7.子と母
バーネット・カンゲル男爵令嬢が帰宅したのは、日をまたいで13日、午前1時を回ったところであった。
皇子と一緒にホテルに泊まることも考えたが、ベッドで大の字になって、大いびきをかいている男の横で寝る気は失せた。アレックスの姿もなく、仕方なくホテルのロビーで馬車を手配してもらった。何度も利用しているためか、支払いについて問われることはない。毎回、皇子に付けているし、その件で皇子が咎めることはない。
(早くシャワーを浴びて、寝よう)
本当は、ここまで深酒する気もなかった。しかし、どうしても憂さを晴らして忘れたかったことがあったのだ。
それは、カフェテリアの騒ぎが給仕長によって無理やり終わらされた時。どさくさに紛れて、メーン伯爵令嬢を連れ出すラティエースを見つけた。ここで逃がしてはならないと咄嗟に判断し呼び止めたが、聞こえなかったのか、無視されたのか。彼女たちが反応することはなかった。だが、ラティエースは、バーネットからメーン伯爵令嬢をかばうようにして前を通りすぎた。
そして。彼女の唇が動いた。
―――気持ち悪い。
そう聞こえた。聞き間違いではない。正面を向いて、バーネットを見ていなくても、あれはバーネットに向けられた言葉であった。その言葉を聞いた瞬間、バーネットの頭は真っ白になり、力が抜けた。あの純粋な悪意を忘れたくて、バーネットは酒をあおった。
物音を立てないよう細心の注意で、邸宅のドアを開ける。明りを付けずに、部屋を目指した。が、家に入った瞬間、明りが灯る。
「お帰り、バーネットちゃん」
出迎えたのは、ナイトキャップと夜着を身にまとった母、ドローレス・カンゲル男爵夫人であった。携帯用の灯籠を手にしている。
「たっ、ただいま」
化粧っ気のないドローレスだが、素顔でもどこか色気のある目鼻立ちをしている。化粧をすれば、それは艶やかで、社交界でも評判になるだけのことはある。出産すれば、時間に差こそあれ、その容姿に陰りが出始めるというのが、経産婦の逃れられない運命かもしれない。が、ドローレスは逆であった。妖艶な美貌に磨きがかかり、成熟したかのように、ますます男を虜にした。それは今も続いている。夫を付属物のようにして、夜会を渡り歩いている。
「遅かったわね」
遅くまで遊び歩いている娘を心配する口調とはどこか違う。事実、言葉に怒りは全く含まれていない。
「うん、ちょっと……」
「早くシャワーを浴びて、化粧を落としなさい。スキンケアを怠ってはダメよ?街で評判の新しい化粧水を洗面台に置いておいたわ。疲れた顔をしていると皇子様に飽きられちゃうわよ」
そう。母はバーネットと皇子の仲を知っていた。
良識のある親ならば、この関係を解消するよう諭すのだろう。しかし、義父のカルゲン男爵は別にして、ドローレスは逆であった。
「ありがとう」
言って、バーネットは部屋に続く階段に足を掛ける。
「ねぇ、バーネットちゃん?」
「何?」
怯える必要もないのに、どうしても口調が固くなり、身構えてしまう。
ドローレスは、手首に下げた灯籠の持ち手と反対の手、左手を左頬にあて、首を傾げた。
「前から気になっていたのだけど、あなたと皇子はどこまでいったの?」
「どこまでって……」
母は自分と皇子が性的な関係にあるか尋ねているのだ。正直に答えるべきか、それとも誤魔化すべきか。
「皇子様も煮え切らないわね。さっさと、バーネットちゃんを皇太子妃にするって言ってくれればいいのに」
そんな簡単なものではないということは、バーネットだってわかることだ。身分もあるが、バーネットにはその責務を果たす能力も器量もない。あるのは、母から受け継いだ男を魅了する能力だけだ。
しかし、ドローレスは、本気で分かっていないのだ。心底、不思議そうに首をかしげる。
そうだ、と両手を胸元でパンッと叩く。
「皇子様に、こどもができたとお伝えしてはどうかしら?そうなれば、皇子様も認めないわけにはいかないわ」
「でき、て、ないわ。子どもなんて」
バーネットは唇を噛んで、震えを留めようとする。そして、何とか言葉を絞り出す。
「やーねー。そんなの別に、皇子が相手じゃなくてもいいんじゃない」
「はっ?」
バーネットは、瞠目した。この女は、何を言っているのだろうか。
「バーネットちゃんのお友達に、皇子様と同じような金色の髪の子くらいいるでしょう?多少似てなくても、親戚に同じような目や髪の人がいるから、こちらの遺伝が強く出たとか言えばいいじゃないの」
言って、ドローレスは、何がおかしいのか「ふふふっ」と楽しげに微笑む。
「おっ、お母さん。帝室の血は、蒼いと言われているの。わたし、一度だけ皇子が鼻血を出したところを見たことがあるわ。ほっ、本当に蒼かった。帝室の子は、必ず蒼い血なんですって。帝室の子は、生まれてすぐに血を確かめられるって……」
(嘘。今、わたしは母親に、別の人の子を妊娠しろって言われているのよね……?)
「あら、そうなの?」ドローレスは瞬き、「じゃあ、だめね」とあっさり言った。
バーネットもこの目で見るまでは、おとぎ話の類かと思っていた。マクシミリアンの蒼い血は、それは美しく、飲めば不老不死になるとか、浴びれば、若さを保てるとか言われるのも納得できたくらいだ。
(ダメだ、無理。もう、今日は……)
ドローレスが何か言う前に、ここを立ち去らなければ。
「お母さん。わたし、部屋に戻るね。あと6時間もすれば学校の用意しなきゃいけないし。少しでも寝ておきたいから」
「ええ、そうだわ。ごめんんさいね、引き留めちゃって。こんなに遅くなるなら、泊ってきていいのよ?パパにはうまく言っておくし」
(未婚の娘に、外泊を進める親って何?)
「……。じゃあ、お休み」
バーネットは、階段を駆け上り、自室に飛び込んだ。勝手にあふれ出る涙を、嗚咽を抑え込むため口元を両手で押さえ、ドアの背もたれに体を預け、ズルズルとしゃがみ込む。
「うっ、ううっ……」
乙女ゲームのヒロインに転生した時は、すごくうれしかった。前世ではろくな人生ではなかった。今度こそ夢中になったゲームの男の子と結ばれて幸せなるんだ、と。
学園に入学するまでは貧しかったけれど、現世での知識もあったことからバーネットは母をよく助け、親子二人で暮らしていた。ハッピーエンドを迎えた際は、親孝行をしようと懸命に幼少期を過ごした。母がつらそうなときは、「もう少し頑張って。きっともう少しでパパが迎えに来るから」と声をかけ続けた。
ある日、母がお客から菓子を貰ったと、家に持って帰ってきた。甘味はめったに食べられなかったから、バーネットは跳んで喜んだ。特別に、来客用の紅茶を入れて親子で楽しもうと、バーネットは台所に立ち湯を沸かし始めた。
バタン、と鈍い音がダイニングから響いた。何事かと慌てて向かえば、母が倒れていた。
菓子のかけら、伏したままえずく母。菓子に混入されていたことは明らかであった。
結局、それは毒ではなく下剤だったが、栄養が行き届いていない体に毒であることには変わりなかった。バーネットは薬を体外に排出させるために、付きっ切りで母に水を飲ませ、看病をした。大人たちはその看病方法は間違っていると言っていたが、バーネットは構わず続けた。しばらくして母は快癒した。それからさらにしばらくして、母が街の警吏の屯所に呼び出された。不安だったが、見送るしかなかった。
三日後。母は、上等なドレスを着て現れた。
「バーネットちゃんの言った通りになったわ」
聞けば、たまたま屯所を訪れた男爵が、ドローレスの窮状に心打たれ、ドローレスを後妻に迎えたいと申し出てくれたらしい。実はこの時、「本当はあの人が良かったけど、仕方ないわ」とつぶやいたことは、バーネットは覚えていない。
こうして、バーネットは男爵令嬢となった。
(シナリオ通りだわ!)
義父は良い人だった。学園にも入れるよう手配してくれた。入学試験はチンプンカンプンで適当に回答したが、無事、合格した。
これから、現世ではできなかった楽しいスクールライフを過ごせるのだ。意気揚々とバーネットは学園の大門をくぐった。
それから、少しずつ、ほんの少しずつ歯車が狂い始めたのだった。




