72.凶(あく①)
数日が過ぎた。その間、聖女を害するようなことは起こらなかった。
一見、何も変わらない日々であった。変化といえば、レンとその部下が護衛代わりに聖女の側に立つようになったことと、3日に一度に行われていた食事会がなくなったことくらいであった。
ラティエースはこの間に、簡単な毒味の方法や敵と遭遇したときの簡単な護身術をエレノアたちに叩き込んだ。万が一、一人になった時を予想しての訓練であったが、正直、気休めだ。大軍で来られたら、ラティエースたちなどあっさり串刺し、あの世行きだ。
「お茶をお持ちしました」
そう言って、修道女が現れる。午前と午後にこうして三食以外に軽食と茶を運んでくれる。レンはその修道女を招き入れた。いつもならウェルチカの役目だが、今日は別の仕事があるとかで、この部屋には姿を現していない。こういうことは前からあったので、皆、気にしていなかった。
修道女が、ユリを認めてにこりと微笑む。ちょうどラティエースに文字を教わっていたのだ。お茶の時間までということで、ユリはテキストを閉じて、テーブルの隅に追いやる。そして、ソファーにちょこんと座り、行儀良く茶器が並ぶのを待った。
エレノア、アマリアも隣室から顔を出し、小休憩のためにテーブル回りに集まる。
修道女は、ラティエース、ユリの前に茶器を置く。盆を胸元で抱え、一礼した。
その一挙手一投足をラティエースは注意深く観察していた。無論、レンも修道女から目を離さない。
(黒か白か……。グレーだな)
ならば、はっきりさせるためにラティエースは動く。
「待て」
一歩下がり、踵を返そうとした瞬間、ラティエースは声を上げた。一拍置いて、ドアの前にレンが立ち、エレノアはユリの背後に立つ。
「はい」
修道女は落ち着いている。
「飲んでみろ」
ラティエースは言った。修道女は一瞬だけ躊躇し、にこりと笑う。
「申し訳ございません。一介の修道女であるわたくしが、聖女様のお茶を口にすることは許されておりません。ご容赦を」
「わたしが許す。飲め」
修道女の表情筋の動き一つでも見逃さないというラティエースの双眸に、修道女は後ずさりする。
レン、そしてラティエースが動き出したのは同時であった。
修道女は盆を投げつけ、身を翻す。
ラティエースは盆を腕でガードし、ユリを背にかばう。
その間に、レンは距離を詰めていた。レンは修道女の腕を引き自分のもとへ引き寄せ、足払いを掛ける。そのまま引き倒し、床に叩きつけた。
ラティエースが一足飛びで躍り出て、腰にはいたナイフを抜く。
「放して!放しなさい!!」
声を荒げる修道女に、レンが自殺防止の猿轡を噛ませる。
その間、ユリだけが石像のように固まっていた。
「エレノア。ユリと一緒に下がって」
そう言って、ユリを壁際まで下がらせる。ラティエースは茶器を持ち、修道女の前にしゃがみ込んだ。代わりに、エレノアがユリの前に立って護衛のまねごとをする。
「誰の差し金だ?」
「んー!んんー!!」
興奮した修道女が猿轡のせいでただ呻いているだけだ。レンに頷きかけ、注意深く猿轡を解かせる。
「聖下の役に立たない聖女なんていらないわっ!」
その言葉に、ユリが顔面を蒼白にし、息を飲む。
「だから〇すのか?」
そうよ、と修道女は顔を上げてラティエースを睨み据える。
「そうすれば、新しい聖女を召喚できるもの」
修道女は吐き捨てた。
(なるほど)
ラティエースは納得した。いつまで経ってもユリとビジーノに信頼関係は築けない。当然だ。いきなり現れて「愛を返せ」なんていう人間をどうして愛せるものか。
業を煮やした者たちが、新たな聖女を求めるのは自然の流れと言えよう。そのためには、ユリがいては新たな聖女は召喚できないということだ。いずれそうなると予測していたが、レンが護衛役になってくれたことやトリト卿の手前、どこかで警戒を緩ませている自分がいた。ラティエースは己の甘さを恥じる。
手に持った茶器を修道女の前に持っていくと、修道女は低く呻いて顔をそらした。飲ませるか、飲ませない方がいいのか。逡巡の末、ラティエースはレンに視線をやった。心得たレンがもう一度、布を噛ませる。そのまま引っ立てて、部屋を後にした。
「ケガは?」
エレノアが隣まで来て尋ねる。
「ないよ。それよりこのお茶を調べてもらってくれ。脅しか暗殺か知りたい」言って、ラティエースはユリに向き直る。「座って。深呼吸して」
ユリの吐く息が荒い。過呼吸を起こしかけているのだ。ラティエースは手を引いて、ソファーに座らせ、自分の呼吸に合わせるように言う。ゆっくり息を吸って、長く吐く。それを繰り返すと、ようやく落ち着いてきた。
――――――こんな世界、大嫌い。
当然だ。いきなり異世界に召喚され、生け贄になれという。それがお前の運命であり、当然の義務だと言い聞かされる。好きになれるはずがない。楽しいはずがない。
「ユリ、ごめんな」
「どっ、どうして・・・・・・。どうしてラティが謝るの?」
ラティエースは泣きそうな顔で、無理に微笑んだ。
それがラティエースの精一杯の返答であった。
「・・・・・・ということがありました」
レンはトリトの執務室に赴き、先ほどの件を報告した。
「そうですか・・・・・・。聖下というより長老会の差し金の気がしますねぇ」
トリトは執務椅子の背もたれに身体を預け、溜息交じりに言った。
「僕もそう思います」
ビジーノは良い意味でも悪い意味でもシンプルな思考回路をしている。茶に毒を入れるというよりも、腹にナイフを突き刺すという直接的な手法をとるだろう。
「で、聖女様は?」
「過呼吸を起こしかけました。今は、落ち着いています」
「そうですか。やはり国外逃亡を本気で検討した方がいいかもね」
「どこに逃げるんですか?」
「そうなんだよねぇ・・・・・・。魔法国の勢力圏くらいしかないよね」
「黙って行かせるわけないじゃないですか」
「そうだよねぇ。困ったねぇ」
その口調は穏やかなままだ。対して、レンの苛立ちは募っていく。
「ラティは相変わらず大図書館かい?」
「いいえ。最近は召喚の廟に出入りしているようです」
「あそこはあの時の地震で崩れ去っただろう。新しく廟は建てたけど、聖下は使っておられないよ?」
「そう言ったんですが、何かヒントがあるかもしれない、と」
「そう・・・・・・」
今朝、トリトに聖女召喚失敗時の検証報告書を片っ端から見せて欲しいと、トリトの執務室に乗り込んできた。トリト個人が書き留めたものなので執務室で読むよう厳命し、数時間後に出て行った。特にラティエースが注目したのは「獣に引きちぎられたような」という表現と「掴まれた指の痕が複数」という文言であった。トリトが生まれる前にも聖女召喚は行われており、失敗の状況は似たような表現が使われていた。
「どういたしますか?」
「少し、聖下と長老会に話をしてこようかね」
ラティエースは、聖都の裾野、一般市民が住まう街まで降りていた。
此処には、大手ギルドの支部も多くある。ラティエースの目当てはギルドではなく、土産物屋、それも書籍を扱う店であった。ラティエースたちが滞在するロフルト教の宿舎や図書館にある本は、基本的に専門書だ。ある程度攫ってみたが、やはり難解なものが多い。廟の跡地に立ち寄っても、これといってひらめきはない。ならば、とラティエースは初心者向けの絵本あたりを探しに来たのだ。初心に立ち戻る、である。
街は賑わっている。法服を着用している者は帝都や王都よりも多いな、というくらいで、一般市民の方が断然多い。石造りの建物が隙間なく建ち並び、法典のレプリカや女神の像などが路面に並べられている。ラティエースはそれらを冷やかし程度に見ては、大通りに沿って進んでいく。
(ユリちゃんを連れ出したら、良い気分転換になるんだろうけど・・・・・・)
許可は出ないだろう。教皇たちがユリに対して出来ることは、閉じ込めることくらいなのだから。お互い手詰まりの状況から引き起こされた今朝の事件。件の修道女に対する尋問には期待できまい。自分は正しいことをしたという狂信者の目をしていた。
ユリとラティエースたち、そしてウェルチカが一つの部屋に固まっていても、陰気な雰囲気をため込むだけで解決することは何もない。苛立ちと不安でいっぱいになる前に、ラティエースは今日の予定に組み込んでいた街の散策を決行することにした。エレノアとアマリアからは胡乱な目で睨まれたが、あの部屋にずっといる方が気がおかしくなる。エレノアもそのことは分かっていたから、金貨を数枚握らせ、ユリへの土産を買ってくるよう言って、ラティエースを送り出してくれた。
ふと、看板を見上げると「書店」の文字が目に入る。ガラス戸をのぞき込めば、書籍が山積みなっており、装丁の立派な本、年季の入った革の背表紙も見える。専門書が多いのだろうか。
(うーん・・・・・・)
店前で悩んでいると、店主が気づいたのか近づいてくる。ドアを開けると、ドアベルかチリン、と軽やかな音を立てる。
「何かお探しですか?」
店主とおぼしき老婆が、優しげな言葉で言った。
「えっと。子ども向けの絵本なんかを探しているんですが。ありますか?」
「ええ。いくつか心当たりがあるわ。どうぞ、お入りになって」
ラティエースは老婆について、店に入る。壁一面の本棚にこれでもかというくらいの本が詰め込まれ、台や丸椅子にもジェンガのように積み重なっている。
(ちょっと身の危険を感じる・・・・・・)
「あらあら、大丈夫よ。この間の地震の時も少しも倒れなかったの。本棚に詰め込みすぎてズレて崩れる隙間もなかったみたいね」
そう言って、老婆はほほほ、と優雅に笑う。
「それは良かったですね」
ラティエースは愛想笑いを浮かべて言った。
「その辺に座ってちょうだいな」
その辺とは、どの辺だ。ラティエースは仕方なく丸椅子から書籍を棚に移し、そこに座ることにした。
老婆は本棚に据えられたはしごを軽業師のように登っていく。
「どういった内容が良いとかあるかしら?」
「できたら聖女様か女神様関係を」
「女の子には人気よね」
ひょい、ひょい、と老婆は冊子を手にして、パラパラとめくる。納得すると、ラティエースを見下ろした。
「受け取ってね」
そう言って、絵本を投げてきた。うそ、と目を丸くするラティエースは同時に腕を伸ばした。角が掌の中央にヒットして痛みが走るが、ぐっと我慢して絵本をキャッチする。
「ナイスキャッチ」
そう言って、老婆は次の絵本を放り投げる。
(いやいや。本を大事にしない書店主ってどうよ)
数分のうちに、絵本だけでラティエースの下半身くらいの高さになる。
「気に入ったのがあったら言ってね」
そう言って、老婆は番頭台に似た奥まった席、その先に消えてしまう。おそらく奥に生活スペースがあって、そこまで引っ込んだようだ。
(万引きし放題じゃん)
もちろんそんなことをするつもりはないが。
ラティエースは、絵本を検分する。小難しい言葉とはかけ離れた短文と挿絵で構成された本は頭に入りやすい。老婆のチョイスも面白い。女神は実は魔女であった。または、龍であったという異聞もあった。他には、女神召喚と女神が使った秘術。それは、聖女を贄とした秘術と同じのように描かれていた。女神は人を害する神たちを打ち倒すべく、その命を引き換えにした。
女神の伝承は世界中に散っており、降臨した女神はひとりではないという説もある。ロザ帝国建国史には、複数の女神が関わったとされている。ただ、ロフルトに舞い降りた女神と聖女は同一視されているようだ。挿絵には法陣の中央に立った女神と、その法陣が輝く様子が描かれていた。
(法陣ねぇ・・・・・・)
普通、聖法は、法典や聖典の一文を読み上げる。おそらく、その文言を読み上げて聖法を練るのだろう。そして、十字を切って発動。これがセオリーだ。
(法陣というと魔法っぽいよな、どちらかというと・・・・・・)
ウィズが言っていた通り、元々は聖法と魔法の境はなかったのだ。つまり、魔法の手順の一部が聖法に残っていたり、逆もあるのかもしれない。ひょっとすると、魔法国も、聖法を一部取り入れた方法で、魔法障壁のための聖女を召喚した可能性がある。
「あらあら、難しい顔しちゃって。そんなに難しい絵本かしら?」
いつの間にか老婆が横に立ち、片手には茶器を持っている。どうぞ、と紅茶の入った茶器を差し出す。
「すいません・・・・・・」
ラティエースは慎重に受け取り、口を付ける。口をつけてから、毒物混入の恐れに思い至った。
(いや、でも、此処に入るとは決めていなかったし‥‥‥。何よりもう飲んじゃったよ……)
改めて匂いや液体に沈下した薬物の確認をしてみるが問題はなさそうだ。
「あの、女神様が降臨したときは、やっぱり天から舞い降りるんですよね」
「そりゃそうでしょう。福音書には、女神様は七人の天使を引き連れて、舞い降りたって書かれているものもあるわ。ほら、この絵本なんてそうでしょう?」
「ですね」
「で、秘術は地面に法陣を描いて発動、か・・・・・・」
ラティエースの目的は、ユリを元の世界に戻すことだ。今のところ、天に還った聖女の物語はない。
「あの、女神様を空に還すにはどうしたらいいと思いますか?」
ラティエースの唐突な切り出しに、老婆はきょとんとする。
「そうね・・・・・・。上からやってきたものを上に戻すってのは難しいと思うわ。でも、女神様には羽根があるからご自分で天に還ることもできたでしょうね」
「じゃあ、やっぱり聖女様は女神様とは違いますよね。羽根ないですもん」
「そうねぇ・・・・・・」
(この法陣の意味が詳しく知りたい。仮に魔法陣だとしたら、どういう魔法になるのだろう)
法陣の文字はぼかしてあるものの、ロフルトの文字のように見える。魔法と言えばルーン文字が代表格だろう。
(ウィズは魔法工学専門だ。あいつ、呪文に詳しいのかな?)
その前に、法陣の内容を正確にスケッチしなければならない。
(スケッチが得意なのはエレノアだよねぇ・・・・・・)
教皇に頼んだどころで、法陣の書き写しなど許可するとは思えない。一応、秘術なのだから。法陣の内容まで公開していたら至る所で秘術が行使され、事故が多発してしまう。秘術の意味がなくなる。
スケッチした法陣を、カスバートを通して魔法国ギルドに解読を依頼。カスバートに返答を「日本語」で書かせて返信させる。そういう方法をとりたいのだが、スケッチの時点で難しい。
「あのー。聖法で法陣を使うやつってあります?秘術以外で」
老婆よりもトリトやレンに聞いた方がいいのだろうが、会話の糸口になればと、ダメ元で話を振ってみた。
「詳しくは知らないけど、邪法って言われるものよ、それは」
ラティエースの戸惑いをよそに、老婆はあっさり言った。
「ああ、そうなんですか?」
「高位聖職者は、あらゆる聖法を知る一方で、禁忌の聖法も学ぶわ。なぜ、それを使ってはならないかを知らないことには、聖法の神髄を知ることはできないもの」
「確かに・・・・・・。で、その禁忌の聖法に法陣は不可欠だ、と」
「ええ。確か、この辺に、西方諸国ではやったオカルト全集があったはずよ。ちなみに、発禁本」
老婆はにんまり笑って、その古びた冊子をラティエースに差し出した。
「悪魔を呼び出す聖法?敵対者を呼び出して、敵を攻撃ってこと?確かに邪法だ」
「ええ。自分の命を贄に悪魔と取引するそうよ。本当にそういう聖法なのかは分からないけど」
(天は女神や神の領分。悪魔というと地獄・・・・・・)
ラティエースは足下を見やる。
――――――上からやってきたものを上に戻すってのは難しいと思うわ。
(なら、上から下なら?下には何がある?)
地獄だ。天の領分と相対する悪魔の支配。
(とすると、秘術は邪法の一つで、悪魔に関するもの?)
――――――食いちぎられたり、掴まれた指の痕があった。
(地獄に引きずり込まれた・・・・・・?)
だとすると、秘術は地獄の門を開けるものなのか。
悪魔と契約し、悪魔が願いを叶える。対価に贄を要求する。聖女は贄として一級品なのか。それとも悪魔が気に入る聖女ではなければ、教皇もろとも消されてしまうのか。
(駄目だ。根拠もなく、ただ妄想大暴走なだけな気がする・・・・・・)
「何に悩んでいるか知らないけど、分からないことは、知っていそうな人に聞くのが一番よ」
老婆の声に、ラティエースは思わず「はい」と即答してしまう。
(そうだよね。やっぱ、直接聞くのが早いか・・・・・・)
「で、どれをお買い上げ?」
笑顔を浮かべた老婆の顔が、眼前に迫っていた。




