げられたのは、蘭を育て上げたからなのか……」

 この日からは王宮に上がるための準備をしている様子が書かれている。村の皆に挨拶をし、数ヶ月分の薬を渡し、代わりに支度金として幾ばくかの金銭を受け取ったようだ。普段は物々交換でも流石に羊は連れて行けないから、今回ばかりはお金で払ったらしい。寂しくなる、と言いながらも、ニーヒルは新しい生活を楽しみにしているようだった。



 ○月▲日

 王宮に上がって数ヶ月経った。庭師から裏庭の一角を借り受け、温室を立てた。代わりに花壇の管理を任された。実際の剪定は庭師の仕事だが、木々や草花の管理は僕が行うことになった。国王はこの王宮の庭を他国へ自慢できる庭園にしたいと仰せだ。気を引き締めよう。

 そう言えば、僕が開花させたあの花は蘭と言うそうだ。あの花を咲かせる条件を陛下に伝えはしたが、おそらく僕以外であの花を種から開花させられるものはいないだろう。かく言う僕もこっちに来てから種からの開花には成功していない。他の条件は同じだから、きっと土が問題なんだろう。いつかそれも解き明かしたい。

 差し当たっては親株から切り離した株を育てることで増やせることが分かった。今はそれで少しずつ増やして育てている。国王陛下は来賓にこの花を自慢している。ゆくゆくはあの花を輸出品にしたいと言われた。これで国が潤うのであれば僕も鼻が高い。株分けを急がなければ。


 ▼月◆日

 蘭の株分けは順調に進んでいる。分けた株も僕以外では開花や維持が出来ないようだ。かなり複雑な管理をしているから当然だろう。植物を専門にする魔女ならあるいは可能だろうが、僕の一族ほどの研鑽を積んだ魔女はきっといない。暫くはあの花を独占できることだろう。

 国王が積極的に売り込んだおかげで、周辺国の貴族から注文が殺到している。あの物珍しい花の売上は今や国庫の一部を担っている。僕の立場も格段に良くなった。時折訪れるトツカが目を見張るほどの境遇だ。

 だが、気がかりなことがある。隣国でやっかいな流行病が流行しているとの噂だ。高熱が出て意識を失い、やがて死に至るのだという。悪い血が溜まっているからだと(しゃ)(けつ)しても効果がないそうだ。いつここに入ってきてもおかしくない。備えておかなければ。

 ……正直、瀉血で病が治るとは思えない。症状を聞いた限りでは、身体の中で炎症が起こっているのだろう。抗菌と解熱の薬を念のため作っておくことにする。出番がなければいいんだが。


 ×月○日

 恐れていたことが起きた。隣国を襲っていたあの熱病が国に入ってきた。幼い王子が罹患し、伏せっている。王妃も陛下も心痛が絶えないことだろう。作っておいた炎症止め、抗菌、解熱の薬を与えて様子を見ているが、後は王子自身の体力に期待するしかない。精が付くようミルクを与えているが、今夜が山だ。

 薬師だというのに、祈ることしか出来ない。僕は無力だ。


 ×月■日

 やった! なんとか王子は病に打ち勝った! 体力を削りきられる前に解熱と炎症止めが効いたようだ。王妃から感謝のお言葉を賜り、陛下からは報償として温室の増設の許可を頂いた。僕としても薬を司る魔女としての体面を保ててほっとしている。この国の未来を担う王子をお救いできたのは、僕にとってもこの上ない僥倖だ。



 それから数日は王子の体調を気にかける文面が続いていた。だが、この一件以降目に見えてニーヒルへの対応と境遇は良くなったようだ。蘭の輸出を国王の道楽と見做していた重臣達も、体調のことでニーヒルを頼るようになったと書かれている。それがよほど嬉しかったのだろう。二つ目の温室は薬草専門にして、一層研究に打ち込んでいく姿が書かれていた。

「……人が好きだったんだな、ニーヒルは」

 頼られるのも、世話をするのも、話をするのも好きだったのだろう。家臣だけでなく、使用人に対しても世話を焼いていたようだ。体調を崩せば折檻されるのが当然だったこの時代において、薬を与えられて休まされるというのは相当に恵まれた環境だったはずだ。噂を聞きつけた優秀な人材が集まり、小さな国土にもかかわらず国力は右肩上がりになっていった。それがニーヒルの日記から窺えた。

「食事が豪華になり、寝具が刷新され、宮廷内は清潔に保たれ、常に画家や音楽家が出入りしていた、と。うん、まさにこの世の春! って感じだな」

 ニーヒル自身の境遇も、魔女という立場を考えれば破格のものだっただろう。特に王女からの信頼が厚かった。王子の命を救って以降は、頻繁に茶会に呼ばれていたようだ。様々な国から取り寄せた、当時としては珍しい茶や菓子を振る舞われていたらしい。ニーヒルも温室から収穫したハーブティを王妃に振る舞っていたようだ。

「あぁ、それで紅茶が好きだったのか」

 茶会にはトツカが加わることすらあったようだ。王妃はトツカのことも信頼し、トツカも王女へ旅をしながら見た他国の様子を話すことがあったと書かれている。

 この後の凋落を知っているだけに、このあたりの楽しげな日記がいっそ物悲しく思えてくる。

 蘭はほんの少し重い気持ちを抱えながら、ページをめくっていった。


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