8.母と子
アレックス・リース公爵令息は、午後8時過ぎに邸宅に戻った。簡単な夕食を済ませ、今は、自室で課題のレポートをまとめていた。
(ブルーノのやつ、ラティに喧嘩を吹っかけてないといいが……)
ラティエースが、主にダルウィン公爵邸で生活をしているのは知っているが、今日は色々あったから、別宅に戻るのではないかと予想した。その上での忠告だった。ちょうどその頃、ブルーノはラティエースにこてんぱんに言い負かされ、地団駄を踏んでいた。
アレックスは、母と子の二人で暮らしている。父は、アレックスが10歳の時に病死した。本来ならそこでアレックスは後見人を得て公爵の地位を受け継ぐか、親族の誰かに譲渡さなければならなかった。母はリース家に連なる伯爵家の出だが、公爵家では発言力はない。案の定、水面下で親族が後継者争いを始めた。アレックス親子は命の危機にさらされた。その争いに終止符を打ったのは、アレックスでも、リース一族の誰かでもない。赤の他人、ミルドゥナ大公その人であった。
大公。それは、皇帝に次ぐ地位。宮廷序列においても、公爵よりも上の扱いを受ける。
この国の宮廷序列は、皇族をピラミッドの頂点に据え、その下に、大公、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、そして、戦功をあげた騎士が叙爵する一代限りの爵位、士爵がある。
二大公、四公爵、十侯爵の上級爵位。この数は、ロザ帝国建国以来、ほとんど変わっていない。減ることはあっても増えることはない爵位だ。伯爵以下は多少の変動があるものの、20~50家あたりでピラミッドの底辺を支える。いかに、公爵の爵位が希少かつ重要なのかが分かる。軍属になれば、宮廷序列は通じないが、それでも出世する際に、加味されるのが現状だ。
ミルドゥナ大公が、アレックスの後見人になる際に出した条件の一つが、ミルドゥナ侯爵家長女ラティエース・ミルドゥナとの婚約であった。母はだいぶ渋ったようだが、他に選択肢もなく、その条件を受け入れた。大公は、公爵領全土に、徴税官や代理官(領主が自ら領地を治められないときに代理として派遣される専門家)を派遣し、公爵家にまつわる一切の面倒ごとを引き受けてくれた。だからこそ、アレックスは学生の身分に甘んじられる。
コン、コンとドアのノックで、アレックスは我に返る。
「どうぞ」
入ってきたのは、夜会用のドレスを身にまとった母、ダイアナ・リース公爵夫人その人であった。
「母上。お帰りなさい」
アレックスは椅子から立ち上がり、母のもとへ数歩、歩みを進めた。
「ただいま。今日はレイン伯爵の夜会だったんだけど、つまらなかったから抜けてきたわ」
時計は夜中12時。つまらなかったという割に、3時間以上居座っていたのではないか、と思ったが口にはしない。
「そうですか」
「それでね。26日なんだけど、ミルドゥナ侯爵夫人と観劇に行くことになったから、あなたもそのつもりでね」
「ラティも来るのですか?」
「知らないわ。連れてこられても困るけど」
母は、ラティエースのことを毛嫌いしている。そして、ラティエースもそのことを承知している。ラティエースが少しでも母の機嫌を取って下手に出て、こびてくれれば母の自尊心も少しは満たされるのだが、そんな芸当ができていれば、ここまでこじれてはいない。
(とにかく、この観劇は婚約者同士の交流ではなく、母同士の交流か)
ミルドゥナ侯爵夫人の娘は毛嫌いしていても、侯爵夫人とは無二の親友と言うのだから滑稽だ。侯爵夫人も娘を嫌煙しているから成り立つ関係性なのだろう。
「分かりました。予定しておきます」
お願いね、と言って、ダイアナは部屋を後にした。
「観劇か……」
アレックスはベッドに寝ころび、ひとりごちる。
(まあ、皇子の面倒よりはマシだけど……)
どちらにせよ、あまり楽しめない週末になりそうだ。