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温室の最奥

 蘭は、透明なガラスに覆われた温室を見上げて途方に暮れていた。中からは濃厚で甘い花の香りが漏れ出ている。生い茂った草木で中の様子は殆ど窺えない。唯一の出入り口らしき扉には厳重な南京錠がかけられていた。魔女の温室なのに物理的な鍵、というのが何ともおかしかったが、これまでのことを思い起こせば多分、ニーヒルは鍵をかけるという行為に馴染みがなかったのだろう。だから移動に関わる遺物がなかったのと同じ理由で、門番のような遺物が存在しないのだ。

 蘭が温室を見上げて立ち竦んでいる間にトツカは鍵を開けていた。がしゃん、という重い音とじゃらじゃらと鎖が落ちる音で扉が解錠されたことに気付いた蘭は、はっとして顔を正面に戻す。

「中はかなり複雑な迷路になってる。きっちり順路は確認したし、最悪脱出だけならどうにかする算段はつけたが、はぐれるなよ」

「……分かった」

 気を引き締める。ここはおそらく、館の中とは段違いに恐ろしい場所なのだ。

 トツカは蘭の返事を聞いて頷くと扉を押し開いた。

「甘……っ」

 甘い。途方もなく甘く濃厚な花の香りが洪水のように押し寄せてきた。種類が多いのか匂いが濃すぎるのか、それが最早何の花の香りだったのか判別することが出来ないほどだ。堪らず腕で口元を覆う。

「外に漏れてきてたのはほんの一部だったかぁ」

 前を通りかかっただけで分かるほど香りがしていたのだから、中に入れば当然そうなる。予想はしていたが正直想定が甘かった。蘭は一歩足を踏み入れただけで思い知らされていた。ここは、ただの温室ではない。

 この温室の異様さはそれで留まらなかった。花の香りに圧倒されて最初は気付かなかったが、どうにも違和感がある。その違和感の原因を探ろうとぐるりと周囲を見渡す。

「ん? あれ、ハイビスカスだよな。南国とかに咲いてる。なんで隣にサボテンが生えてるんだ!?」

 暑い場所の植物、というくくりで考えればギリギリ……いや、熱帯で雨の多い場所に生えてるハイビスカスと砂漠に生えてるサボテンを並べるセンスはちょっと分からない。本当にニーヒルは植物に詳しかったのだろうか? そんな疑問が浮かんでしまう。 口元を覆ったまま訝しげに視線を隣に移すと、隣には艶々とした濃い緑の葉の上に、鮮やかに赤い花を咲かせた低木があった。

「椿……いや、椿って冬の花じゃなかったか?」

 自信はない。だが昔見た映画で雪の上に椿の花が落ちたのを見た記憶がある。温室の温度管理の賜と言われればそうかもしれないが、少なくともハイビスカスやサボテンと並んで咲くような花ではないはずだ。

「ほら、蘭。見てみろ」

 トツカは少し意地の悪い笑顔でそう言って上空を指さした。嫌な予感を覚えながら指された先に目を向ければ――。

満開の桜の枝が頭上を覆っていた。その枝に絡みつくように朝顔の蔓が伸びている。所々に、今にも綻びそうな蕾が見える。

「それはおかしいだろ流石に!!」

 堪らずに叫ぶ。冬っぽいとか南国っぽいとか曖昧なイメージの話ではない。確実に、実感を持って、季節がおかしいと断言できる。寒桜? いやどう見てもソメイヨシノだ。見慣れた、一番オーソドックスな桜だ。朝顔が春に咲く? それはまぁあり得る話かもしれない。温度管理で時期をずらした? 旬を過ぎた果物がスーパーに出回っている以上可能なのだろう。販売するわけでもないのに、わざわざそんなことをする意味は分からないが。

「嗅いでみろ」

 混乱する蘭への追い打ちとばかりにトツカが差し出したのは一輪のタンポポだった。道端でしょっちゅう見かけたものだから間違いはない。

「タンポポに匂いなんか……」

 差し出された花に顔を近づけて、絶句する。

 タンポポの花からは、金木犀の香りがした。このごちゃ混ぜで濃密で全てが混ざり合ったような匂いの中、やけにはっきりとその香りを感じる。間違いようもない。これは金木犀だ。

「いや、でも、この中は匂いがごちゃごちゃだから何処かから流れてきた匂いが混ざって……」

「このエリアに金木犀はなさそうだがね」

 トツカはそう言って肩をすくめた。諦め悪く周囲を見渡したが、確かにあの目を引くオレンジの小さな花は何処にも見当たらなかった。見えないところから漂ってきたにしては、あまりにも匂いがはっきりとしすぎている。

「……なんか、頭おかしくなりそうなんだけど」

 自分の感覚が信じられなくなりそうだ。視覚も嗅覚も混乱が甚だしい。軽い吐き気すら覚える。

「これは、結界の一種だな。薬草に長じていたニーヒルらしいやり方だ」

「結界?」

「季節感と居場所の感覚を狂わせる。視覚情報より嗅覚情報の方が記憶に紐付きやすいからな。さ、先を急ごう。あまり長居すると、お前が持ちそうにないからね」

 そう言ってトツカは歩き出した。蘭は慌ててその後ろについて行く。ここで放って行かれたらそれこそ無事でいられる気がしない。

 混沌とした視界と嗅覚に反して、温室の中はきっちりと整理されていた。碁盤の目のように整然と区画が分けられている。区画の中に植えられた花や草がごちゃ混ぜになっているせいで、全くそうは思えなくなっているが。

「桜の隣に向日葵が咲いてるのはもう驚かないけど、向日葵から百合の匂いがするのはやっぱり違和感がすごい」

 思った以上に人間は視覚と嗅覚の齟齬に違和感を覚えるものらしい。知らない花と知らない匂いなら大して違和感もないだろう。なのに、所々よく知った花が差し込まれるせいで、そのたびにここが現実だと引き戻される。

「何だ、この木もここで育ててたのか」

 トツカが不意に立ち止まり、しゃがみ込んだ。足下には膝下ほどの高さの、この異様な温室に似つかわしくないほど普通の、そう、それこそ何の変哲もない緑の葉を付けた木があった。蘭はトツカに並んでしゃがみ込んでみる。恐る恐る鼻を葉っぱに近付けても、ただの草いきれのような青臭い匂いしかしない。

「え、あまりにも普通すぎて逆に怖い。この木って?」

「これか? ニーヒルが紙を生産するのに使っていた木だ。よく刈り取りを手伝わされたよ」

「紙? 生産? わざわざ自分で?」

 何でそんな面倒なことを、と思ったが、考えてみればニーヒルがこの温室を造ったのは三百年前だ。その時代、まだ紙は貴重品だったのだろう。何かと記録を残していたらしいニーヒルにとっては死活問題だったのかもしれない。

「あの子は記録魔でね。研究結果を記録するための紙を大量に必要としたから、そのうち自分で造るようになったんだ。あ、詳しい手順は聞くな、専門外だ」

 懐かしそうに葉を撫でたトツカは、そう言って立ち上がった。

「さて、先を急ごう。まだまだ先は長い」

「……長いんだ」

「まだ序盤だぞ。へばるなよ」


 * * *


 噎せ返る花の匂いと蒸し暑さと視覚的暴力で頭がぼーっとしてきたところで、トツカが不意に立ち止まり、振り返った。 

「ここに来る途中に百合の花が咲いていたが、それがどの道だったか、思い出せるか?」

 温室の中は外から見たよりずっと広かった。既に二十分以上歩き続けている。確かに途中に百合を見た気がするが、どこだったのかすぐには思い出せなかった。蘭は立ち止まり、頭の中で道順を思い出す。確か、入ってすぐの所に咲いていたような。いや違う、あれは確かスイセンだ。じゃあその二つ次の筋だった気がする。今はそこから四つ区画を超えた所にいるはずだ。

「えっと、四つ前の、筋に」

「咲いてたのはホタルブクロだな」

「じゃあその前」

「に、咲いてたのは向日葵だ。百合の花の香りはしていたが」

「……えぇ」

 トツカは意地悪く笑って、蘭の後ろを指さした。

「後ろを見ろ」

 言われるままに振り返る。極彩色の花々に紛れて、ほんの二つ前の筋に、百合の花がひっそりと咲いていた。

「え、じゃあ見たのはついさっき!?」

「随分前に匂いを嗅いだからな。そこにあると脳が勘違いしたんだろう」

 確かにそうだ。そうなのだが、あまりにも想定通りにひっかかったのが悔しくて仕方ない。

「でも、これ、意味あるのか?」

 憤然とそう言い返した蘭にトツカは頷いた。

「この温室は順路を外すと出られなくなる。例えば“正しい道は百合の花の一筋向こう”と言われて、百合の花がこれだと断言できるか? 香りはジャスミン、見たのは十分前、位置もあやふや――見つけ出して辿れる自信は?」

「見たら分かるでしょ」

「今実際に見落としていたのにか?」

 言い返せず歯噛みする。確かに一人でこの中を歩き回っていたらあっという間に迷子になるだろう。それどころか、十分もしないうちに匂いにやられて倒れていたかもしれない。それほどにこの温室に満ちる花の香りは濃密だった。呼吸するだけで喉の奥まで甘さに浸食される。

「……魔女になったとしても管理できる気がしないなぁ」

「それはそうだろう。ここはニーヒルの温室だ。あいつは確かに代々薬草を煎じて生きていたが、その技術は代替わりのたびに自力で身につけた技術だ。お前が魔女を継いだとして、自動的にそれが手に入るわけではないさ」

 トツカは何故か楽しそうにそう言って歩き始めた。

「じゃあ、ここはどうなるんだ?」

 背中を追いながら問いかける。これほどの複雑な温室を、誰が維持できるのだろう。

「管理するものがいなければ枯れるんじゃないか。ギンレイは中には入れないが、それでも最低限外から成長を抑制していたようだからね。それもなく野放図になればやがて室内の養分を吸い尽くして自壊する」

「こんなに育ってるのに……」

「惜しいと思うなら勉強することだ。まぁ。お前が魔女になるのなら、だがね」

 魔女になる。依然、提示されたままのその選択肢を前に蘭は立ち竦む。

「魔女になったら、俺はニーヒルみたいになるのか?」

 ここで暮らすうちに、ニーヒルがどんな人物だったのか曖昧ながらにも見えてきた。

 温厚で、お人好しで、人が好きな寂しがり屋。紅茶とケーキが好きな、どこにでもいそうな人間だ。世の中を拗ねたように見ている蘭とは根底が違う。そう感じる。別に今の自分が大好き、と言うわけではない。だが、魔女を継ぐことでこれまでの自分が変わってしまうとしたら、それはやはり少し恐ろしいのだ。

「そんなことはない。魂は同じでもお前はお前だ。ニーヒルは几帳面で研究熱心だったが、お前は……まあ、違うタイプだろうな」

「違うタイプって何だよ!」

「言葉のままだよ、蘭。ニーヒルの心臓を手に入れても、それでお前がニーヒルに塗りつぶされることはない。そんなことはニーヒルも望まないし、そもそも魔女の仕組みとして不可能だ」

 安堵すると同時に疑問が浮かぶ。

 それでは、魔女の心臓とは一体何なんだろう。これほどまでに厳重な結界に守られ秘匿しなければいけないほどの物なのか。そして、それを引き継ぐとは一体、どういうことなのか。

「……トツカ。心臓を引き継ぐって、どういうことなんだ?」

「魔女になる、ということだよ。そう言った筈だ」

「それは知ってる。俺が知りたいのはそういう概念的な話じゃなくて……実際に、どうなるかってことだ。心臓を引き継ぐって一体どういうことなんだ? 継承するって言うぐらいなんだから、何かをニーヒルから受け継ぐことになるんだろ?」

 これまでにギンレイや他の遺物、トツカの口からも繰り返し、継ぐ、とか継承、とか引き継ぐ、とか、そういった言葉を聞いた。魔女の心臓というバトンを次の代に引き渡す。それによって代替わりする。そういうものだと理解はしていた。だが具体的なことが事ここに至って、まだ何も分からないのだ。

「知識、知恵、積み重ねた研鑽。魔女が代々追い求め、研究した結果。それが魔女の心臓だよ。叡智の結晶、とも言い換えられるだろうさ」

「叡智の結晶……」

「そう。魔女が先代から引き継ぎ、己の代で磨いたものだ。魔女はその叡智を次代に手渡しながら生きてきた。とはいえ、使いこなすための修行は当然必要になる。表面的な知識を手に入れたところで、それをどうやって扱うかは別の話だ」

 トツカは再び歩き出した。蘭はトツカの言葉を反芻しながら歩く。

「花の名前は知っている。それを乾燥して砕けば薬になるのも知っている。加工の方法も分かっている。でも、実際にやって薬にするには技術が必要。そういうこと?」

「そうだ。よく分かってるじゃないか。知っている、と、出来る、の間には深い溝があるものさ」

「でも代替わりのたびにその試行錯誤するのは無駄じゃない? こういう時はこうした、って経験も引き継いだ方が楽なのに」

 唇を尖らせて異を唱えてみる。何にムキになっているのか自分でも分からない。ただ、記憶ごと引き継げたならニーヒルのことを知れたのに、という気持ちがないとは言えなかった。

「記憶というのは容量が大きい。まるまる抽出するのは無理なんだよ。それに、記憶ごと引き継いだら意味がない。何せ魔女が次代を造るのは、肉体が破損した時か精神が摩耗した時だ。その摩耗した精神を次代に繰り越したら、代替わりの意味がないからね」

「摩耗、かぁ」

 ニーヒルの場合は人間からの裏切りと、孤独。これ以上生きるのが辛いと思うほどに裏切りに心を痛め、孤独に苛まれた、ということなんだろうか。

 含みのある蘭の呟きに、トツカはフォローを入れるような口ぶりで付け足す。

「言っておくが、苦しい思いをした、寂しい思いをした、それだけが摩耗の理由じゃない。長く生きればそれだけ感じることも知ることも多くなる。既知が増えれば世界に驚きは減るし、心は硬直する。ニーヒルのように一カ所にとどまって生きる魔女は余計だろう。世界を広げ続けいつまで経っても摩耗しない変態もいるが、ごく一部だ」

「変態」

「私も会ったことはない。ただ、そういうものもいる、と風の噂でね。とにかく」

 トツカは立ち止まって、振り返った。指さす先には下に降りる階段が見えていた。

「今は心臓を見つけてしまおう。在処が確認できれば、お前も私も安心できるからね」

 心臓がなんなのか、まだはっきりとは分からない。でも、今はトツカの言葉が正しいのは分かる。

 蘭は頷いて、トツカに続いて階段を下っていった。


 階段を下った先には先程と同じような区分けされた温室が広がっていた。おかしいのは、確かに階段を下ったのに頭の上にはガラスの天井があり、日の光が入ってきていることだ。少なくとも先程歩いてきたエリアが頭上に広がっていなければおかしいのに、まるで下に降りたことがなかったことになっているようだ。

「……考えたら気が狂いそうだな、これ」

「ニーヒルが腕のいい魔女だった証拠さ。見事なものだ、これは」

 トツカの言葉には賞賛と、多少の呆れすら含まれているようだった。

 階段を降りてから、植えられている草花が見慣れない物になっていた。

「トツカ。これ……この白いのって?」

 真っ白なその植物は茎が細く、葉っぱらしいものもなかった。先端に細かい花のようなものが柳の葉先のように連なって下がっている。白さと細さが相まって幽霊のようだ。

 指さして尋ねると、トツカは眉間に皺を寄せた。

「どうだろう、私も専門じゃないからね。だがおそらくは、光合成をやめた類いの植物だろうね。何と言ったか。そう、腐生植物、だったかな」

「フセイショクブツ。初めて聞いた。幽霊の正体見たり、ってことかぁ」

 こんなものが生えてるところに遭遇したら幽霊を見たと勘違いするだろう。何だってこんな姿をしているんだ、この花は。疑問は尽きないし世界は広い。

 その一角を超えると、再び色鮮やかな花が咲くエリアだった。感覚が麻痺して驚かなくなっているが、ここも十分におかしい。おかしいが、いちいち考えていたらそれこそ気が狂う。もうそういうものだと飲み込んで、半ば無視して先へと進む。

「……そろそろか」

 トツカの言葉通り、狂い咲いたような花の間を延々と抜けると唐突に視界が開けた。

 足下には石畳が敷かれ、視界を邪魔する背の高い草木はない。広場のような場所に出たのだ。

 いや、違う。視界だけじゃない。空気が違う。ここには、あの喉の奥まで侵蝕するような噎せ返る花の香りがない。こんなに近くに咲いているのに、まるで透明な壁でもあるように、この空間には甘い香りが漂ってこない。

「ここが、温室の最奥だよ」

 トツカの指差す先に、一本の木が立っていた。緑の葉を茂らせ、鮮やかな赤い実をつけたその木は、しなやかに、静かに、佇んでいた。

「ここにあるはずだ。ニーヒルの心臓がね」

「ここに……?」

 そう言われても、魔女の心臓がどういった形のものなのかは分からないので探しようもない。とりあえず木に歩み寄って、おかしなところがないか見てみるしかない。

「いやまぁこの場所、おかしなことしかなかったけどさ」

 気候を無視し、植生も香りもごちゃ混ぜに入れ替えられて咲き乱れる植物たち。異様としか表現できない。そんな場所を越えてきたから、何がおかしいのか段々分からなくなってくる。

 誰に言うでもなくそんな愚痴をこぼしていた蘭の目に、鮮やかな青い花が目に入った。目の高さの少し上に花が付いている。この木から生えているにしては雰囲気が違いすぎる。まるで木の途中から唐突に生えているようで違和感がある。

 視線をその花の根元に向けようと下ろしていた蘭は、息を呑んで呆然と呟いた。

「ぅ、わ、何だ、これ」

 花から伸びた茎、その先の根が、そう太くない幹を巻き込むように巻き付いていた。幹の表面を這っているのではない。まるで幹の中へと潜り込み、内側からその木を乗っ取ろうとしているかのように、樹皮の隙間にめり込んでいた。まるで、そう、まるで寄生するかのように。

 ぐちゃりとした、呼吸するような感触がそこにある気がして、蘭は思わず身を引いた。

「どうした?」

 異変に気付き駆け寄ってきたトツカに、その根を指し示す。

「これ……寄生、してるの?」

 だが、一瞬眉を寄せたトツカはすぐに表情を緩めた。そして、何かを懐かしむように小さく息を吐き出した。

「これは寄生ではなく着生、というやつだ。この木から栄養を奪ってはいないよ。しかし、そうか、お前はそうやって隠したのか」

「……トツカ?」

「お手柄だ、蘭。ニーヒルの心臓はここにある」

 トツカはそう言って木のもとに歩み寄った。顔を歪めたまま、蘭もそれに続く。

「この木はナナカマドと言ってね。魔除けの意味がある。ニーヒルはこの木をゴールだ、とは書いていたが、はっきりと心臓の在処は書いていなかった。だが、これだ。この胡蝶蘭が、おそらくは」

「胡蝶蘭!? これが!?」

 こんなところで聞くと思っていなかった花の名前を耳にして、思わず叫ぶ。胡蝶蘭って、店の開店祝いとかで送られるあの白い花だよな。高級な花だった気がする。いや、それ以前にあの花は普通に鉢植えに刺さってるぞ。こんな、わけの分からない根っこで気に寄生なんかしてる所を見たことがない。いや寄生じゃなくて着生だっけ。今の蘭にとっては、どちらも同じことだが。

 それに、蘭の知る胡蝶蘭はおしなべて白い花弁だった。赤やピンクや黄色は探せばあるかもしれないが、少なくとも青い胡蝶蘭なんて見たことも聞いたこともない。

「そうだよ。ニーヒルは研究で青い花を作り出したと随分と熱弁していた。この花のことだったのか。もう少しまともに話を聞いてやれば良かったな」

 言いながらトツカは指先を蘭の根元へと運んだ。呼応するように、根元が絡みついたあたりの幹が輝き出す。

 指先が光に届く直前、トツカは目を見開いて大きく一歩退いた。蘭も腕を引かれ引き摺られるように後退する。

「え、ちょっと!?」

 勢いよく転がった蘭の目の前で、それまで立っていたあたりの石畳が太い槍に貫かれ飛び上がっていた。

「……えぇ」

 唐突に襲ってきた直接的な攻撃に呆然としてしまう。あのまま立っていたら良くて吹き飛ばされ、悪ければ串刺しだ。冷や汗が出てくる。

「ようこそ、魔女の卵。それとも、何故ここへ来た、と(なじ)べきであろうか」

 無機質な、男とも女とも付かない平坦な声が温室内に響き渡った。今まさに害をなそうとしたとは思えない程に感情のない声に、もしかしてこの声とさっきの攻撃は無関係なのかと錯覚しそうになる。

「随分手厚い歓迎じゃないか。誰だか知らないが、お前もニーヒルの遺物だろう? ここにいるのが魔女の卵だと分かっていて攻撃したのか」

 トツカが憤然とした声で問うた。

「ここには、もとよりこの森には存在し得ぬ草木、花、苔、そういったものが保管されている。ここからは、何一つ持ち出させるわけには行かぬ。たとえそれが魔女の卵であってもだ、剣の魔女よ」

「持ち出すと決まったわけでもないのに先制攻撃は過剰反応だと思うがね」

(なれ)は、心臓に触れようとした。それはすなわち、()への攻撃である」

 声は空間そのものに響いていた。どこからともなく、温室の空気が形を持ったかのように語りかけてくる。

「いきなり心臓に触れようとしたことは謝る。奪いたかったんじゃなく、在処を確認したかったんだ。心臓の場所が分からないままなのは不安だったから。姿を、見せてくれないか」

 蘭は立ち上がり、空間に向かって叫んだ。

「汝は既に見ている。吾はこの楽園の管理者にして、魔女ニーヒルの遺物」

 蘭は眉を顰め、温室を見回す。既に見ている? だが、ここに来る道中それらしい道具や遺物らしきものは見かけなかった。まさか、ここに生えている木が遺物だというのだろうか?

()は、この温室そのものである」

「……そう来たかぁ」

 ロッキングチェア、カーテン、箒、剣、鈴。喋る遺物はたくさん見てきたが、建物そのものが遺物とは。スケールの大きさが尋常じゃない。だが考えてみれば納得は行く。ここはニーヒルの研究の中心部だったのだろう。ここで過ごす時間も長くやることも多かったはずだ。そして、これまでの傾向からニーヒルは必要なところに必要な物を造っていた。植物の管理は一番何かの手を借りたい部分だろう。

「トツカは知ってたの?」

「いや……流石にこんな神秘の中心部にずかずかと踏み込むわけにはいかないからね。今は必要だから来ているが、本来は隠すものだ。しかし、そうか。なかなかやるじゃないかあいつ」

「じゃあ貴方もギンレイ……えっと、銀の鈴が目覚めさせた? ニーヒルと共に眠った遺物だったのか?」

 何処に向かって話しかけていいのか分からず、とりあえずそのまま前を向いて問いかける。

「いや。吾が止まればここの植物は死に絶える。取り返しが付かぬ。故にニーヒルは吾にその心臓を預けた。心臓が砕けるまではここを残すと、ニーヒルは決めたのだ」

「ああ、だから心臓に触れようとしたことが攻撃、と言ったのか。心臓を奪われればここは維持が不可能になる、そういう仕組みなんだな?」

 トツカの問いかけに、空気が震えた気がした。それが温室の肯定だったのだろう。

「なぁ。俺が魔女になると決意し、この場所を存続したいと願ったら、俺に知識がなくても貴方が管理できるのか?」

「肯定する。それが吾の役割故に」

「逆に、俺が魔女を継がない、と決めたら貴方はどうするんだ?」

「心臓が砕けるまでは維持しよう。その後は、全て枯らす。種の一つ、枝の一つ、花粉の一つも外に漏らさぬように」

 そのあまりにもきっぱりとした宣言に蘭は目を見開いた。ここまで手をかけて作り上げた温室を、全て自分の手で枯らすというのか。

「勿体ない……そうしないといけない理由があるのか?」

「ここには、この森には存在し得ぬ草木、花、苔がある。もとよりここにない筈のもの、強すぎるもの、毒を持つもの。ひとたび根付けば、森全体が侵食される。故に、決して外へは出さぬ。今は結界により外界から隔絶されているが、吾が止まれば封印は破られる。その前に、枯らさねばならぬ」

「あー、生態系、狂うもんな」

 葛だったかが海外では侵略的外来種としてめちゃくちゃ嫌われてる、なんて話も聞いたことがある。殆どは気候に適合せず枯れるだろうが、それを乗り越え逞しく定着する植物もあるだろう。一度根ざしてしまったら根絶は困難になる。出さないことが重要なのだ。

「そう言われたら無闇に反対できないなぁ。それにしても、思ったよりも現実的な理由なのが意外だ。もっとこう……秘密を外に漏らしたくないとかそういう理由なのかと思ったのに」

「花だけあっても、薬は作れないからな。そういう意味では、ここに生えているだけなら秘密ではないんだろう。心臓以外はね」

 確かに、ここの植物を具体的に何に使うのか蘭にはさっぱり見当が付かない。植物だけあってもそれを生かす知識と知恵がなければ意味がない、ということなのだろう。道中で見たあの紙の材料になる木だって、あれが何をどうやって紙に変わるのか想像すら付かない。 

「トツカ、もう一度ここに来たい、と言ったら可能?」

「そりゃあね、一応道順は分かった。お前も、野放図に植える場所を変えることは出来ないはずだね? これはニーヒルの造った結界でもあるのだから」

 温室は重々しく答える。

「然り。吾は維持しか出来ぬ。次も同じ道でここに辿り着くであろう」

「温室。俺、今日は心臓がここにあるかを確かめに来ただけなんだ。魔女を継ぐかどうか、まだ決めていない。そのうち決めなきゃとは思ってるんだけど……その心臓は、どれぐらい持つの?」

「心臓そのものを動力にするなど例がない。故に、正確なことは言えぬ。だが、この封印を維持するだけであれば、季節が巡るまでは持つであろう」

「……一年か」

 ギンレイが蘭を迎えに来たのは三ヶ月弱前。その時に、ニーヒルが死んだから迎えに来たと言っていた。逆算すれば保ってあと数ヶ月と言うところだろう。業腹だが、ギンレイの遺物を押さえ込めるのは数ヶ月、という言葉とも符合する。あれが事実だったら、という前提が既に怪しいのだがそれはそれとしてだ。

「汝が魔女を継ぎ、この場所に魔力を与えるか。あるいは、魔女を継がず、ここを滅ぼすか。または何もせず、やがて訪れる崩壊をただ待つか――選択は、汝に委ねられている」

 温室の声は静かだった。その中にある確かな重さに、蘭は息を詰めた。


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