第16話 投資、絹の生産事業
リタがアルベルトから奪うように握ったのは、羅針盤を包んでいた汚い布。
「ジャンナ……ああ、ジャンナ……」
リタが両手で握りしめた布を胸に当て泣き崩れる。
そこにいる全員は彼女に声を掛ける事をせず、ただ、その姿を眺めるしか出来なかった。
しばしリタを見守る時間が流れ、落ち着いた彼女は静かに話す。
「この絹の布はジャンナが十四歳の時、撚糸から織りまで初めて一人でやった物なの」
「それ絹だったですか?」
「汚くて絹じゃないみたいですー」
双子たちだけじゃない。撚糸のできの悪さからだろう、綻びているし汚いし。私だって絹だとは思わなかった。
「ふふ、そうね。下手くそな絹織物だわ。それでもね、ジャンナが小さな手で一生懸命作ったものなの。出来上がったものを嬉しそうに私に見せびらかしてね……」
強くなった雨の音の中、優しい微笑みで布を見つめるリタが話を続ける。
小さい頃のジャンナは蚕の幼虫の餌、桑の葉を上げる手伝いをよくしてくれる子だった。1日中、蚕室にこもって幼虫が成長するのを観察してたほど可愛がっていた。
育てた蚕の繭を煮るときに毎回かわいそうだと泣いていたが、蚕の命を頂いて家族が生活をしていく事、作った絹が多くの人達の生活に役立っている事を知り、理解してく。
いつか大人になったら、リタのように綺麗な絹を作れる職人になると言って、いつも作業を覗いてた。
「……全工程を一人でやって作ったこの絹。随分と迷いながら作ったのね、撚糸職人になるか航海士になるか」
「リタさんほどの職人になると、作り手の迷いもわかるんですか?」
「いいえ、職人だからじゃない……わかるのは、私があの子の母親だからですよ」
リタの話を涙ぐみながら聞いていたアルベルトが一歩前に出る。
「ジャンナのお母さん、その絹、差し上げます。これも……」
そう言って、彼は羅針盤も差し出した。
「いいえ、アルベルトさん。それはいらないわ。私からジャンナを奪った航海士が使う物なんて、まだ平穏な気持ちで見られそうにないもの」
これは半分嘘だろうと思う。きっとアルベルトへの優しだろう。
「アルベルトさん、あなたはジャンナの恋人だったのかしら?」
「はい……」
「そう、あの子はちゃんと恋を経験できたのね……ありがとう。アルベルトさん」
斯くしてリタは娘、ジャンナの形見を手に入れた。彼女の心に引っかかっていた後悔の念も少しはほぐれただろう。
ここが交渉のチャンスだ。
「リタさん! もう一度、絹づくりをしてみませんか? このグレゴリアス領のためにも貴女のちからが必要なのです」
「ふふ、現金なお嬢様ですね。私を復帰させるためにジャンナの恋人まで探しに行ったのでしょう」
その通りだ。しかし、リタのような相手にはハッキリとズバっと言ったほうがいい。
「ええ、下心でジャンナの航海士としての足取りを調べました」
「正直な方ね。そういう人は嫌いじゃないけど……でも、今更」
あと一押し。
「いいえ、撚糸のための機械や機織機を見ればわかるわ。埃一つ付いていないもの。ずっと手入れしていたんじゃなくて?」
「手入れをしていたのは、暇つぶし……みたいなものですよ。やっぱり復帰する気には」
もう一押し必要か。なにか、なにか取り繕って組み立てられる交渉の言葉があれば。
「リタおばさんちの虫の部屋、いっぱいイモ虫がいるですよー」
「ナタリア葉っぱ毎日あげてるですー」
ナイスだ双子!
「やっぱり養蚕は続けているのですね、結局、貴女は根っからの撚糸職人なんですわ」
「ふふ。私の負けよ。でも、私一人で絹を作ってもお嬢様が求める量の生産なんて出来ないと思うわ」
言質取ったぁ!
確かに、リタ一人の生産量はたかが知れている。が、しかし!
「今からバンバン弟子を取って、人材育成しましょう!」
「そんな人材、すぐには集まらないですって」
「いるじゃない! 若くて職を求めている子たちが。ね、ロザリア、ナタリア」
我ながら良いアイデアだ。職人になるなら若いうちからの方がいいし、双子たちならばリタと良好な関係だろう。
「さすがにうちには、二人も雇うお金は無いですよ」
「そこはお任せを。双子のお給料は私が出します。量産するための設備や材料費も全部」
「いえ、お嬢様。いくらなんでもそこまで面倒を見てもらうわけには」
「いいえ! これはビジネスよ。私も美味しい思いをちゃんとさせてもらいますから!」
これは事業投資だ。株主として出た利益の中から相応の配当を貰う。
「男手も必要ね。そうだ、アルベルトさん! あなたもここで働きなさい」
「え、でも俺……」
「どうせ日雇いでしょ? ここからヴァンドールに帰るお金だって無いくせに」
「……それは図星ですけど」
「じゃあ決まりね! あなたのお給料も私が出すわ!」
アルベルトにとってもその方がいいだろう。いつまでも海にトラウマを抱えて酒に溺れる毎日よりよっぽど健全だ。
「なんだか、急に絹が作りたくなってしまったわね。この季節なら夏蚕から始めるとするかね」
夏蚕――夏に生まれる蚕での生糸づくり。栄養のある夏の桑の葉で良い品質の絹ができそうね。
こうして、外貨獲得のための絹づくりは始まった。
設備、増築、人件費。これらの為にロートシュヴェールト銀行からの借入の大部分を投資することになった。
「それで、リタに八〇万エウロもあげちゃったのかい?」
「あげてないわ、投資よ。投資。条件があるのよ」
「どんな、条件なんだい?」
絹の生産で得た一年間の利益の二〇%。
この世界では株式という考え、制度が無い。だから銀行からの融資に頼ると利息が高いため事業がスケールしないし、リスクテイクのバランスが悪いのだ。
「利益の二割? 税金で三割。合わせて五割は横暴じゃないかい?」
「計算もできないのかしら? 平凡で愚かなポンコツね」
株主であるグレゴリアス男爵家に払う利益の二割を支払った後に税金の三割を払う。
仮に利益を一〇〇万エウロとすると、二〇万エウロを当家に払い、残りの八〇万エウロの三割である二四万エウロが税金。
「五六万エウロがリタの取り分よ」
「五六万エウロ! 豪商じゃないか」
「あーもう! ほんっとうにポンコツね。仮の話しをしてるのよ」
「り、理解が追いつかない……父……凡愚」
絹の生産はうまくやれば年中通してできるため、回収までそう時間はかからなそうだけれど。
「もう少し|フリーキャッシュフロー《自由に使える現金》が欲しいわね」
「ア、アニエスカ。フリーナントカ? それは何?」
「お父様に説明してもわからないわ! 時間の無駄よ。さ、銀行の支店長を呼んで」
「時間の無駄って、酷い……父……無用」
果たして肝いりの絹の生産事業はどうなるのだろうか。
それは、一年後の決算をするまでのお楽しみである。
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あとがき
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『落ちぶれ令嬢の経営術!』を読んでくださりありがとうございます!
今回で『撚糸職人編』はおしまいです。
果たして、外貨の獲得は出来るのでしょうか。
特産品の交易には、輸送や卸先などまだまだ課題が盛り沢山。
次回からは『高等学院編』が始まります。
アニエスカはなぜ、今更高等学院へ入学するのでしょうか?
それには彼女のとある思惑があったのです。
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