謎の男
これは、おとぎ話の魔女の昔話。
とある国のとある場所、深い森の奥に魔女の工房があった。
工房の主は、魔女ニーヒル。薬を煎じ、人を癒やしながらも、人から隠れ住んだ魔女。
永い時の果てに、魔女は眠りの時を迎えた。
だが、魔女ニーヒルは後継者を指名しなかった。
魔女の道具は魔女にしか従わない。だから、道具達は遺物となり、魔女の住処であった館にそのまま捨て置かれている。
魔女ニーヒルは後継者を指名しなかったが、子供を残していた。
ニーヒルはその子供に魔女の仔だと伝えなかった。
産み落とし、魔除けの加護を授け、そうしてその子供の元から去った。今から十九年前のことである。
魔女がおとぎ話の登場人物と見做され、人々から忘れ去られてから、長い時が経っていた。かつて世界中に点在した魔女の存在を知るものは少ない。
だから、魔女の仔は何も知らぬまま保護され、育った。
魔女の住む深い森から遠く離れた、この現代の日本という国で。
「というわけで、あなたがその魔女ニーヒルの子供です、蘭」
大学に行こうとアパートの扉を出たところで鉢合わせた男は、にこやかな笑みを浮かべて一方的にそう宣った。
すらっとした細身の長身。整った顔立ち。黒いシャツに銀地のベスト。ご丁寧に、ベストには銀糸で何やら幾何学模様のような刺繍が遇われている。同じような銀地のスラックスは折り目正しく皺一つない。
一見すれば執事のような出で立ちだが、何分全身が銀色に輝いているので、執事というよりはどこぞのホストのようだ。にこやかで整った顔立ちがそれを加速させている。
蘭はその男の顔を見て、全身を確かめて、もう一度顔を見た。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
「いや、ちょっ……っと待ってもらっていい? 具体的には今日の夜まで。今から俺大学行くので。それどころじゃないっていうか」
若干の現実逃避を込めて放った言葉は、男に柔らかく打ち返される。
「構いませんよ。まぁ、戻ってきた頃にはこの国の半分は瓦礫の山になっているかもしれませんが」
「……あー、そうなんだ。頑張って」
蘭は曖昧にそう言い捨てると、男の隣を通り抜けて廊下を駆け出した。
こういう手合いは無視するに限る。関わらないのが最善だ。
だいたい、何と反応を返せばよかったんだこの場合。それは大変、すぐに向かわなくっちゃ! とでも言うと思ったのか。冗談じゃない。こちとら奨学金で大学に通っているんだ。下手に単位も評価も落とせないんだぞ。出席日数不足で落とすなんて勿体ない真似、出来るわけがない。真偽不明な国の半分と自分の出席日数なら、後者を優先するのは当然のことだろう。
「では、夜に。それまでなんとか持たせましょう。お気をつけて」
男の言葉を背中に受けながら、蘭はアパートの階段を駆け下りた。
いつも通りの時間に出たから、電車が来るまで後七分ある。玄関でもたついた時間を加味しても、ぎりぎり間に合う計算だった。いつもより早足になりながら、ふと気付く。
「……あいつ、俺の名前知ってたな」
蘭、という名前は男としては珍しい方だろう。もっと奇抜な名前のクラスメイトもいたが、だからこそこの至ってシンプル、かつ性別に見合わない名前は目立っていた。名前だけ見て女だと間違えられたことは枚挙に暇がないし、それでヒソヒソと下らない陰口をたたかれていたことも知っている。
だから、自分の名を知られていることはそうおかしなことではない。
だがあの妙な男は、男である蘭に向かって、躊躇いも確認もなしに蘭、と呼びかけた。
親も、兄弟も、それどころか親戚すらいない、出生不明の自分に向かって。
この名前は、蘭が握りしめていたお守りと身体をくるんでいた布に蘭の花が装飾されていたことから名付けられた。名付け親は生まれて間もない蘭を保護した施設のセンター長だ。正直もうちょっとどうにか――捻るなり、文字を付け足すなり――出来たのではないかと思わなくもないが、拾われた身分なので文句も言えない。
それに成長するにつれ、名前でどうこう言われることよりは施設育ちであることをどうこう言われることの方がはるかに多くなった。そうなればこの名前のことなど些細な問題だ。
それが何だ。ずいぶんと急展開じゃないか。
「成人したから迎えに来たとか? いやだとしたら半端だよな。来るなら去年か来年だろ。十九だぞ、俺」
あれが本当に家族の関係者なのかは信用できないし、それより何より、あの男は何かとんでもないことを言っていなかったか。
「……魔女、ねぇ」
騙すにしてももうちょっと言葉と設定を選べよ、と思う。あれでほいほい付いてくると思われたのか? なら相当馬鹿にされている。
とりとめなく考えながら歩いていた蘭は、安物の腕時計に目を向ける。電車が来るまであと三分に迫っていた。考え事のせいでいつもより歩くのが遅くなっていたらしい。これで遅刻したら覚えてろよ、と名も知らぬあの男に悪態をつきながら、蘭は猛然と駆け出した。
帰ったらいなくなってないかな、なんて甘い願望は、あっさりと打ち砕かれた。
「お帰りなさいませ」
帰宅した蘭が目にしたのは、部屋の前に朝と全く同じ状態で立っているあの妙な男だった。
国の半分が瓦礫になる、などと巫山戯たことを言っていたが、国どころか街ですら静かなものだ。拍子抜けのような気分で帰ってきたというのに、部屋の前に立つ男の姿を目にした蘭は、曰く言いがたい悪寒が上がってくるのを感じた。
「……ご丁寧にどうも」
なんとなく、よくない。この男を邪険に扱うのはよくない気がする。かと言って親密にもなりたくない。刃物ほど鋭利ではないがスプーンほど穏やかでもない、言うなればフォークで鎖骨のあたりを突かれているような嫌な緊張感がある。そう、それは今すぐに命の危険はないが、その気になれば即座に命に関わるような。そういった種類の危機感だった。
「お話、よろしいでしょうか?」
「長くなる?」
「ええ、まあ、それなりに」
蘭は一瞬であらゆる可能性を考えた上で、部屋の鍵を開け、男を招き入れる。
「じゃ、どうぞ。散らかってることに言及したら蹴り出すから」
こいつは蘭の名前を知っていた。そしてどうやら、蘭自身も知らない出自を知っているらしい。その上で家に来た。どうせ一人暮らしなのも知っているだろうし、逃げ場はない。それならとっとと用件を済まし帰ってもらう方が賢明だろう。
蘭に続いて扉を潜った男は靴を脱ぎ、玄関で丁寧に靴を揃えてから部屋に入ってくる。適当に脱ぎ捨てた自分との差に若干苦い顔をする。育ちが悪いといわれれば否定のしようもないが、それを言い訳にしたくない気持ちもある。
「では、話の続きですが」
部屋に入るなり男は口火を切った。
「魔女ニーヒルが死亡しました。貴方の母に当たる方です。そして、都合の悪いことにニーヒルは後継者を指名しませんでした。私はニーヒルに変わり一時的に遺品の管理を任されておりますが、何分魔女の遺物です。一刻も早く本来の後継者に継いでいただきたく、参上した次第であります」
「……まず、名乗れ。俺の名前だけ知ってるのフェアじゃないでしょ。次、証拠を出せ。与太話に付き合うほど暇じゃない。それから、それ俺に何か利があるの? お金になるとか? あと、その俺の母親とか言う人は俺を捨てたのに何故俺がその尻拭いをしなきゃいけない?」
この非現実的な話をいきなり信じろと言われても無理な話だ。だからひとまず、そうやって吹っかけてみる。もし冗談や悪ふざけでこんなことを言っているなら、どこかでボロが出るはずだ。
蘭の言葉に男はいささか驚いたように黙りこくった。まるで思いがけない反論を受けたと言わんばかりの反応で、蘭の方が呆気にとられる。そんな無茶なことを言った覚えはない。人間社会の規範で言えばごく普通の要求だ。やっぱり魔女の関係者などと非現実的なものを名乗るようなやつは常識がなってない。関わり合いたくないなぁとぼんやり思う。
「失礼いたしました。私どもは名乗る習慣がありません故、名乗る名も持ち合わせません。ですがそうですね……ギンレイ、とでもお呼びいただければ。証拠につきましては、この後私と共に来ていただければお見せ出来ましょう。百聞は一見にしかず、とも申しますし。利と尻拭いについてはそうですね……貴方が魔女の仔である以上は遺物を引き継ぐことが利であり義務でもある、とでも申しましょうか。遺物が暴走すれば国が吹き飛びますので、そうならないよう管理することで暮らしを守るのが利、と言いますか」
ギンレイと名乗った男は立て板に水をぶっかけるかのごとく一方的に話し始めた。納得のいかないことばかりだ。あまりにも勝手な言い分にむかついてくる。
「断るって言ったら?」
「ええですから、国が半分吹き飛びます」
「曖昧!」
「暴走したら物理的に爆発します」
ぽかん、と口を開く。何だそれは。そんな話を信じろというのか。
呆気にとられた蘭に気付いたらしい男は、小さく溜息をついた。そして、身につけたベストのポケットから何やら小さな金属製の塊を二つ、取り出した。その丁寧に磨かれた嫌みなほど形のいい爪で二つの塊をつまみ上げる。
「例えばこれはごくごく小さなものですが、魔女の遺物です。魔女の管理下にない状態でこれらが強くぶつかり合うと」
「ぶつかり合うと?」
「このアパートが跡形もなく……」
「はぁ!?」
物騒すぎる。まさかそんなわけがないと思うが、仮に本当だったとしたら取り返しがつかない。たまらず後ずさった蘭に笑顔を向けながら、ギンレイと名乗った男は塊をポケットにしまい込んだ。
「今は、私が管理を委譲されているため危険はありません。しかし、それも長くは続きません。本当の持ち主が制御しなければ」
「その物騒な塊以外には?」
「無数にございますね」
「……で、その持ち主が俺だと言いたいわけ?」
「理解が早く助かります」
何処をどこから突っ込んだらいいんだ。信じられるわけがない。そりゃ確かにこの日本という国の社会に馴染めない気はしていた。でもそれは所謂、厨二病の延長でありこじらせた大学生のモラトリアムの延長戦だと思っていた。自分の存在が本格的に社会にとって異物だなんてさすがに思いもしなかった。
「……魔女、ねぇ」
熟考の末、ようやくそれだけ呟く。
「いや、待てよ。そもそもおかしくないか? 俺は男だぞ? それが魔女?」
「ああ、そんなことですか」
ギンレイはひどく意外そうな顔をした。
「ニーヒルも男です」
「母っつったろ!?」
さっきの今でその掌返しはおかしいだろうが。たまらず上げた叫び声にもギンレイは全く動じるそぶりを見せなかった。
「魔女が仔を残すのは死期を悟った時。そして魔女は単性生殖です。つまり貴方は魔女の仔といいつつニーヒルの生まれ変わりともいえます」
「それは大分話が変わってくるだろ!?」
駄目だ、ちょっとついて行けない。蘭はたまらず両手で顔を覆った。何を言っているんだこの男は。魔女の仔であると同時に魔女自身でもある? 魔女の血を引いている、と魔女そのものである、では話が全然違うじゃないか。
「そうですか? 貴方はニーヒルの仔であり、同時にニーヒル自身である。それは変わりませんよ。大事なのは」
ギンレイの気配がすぐそばに近寄ってくる。逃げる気力もなく、蘭はその長身を見上げる。艶やかな銀糸を編み込んだ銀地のベストに黒いシャツ。よくよく考えれば相当奇をてらった格好だ。初見でホストか、なんて思ったがとんでもない。流石に歌舞伎町にもこんな銀まみれなホストはいないだろう。
だというのに、今の今までそれに気付かなかった、というか意識が向かなかった。それをおかしいと思わせない雰囲気があったというよりは、それが当然のことだと受け入れてしまっているような。
「大事なのは、貴方がニーヒルである、ということだけです。必要なのは継承の儀式だけ。本来は存命中に次代に引き継ぐのですが、今回はそれが巧くいきませんでした。でもご安心を。先代の名代として、儀式は私が滞りなく行いますので」
「ちょちょちょ、なんか俺が魔女になること前提で話が進んでないか?」
「えぇ、それはそうでしょう。魔女になるも何も、貴方は次代のニーヒルですので」
「拒否権は?」
ギンレイはまたも不思議そうな顔を浮かべて首を傾げた。
「拒否をする理由がおありで?」
「いやまぁ正直今の段階では魔女になったことによるメリットもデメリットも分からんし。即決は出来ないだろそりゃ」
「……そうですか。そういうことでしたらまずは魔女の生活を体験なさるところから始めればよいかと。そうですね。言うことを聞く遺物をいくつか寄越しましょうか」
「言うことを聞く遺物?」
鸚鵡返しに尋ねた蘭に、ギンレイは微笑んで頷いた。
「遺物の中には、先代が継承を行わなかったことを不満に思うものもおります。貴方がまだ魔女でない以上、貴方の魂がニーヒルであったとしてもすべてが従うとは限らない。だからこそ貴方には一刻も早く継承を行っていただきたい。ですが、貴方の魂に忠誠を誓ったものであれば今の貴方の命令にも応じるでしょう」
「具体的にどんなものなの、遺物って。さっきみたいな物騒なヤツ持ってこられても困るぞ」
接触して大爆発、なんてものが身近にあるのは正直ぞっとしない。それを管理しろなんてもってのほかだ。だが、難色を示す蘭にギンレイは頭を振ってみせる。
「いえ、ああいったものばかりではありません。まぁ、流石に今すぐに、とは参りませんので。明日の夜、いくつか持参します」
「……はぁ」
とりあえず帰ってくれるつもりになったらしい。なら、今日はそれでいい。これ以上話していても何も頭に入りそうになかった。ひとまず明日に棚上げ出来るならそれに越したことはない。
「じゃ、また」
「ええ、ではまた明日」
ギンレイは美しい角度でお辞儀をして踵を返した。無駄のない所作で部屋から出て行き、扉の前でもう一度一礼して静かに扉を閉めた。無駄のない無駄に洗練された美しい所作だった。
「何だったんだ、結局」
蘭の途方に暮れた呟きに答えるものはいなかった。
翌日、もしかしたらあれは夢だったんじゃないか? という蘭の儚い願望はあっさりと打ち砕かれた。大学から戻った蘭を待ち構えていたかのようなタイミングで、ギンレイが家を訪れたのだ。
「お帰りなさいませ」
「いや先に帰ったのは俺だから。というかアンタにお帰りと言われる義理はない」
これを認めたら家に居着かれそう、という咄嗟の判断で言い返す。何かこいつは言葉尻を捉えていいように解釈しそうな気配がする。迂闊なことは言えないと唇を引き締める。
ギンレイは一瞬眉を下げたように見えた。ほら見ろ今の言質取ったと言い出す気だっただろ。蘭は口に出さず悪態をつく。
「では、魔女の生活体験、ということで」
そんな蘭の思惑を知ってか知らずか、ギンレイはすぐに気を取り直したようだ。にこやかに笑みを浮かべ深さのある桶のようなものを差し出してきた。
「こちら、中に衣服を入れ水を注げば勝手に洗濯が完了する洗い桶でございます。なんと乾燥まで仕上げてくれる優れものですよ」
「……へぇ」
思わず曖昧な返事をする。なんかもっとこう、すごいやつが来ると思ったのだ。何せ昨日眼前に突きつけられたのはアパートが木っ端みじんになるという謎の金属玉だった。なのに、これ? という肩透かし感が半端ない。
「それ、洗い終わったら勝手にたたまれてタンスに仕舞われる?」
「……? いいえ、終わったら取り出して畳みますが」
「意味ない! 意味ないねそれ! 洗濯機ならうちにあるから! なんなら乾燥も出来るから! 一番やって欲しいのはその先だよそこまでなら家電で出来るんだよ! 何だよ魔法のくせに夢がないなぁ!」
蘭の抗議にギンレイは困った顔をした。
「洗い上がった衣服を畳んで仕舞うのは私の仕事ですので……」
一瞬、じゃあ俺が欲しいのはお前だよ、と言いかけてすんでの所で言葉を飲み込む。危ない。それを言ったらそれこそ言質を取ったと言われる。蘭は落ち着くために目を閉じて頭を振った。
「……持ってきたのはそれだけ?」
「いいえまさか! 他にもこちら」
そう言ってギンレイが取り出したのは小ぶりな真鍮製らしき吊り下げ鐘だ。多少汚れているが、錆びや風化は見られない。その汚れもちょっとしたアンティークな雰囲気を醸している。お洒落なカフェの入り口に呼び鈴として据え付けられてもおかしくなさそうだ。
「これは呼び鈴?」
「いえ、太陽が特定の場所に昇ったら音を出して主を目覚めさせる鐘です。なんと自動で鳴ります」
「そっかー。お洒落だねー。でも鐘である必要ないね」
尻ポケットに入れていたスマホを取り出してギンレイの前に置く。
「今はね、これで何でも出来ちゃうので……目覚ましもここに内包されているので……」
「この小さな、板に、ですか?」
「そ。まぁ流石に調理は出来ないけどさ。それ以外のことなら大抵……」
「調理は出来ない、と。では次はこちらをご覧ください」
勢い込んでギンレイが取り出した次の遺物は、一枚の石の板だった。まな板のようにも見えるそれを受け取った蘭は首を傾げる。
「これは?」
「調理用の石板です。この上に食材を置けば、焼く、煮る、蒸す、あらゆる調理を意のままに行えます。焦げ付くこともありません」
便利でしょう、とでも言いたげに満面の笑みで差し出されたそれをテーブルの上に置いて眺める。見た目は何の変哲もない、大理石っぽい見た目の板だ。種も仕掛けもなさそうに見える。
「この石板ならば、火加減の失敗もありませんし、後片付けも水で流すだけですよ? ニーヒルはよく火加減を失敗して折角の肉を丸焦げにしていました。しかしこれを作成してからはそのようなこともなく、ええ、大変素晴らしい道具です」
「うんそれね、ホットプレートとかIHクッキングヒーターで代用できるね」
「ほっと、ぷれーと?」
きょとんと首を傾げるギンレイに、蘭はキッチン下の収納を指さす。
「電気で調理する器具。同じように直火を使わずに調理できる道具があるんだよ」
「何と……」
「最近の調理器具も結構便利なんだよね……というか、魔女の遺物っていう割に所帯じみてるな!?」
もっとこういかにもなマジックアイテムが飛び出てくると思ったのに、さっきから聞いていればずいぶん生活に密着している。それも家電で代用可能な程度のテクノロジーをいかにも大発見とばかりに披露され、ほんの少し哀れに思う。こういうのを車輪の再発明、と言うんだったか。
「便利とは言うけど、割と……原始的な生活だったんだな」
精一杯言葉を選んで述べた感想に、ギンレイは心なしか落ち込んでいるように見えた。
「魔女の遺物とは、魔女が一人で暮らす中で不便を解消するためにある物です。自然、生活に密着した物になります。しかし、そうですか……人の世は、これらをとっくに克服していたのですね」
「いや、確かに電源なしで使えるなら便利かもしれないけど」
何故こんな男に気を遣ってフォローの言葉など述べているのか分からない。が、折角意気揚々と持ってきたものが全く響かなくて落ち込んでいる姿を見ると多少忍びなくもなってくる。
「まあ逆に言えば、魔女の生活でもある程度不便なく暮らせることは分かったし、な?」
「では魔女に?」
「それとこれとは別」
「……そうですか」
今度は明らかにがっくりと肩を落としたギンレイの姿に、良心のような何かが痛む。別に自分が悪いことをしているわけでもないのにだ。これ、もしかして罪悪感を植え付けようとしてないか? そう思い至った蘭は長く息を吐いた。危ない。こいつのペースに取り込まれるところだった。
「他に何か心躍るものがあれば話は変わってくるけどさ、魔女になってもならなくても生活が変わらない、むしろ不便になるんなら俺にメリットないよ」
「世界の半分が瓦礫に成り果ててもですか?」
「おい何しれっとスケールアップさせてるんだ。昨日は国の半分っつったろ」
ギンレイは悪びれもなく首を傾げて見つめてくる。蘭はその嫌みなほど整った顔から目をそらしつまらなそうに唇を尖らせた。
「真偽不明の脅しは通じない。そう言ったろ」
そりゃ多少は気になる。気になるが、はいそうですかとそれに乗れるほど子供でもない。折角通っている大学を捨てて進路変更するにはリスクが大きすぎる。
「……分かりました。では、この社会でも体験できないような利便性、ないし驚きがあれば信用していただけるわけですね?」
「まぁ、そんなものがあるなら」
「では私も策を練りましょう。さしあたり、貴方が暮らすこの社会を知らねばなりませんね。そういうわけで、少しの間こちらに居候させていただきます」
「ちょっと待てやっぱりそういう魂胆か! 断る! ただでさえ狭いんだぞこのワンルーム!」
「ご心配なく。これでも私も魔女に連なるもの。必要のない時はこのように姿と気配を消すことが出来ます。物理的な重さも殆どありません」
そう言うギンレイは蘭の目の前から言葉通り姿を消していた。声だけがどこからともなく響いてくる。部屋中見回しても、この狭いワンルームのどこにいるのかさっぱり分からない。
「それから、洗濯物を畳んで仕舞えます」
「くそっ変なところで所帯じみたアピールしてくるな」
心が揺らいでしまったのは事実だ。一人暮らし、量は多くないし適当でも困るのは自分だけだがそれでもどうしたって家事というものは発生する。負担が減るのは正直ありがたい話ではあるのだ。
「……魔女になる確約はしない。期限は夏休みまでの二ヶ月。それまでに俺を説得できなかったら素直に出て行く。約束できるか?」
「はい、勿論」
すっと、どこからともなく再び姿を現したギンレイは満面の笑みで即答した。
どうせ出て行けと言ってもあれこれ言って了承しないしこれからずっとつきまとわれるのも面倒だ。夏までにケリがつくならそれでいい。
「分かったよ……。好きにしろ」
それに、ほんの少し、ほんの少しだけだが、この男が次にどんな頓珍漢な物を引っ張り出してくるのか、興味があるのも事実だった。
「では、支度を調えて参ります。明日の夜、また」
ギンレイは美しい角度でお辞儀をすると、その姿を消していった。
「……昨日玄関から出て行ったのは何だったんだ」
扉を無視して出入りできるのに蘭の帰りを待っていた、というのは一応部屋の主を尊重してのことだったのかもしれない。
「変なところで律儀だな」
ふと、口元をほころばせてそのような言葉を吐いたことを自覚して、蘭は慌てて頭を振る。あまり気を許しすぎない方がいい。絆されてなるものか。
そう誓ったのもつかの間、数日後には蘭はギンレイのペースにすっかり巻き込まれているのだった。