86.日常が壊れるとき
エレノア・ダルウィンは思い知る。
日常とは、ある日突然壊れるのだ、と。
ラティエースがいなくなり、ようやくラティエース抜きの孤児院生活が順調に回り出した頃。
いつものように朝食の片付けをしているときであった。何気なく窓辺から門を見ると、そこにはレイナードと、その背後には兵士たちが並んでいた。レイナードと目が合う。彼は小さく頷いた。
「ちょっとお願い」
そう言い置いて、エレノアは玄関ドアを抜けて、門へ駆ける。
「おはようございます、エレノア嬢」
レイナードは無理に笑顔を作っていた。何かがあったと言っているようなものだ。エレノアが最初に考えたのはラティエースが見つかったということだった。だが、それならばもっと喜んでいるはずだ。つまりは、たとえラティエースが発見されたとしても、喜ばしくない状態で、ということだ。
「おはようございます、レイナード王子殿下」
エレノアは久方ぶりのカーテシーを披露した。
「早朝からどうかしましたか?」
「・・・・・・エレノア嬢。何も聞かずに馬車に乗って頂けませんか?」
言って、レイナードは不自然な目配せをする。その視線は後ろの兵士に向けられていた。エレノアもレイナードの後ろに控える兵士をチラリと見やる。
(ロザの・・・・・・。帝国の兵士が混ざっている)
それにレースブラウスと深紅のサテン生地で誂えた上着を纏った貴族風の男。いかにも貴族という出で立ちの小太りの男は、エレノアはねっとりとした目で見ていた。不躾な視線は気にはなるが、それよりもやることがある。
エレノアはレイナードの意図を正確に把握した。この早朝訪問はレイナードの意思ではないということ。そして、ロザを巻き込んだ何かが起こっているということ。
「・・・・・・分かりました」
「孤児院の子どもたちのことは、補佐官のキースが計らいます」
キースと呼ばれた青年は一礼し、「お任せ下さい」と真摯な態度で言った。
「よろしくお願いします」
館を振り返れば、子どもたちが窓を開けて、こちらを見ている。何かを察して泣き始めた子どもたちもいた。特に兵士に対するトラウマを抱いている子どもは多い。両親を惨殺されたり、害された子どもが多いのだ。いきなり兵士がなだれ込んでこなかったのは、子どもたちの背景を知るレイナードの抑止のおかげだと知る。
(こういうときこそ、ラティがいつも出張ってくれてたわね・・・・・・)
エレノアは館から自身の名を呼ぶ声に振り返らず、門の錠前を開けた。そのカギを、キースに手渡す。キースは恭しく受け取ってくれた。この所作だけで彼が信用に値する人物だと確信する。エレノアが連れ出されることも、彼が子どもたちに対してフォローしてくれるだろう。
背筋を伸ばし、レイナードの後ろを歩く。そこでロザの人間とおぼしき男が「縄を掛けろ」とレイナードに迫る。先ほどの不躾な目線の男である。
(縄?)
エレノアは罪人なのか。一体、何の嫌疑があるというのか。覚えのないことと、どういった展開なのかエレノアの頭は混乱する。
「お控え下さい、ジェム伯爵。此処はロザではありません。それに、エレノア嬢はダルウィン公爵令嬢の地位を保有したままです。貴族令嬢として敬意を払って下さい。こんなことをラドナの人間に言わせるなんて恥を知るべきはあなたではないか?」
レイナードは柳眉を吊り上げ、毅然と言う。
「なっ・・・・・・!」
小太りの男は顔を真っ赤にして瞠目する。どうもレイナードとジェム伯爵という男はそりが合わないようだ。ここに来るまでも何かしらの衝突があったことが窺える。それにしても、ジェム伯爵。聞き覚えのない名だ。エレノアは、貴族や名家の名称と家族構成は大体、頭に入っている。
(とすると、新興貴族ということかしら……)
「さ、エレノア嬢」
レイナードはエレノアを馬車に乗り込ませると、そのままドアを閉める。ジェム伯爵も乗り込もうとしたところを阻んだ。ステップ台をサッと抜き去り、ジェム伯爵はそのまま後ろにコロリと転がった。
「さ、伯爵はこちらに」
もう一人の補佐官エントは笑いをこらえながら背中を押して後続の馬車へ案内する。喚き散らすジェム伯爵を無視してレイナードはエレノアが乗り込んだ場所と反対側から乗り込んだ。
「決して悪いようにはしません」
レイナードは正面を向いたまま言った。
「ええ。信じております」
エレノアもまた彼を見ることなく言った。
ラドナ王城に到着すると、エレノアはそのまま貴賓室へ通された。若草色で統一された部屋で、所々にラドナ王室の紋章が刻まれている。温かみのある部屋だが、そう暢気にくつろいでもいられない。
エレノアは、頭脳を総動員して、自分の置かれた状況を把握しようと努める。
まずは新興貴族であろうジェム伯爵。そしてロザの兵士たち。彼らはエレノアを罪人のように扱おうとしたが、一体、何があったのか。それは、ラティエースの失踪と関係していると考えて間違いないだろう。
(一体、何がどうなっているの・・・・・・)
こういう時、ラティエースはどうしていただろうか。ヤバイ、ヤバイと言いながら淡々と情報を集め、最適解を模索していた。あの度胸はどこから来ていたのだろうか。
「あっ・・・・・・」
エレノアは思わず声を上げた。
そういえば。エレノアとアマリアが不安がれば不安がるほど、ラティエースは戯けてみせた。
(そう。誰かが不安がれば、誰かが強気だったわね・・・・・・)
そうやって、エレノアたちは数々の苦難を乗り越えてきたのだ。
だが、今は、エレノアひとり。たった独りなのだ。
と、そこにノック音が耳に入る。
どうぞ、と言うと、メイドが現れ、キャスター付きのハンガーラックが運び込まれる。ドレス数着とそれにあわせた靴や装飾品も用意されていた。
「お召替えをお願いいたします」
エレノアの年齢や風貌にあわせたドレスで、どれを着ても無難な格好になるものばかりである。
ここで、何故着替える必要があるかなどと問うつもりはない。着替えれば、自ずと答えが判明するのだから。
「では、そのモスグリーンのドレスを。靴は白で。ネックレス類はいらないわ。髪は簡単にまとめて、髪飾りはそれを」
エレノアが指さしたものは、並べられた物の中でもいっとう地味な髪飾りであった。
「しかし……」
「これから尋問を受けるのでしょう?あまり華美な格好はしたくないわ」
エレノアは有無を言わさない口調で言い切った。
鏡台の前に座り、メイドに髪を梳ってもらう。鏡に映る自分は虚ろで、ただわけのわからない恐怖に怯える少女のようだ。
(だめよ。そんなんじゃだめ・・・・・・)
エレノアは背筋を伸ばす。ここでエレノアが失態を犯せば、アマリアにも影響が出てくるかもしれない。今日は自宅で休養し、昼頃から産院に診察に行くと言っていた。きっと、レイナード王子が孤児院と同様に計らってくれているはずだ。
エレノアは独りだが、支援者がいないわけではない。ならば、エレノアにはエレノアが出来ることを精一杯やるだけだ。
まずは、あの白豚伯爵を、喜ばせるようなことはしない。
(わたしは、ダルウィン公爵家の令嬢なのよ・・・・・・)
エレノアは鏡に映る自分を睨み付けた。そこにはもう弱気な自分は映ってはいなかった。




