6.姉と弟
――――――帝国歴413年葵の月12日午後8時。
ラティエースは帝都での用事を済ませ、ロザーヌの荷物も無事、家に送り届けた。
ミルドゥナ家の紋章、蒼地に、金色の三日月。その三日月を背景に、咆吼する黒い獅子を掲げた紋章を下げた四頭立ての馬車に乗り込む。御者にはミルドゥナ本邸に戻るよう指示した。
御者は戸惑いつつも頷いた。てっきりダルウィン公爵邸に向うよう言われるかと思っていたので。
ラティエースは、ミルドゥナ侯爵本邸の敷地内にあるこじんまりとした別邸で暮らしている。元物置であった別邸で暮らしているものの、実際はダルウィン公爵邸で世話になっており、登下校も公爵邸からだ。ラティエースの両親はもちろん良い顔をしないが、ダルウィン公爵が歓迎しているので強くは言えないのが現状だ。「将来、皇妃になる娘付きの侍女教育のため」というお題目で、ラティエースは公爵邸で世話になり、実家にはほとんど戻らない。戻るのは週末と長期休暇の際の、数日のみだった。
(疲れた・・・・・・)
ラティエースは、座席の背もたれに身を沈める。
(両親は夜会。今日は、落ち目のレイン伯爵の夜会か・・・・・・)
今や、名門のミルドゥナ侯爵家も皇子派と見なされいるために、主要貴族の夜会には招待されず、こちらから招待しても断られる始末だ。レイン伯爵の目的は、ブルーノに自身の娘を引き合わせる算段を付けるためだろう。今時珍しく、ブルーノには婚約者がいない。過保護な母親と、侯爵以上の爵位ある家柄から婚約者を探そうとする父親、そして本人の自意識過剰の結果だ。ラティエースに立派な婚約者がいるのは、祖父のおかげである。
(おじい様にも手紙を送らなきゃ……)
ラティエースの祖父は、帝国の南方、観光地としても名高いミルドゥナ大公領にて余生を送っている。祖父が「大公」の地位で、父が「侯爵」の地位であるのには、親子の確執が横たわっている。ラティエースが別邸で暮らし、家族と見なされないのもその一つだ。ラティエースとしては無理に本宅で暮らすより、よっぽど気が楽だから、この境遇は実際のところありがたい。
やらなければならないことは山積みだが、如何せん、今日は疲れた。もともと予定していた商会や店でも問題がくすぶっていたし、あくまで学生であるラティエースには講義ごとの課題もある。
せめて、別邸に着くまでは、体を休めてもいいだろう。そう、ラティエースは自分に仮眠の許可を出し、ゆっくりと瞼を閉じた。
ラティエースが帰宅する1時間前に、ブルーノ・ミルドゥナ侯爵令息が侯爵本邸に帰宅した。玄関に待機するフットマンに鞄を渡し、制服のネクタイを緩める。ふと窓越しに、別邸の明りが灯っていることに気づく。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
執事長のブルックスが、ブルーノの前で一礼した。撫でつけた白髪と、真っ白な口ひげを蓄えた長身の男で、元は祖父の側近だった。父やブルーノの剣術指導をしていた過去もある。今でも姉に指導をしているようだった。
「ああ。……姉上が帰ってきているのか?」
「いえ、まだです。今、慌てて準備をしているところです」
「あんなゴミ屋敷……」
ブルーノは吐き捨てるが、ゴミ屋敷というよりも本の山なのだ。元々、物置として使用していた時も、大半は祖父の蔵書だった。居住できるよう改造した後、祖父の蔵書は本棚に収められたが、ラティエースも乱読家の血を受け継いだため、古今東西の書籍をとりあえず集めて、その辺に積み上げている。
「坊ちゃま」
叱るような口調で、ブルックスが言う。
「あの女には言いたいことがある。戻ったら、僕のところに来るよう伝えてくれ」
言いたいこととは、もちろんカフェテリアでの一件だ。
カフェテリアに給仕長が登場し、口をはさむ間もなく午後の講義に向かうよう解散を命じられた。ザワザワと野次馬たちが解散し、その騒ぎに紛れて姉たちも消えていた。
午後の第一講義終了後、「このまま放っておいたら、フリッツ君が悪者になっちゃう!」というバーネットの号令により、皇子がメーン伯爵令嬢の尋問を命じた。しかし、すでに伯爵令嬢は早退していた。「疚しいことがあるから帰るんだわ。フリッツ君はわたしを守ろうとしただけなのに」とバーネットが言えば、皇子は生徒会を招集し、男子禁制の女子寮まで赴いた。寮監は何事かと皇子を詰問したが、皇子は老齢の寮監を突き飛ばし、メーン伯爵令嬢の部屋まで突進した。部屋はもぬけのからで、誰に聞いても「知らない」と怯えた顔で答えるばかり。ブルーノは、まるで自分が強盗犯にでもなったかのような気分だった。結局、皇子はメーン伯爵令嬢の部屋を滅茶苦茶にすることで不満を相殺し、女子寮を後にした。出ていく皇子の後ろ、最後尾にいたブルーノは、門前で振り返って謝意の礼をしたが、周りを囲う女子生徒や関係者たちの眼は、怪物を見るような嫌悪感をにじませたものだった。
(何でだ?悪いのはバーネットを侮辱した伯爵令嬢だろう。なぜ、協力しない?なぜ、そんな目をする?)
「行くぞ」
ブルーノと同じよう謝罪の礼をしたアレックスに呼び掛けられるまで、ブルーノは茫然と立ったままだった。
皇子をなだめるために、帝都の高級ホテルで酒宴となり、バーネットを侍らせてようやく機嫌を直した皇子。生徒会役員もここぞとばかり豪華な食事と酒に酔いしれ、自分たちが何のために集められ、破壊活動を命じられたか疑問を持つ者は皆無だった。一応、ブルーノは「姉たちが先手を打っていると思います。明日では遅い」と忠言したが、早くホテルで騒ぎたい皇子は「明日でいい」と邪険に言い、騒ぎの発端であるバーネットも同じだった。
酒宴を手配したアレックスがブルーノに帰るよう言ってくれ、早々に抜け出した。
「アレックス?お前は残るのか?」
姉の婚約者アレックスは、姉にはもったいない男だ。弟の自分が言うのもなんだが、さっさと婚約破棄すればいいと思うし、アレックスがその気ならブルーノは全面的に協力するつもりだ。今までも何度かほのめかしたが、「この婚約は、大公殿下の肝いりだから」とやんわり断られている。
「もう少ししたらな。俺もすぐ帰る」
「ええ?帰っちゃうのー?」
いつの間にかドアが半開きとなっており、その隙間から艶めかしい太ももを露わにしたバーネットが現れた。ドアに片足を絡ませるようにして、顔を出す。ボタンをはずしたブラウスからは下着が薄っすらのぞく。ブルーノは自身の血流が上がり、顔が赤くなったことが分かった。とっさに、ブルーノは顔をそらす。
「アレックス君も、ブルーノ君も、飲もうよー」
この国では、15歳で成人と見なされるので飲酒も違法ではない。が、通常、飲酒は、16歳のデビュタントから数年後、徐々に、親や社交界の目上の人たちが、飲む量、種類、マナーを教えていく。女性は大体20前後、男性は18あたりから飲酒を始める。アレックスもブルーノも経験はあるが、自ら率先して飲むことはない。晩餐会のときに付き合い程度に口にするくらいだ。しかし、皇子は独学で飲酒を学び、その作法は決して褒められるものではない。バーネット流を教わってからはますます酒癖がひどくなり、飲酒に関するトラブルは、数えきれないほどだ。
「俺たちはまだやることがあるから」
ブルーノの腕を絡めようとするバーネットの間に体を滑り込ませ、アレックスは盾になる。
「まじめだなー、もう」
「俺たちは殿下の親友である前に側近だからね」
アレックスは色香にまとわれたバーネットの肢体を見ても、腕に豊かな胸を押し付けられても顔色一つ動かなさい。スルリと絡ませた腕をほどき、ドアの縁に手をつき、バーネットの顔を覗き込むように見つめる。
「君は、とにかく皇子を慰めてあげて?僕らは、裏方仕事を片付けてくるから。殿下にもうまく言っておいてくれると助かる」
「わっ、分かったわ、アレックス君。二人ともお願いね」
皇子と同じくらいの美貌に微笑まれて、動揺しない女性などいない。もちろんバーネットも例外ではない。アレックスは微笑みながら、ドアをゆっくりと閉めた。
呆けるブルーノにアレックスは強い口調で「おい」と声をかける。
「おい、ブルーノ」
何度目かの呼び掛けて、ようやくブルーノは我に返った。
「大丈夫か?早く帰れ」
「あっ、ああ。でも、裏方の仕事……」
あるならば、手伝うつもりだった。
「そんなものあるわけないだろ。一応、フリッツは退学にならないようかけあうが、処罰は免れないさ」
アレックスはこともなげに言った。
「いや、でも……」
「教師を通してメーン伯爵令嬢に抗議すれば、多少は違っていたが。令嬢に茶をかけて、あまつさえ女子寮で大暴れしたんだ。ミセス・ウィック(女子寮寮監)は捻挫したみたいだし。明らかにこちらが悪いさ」
他人事のようにアレックスは断言した。
「とにかくお前は帰れ。たぶん、ラティは家に戻らないと思うが、家にいたとしても絶対に突っかかるなよ」
ブルーノは、アレックスに釘を刺され、帰路についた。夕食までのわずかな合間に、湯汲と着替えを済ませ、夕食後に取り掛かる課題の教本を勉強机に並べる。臙脂色のブレザーに、白のブラウス、学年ごとに異なるネクタイ。高等部2年のブルーノのネクタイは黒だ。灰色をベースにしたタータンチェックのスラックスをそれぞれハンガーにかけた。と、ブラウスの胸元に薄ら口紅のような跡を見つけた。
(いつのまに……)
十中八九、バーネットのものだろう。皇子や他の連中に指摘されなくてよかった。皇子は嫉妬深い面もあり、見つかったら面倒だったことだろう。ブラウスは洗濯籠に放り投げ、部屋を出た。
夕食を済ませ、食後のティータイムをテラスで過ごしているとき、少しざわついた音が耳に入った。パタパタと小走りする足音、衣擦れの音、話し声も聞こえる。ラティエースが帰ってきたのだろう。見れば、食事の給仕をしていたブルックスの姿もない。
ブルックスには言づけたが、よくよく考えると、ラティエースが自分のもとにやってくることはないだろう。ならば、自分が向かうだけだ。アレックスの忠告があっても、一言言ってやらないと気が済まない。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
別邸に直行せず本邸に向かったラティエースは、玄関前で待機していたブルックスに出迎えられた。
「急に予定を変更して済まないね、ブルックス」
「問題ございません。お夕食はいかがされますか?」
「向こうで食べてきた。週末、こっちに寄れないかもしれない。今日までの分を」
こちらに、と前もって準備していた手紙の束を差し出す。学生カバンと交換する形で手紙を受け取り、ラティエースは素早く確認していく。
領民や徴税官からの陳情書、各国の情勢を見聞きさせるために放った密偵網からの報告、夜会の招待状といった様々な手紙が、毎日、束になって届く。ブルックスはそれらを仕分けし、ラティエースに決済してもらわなければいけないものだけを、毎週末確認してもらうようにしていた。ミルドゥナ大公の指示により、ミルドゥナ侯爵家の権限は、当主よりもラティエースの方が優先されるのだ。だから密偵網の報告がミルドゥナ侯爵の眼に入ることはほぼなかった。
宛先だけ確認し終えたラティエースは、鞄を受け取り、手紙の束を突っ込む。
「今日中に確認しておく。そのまま執務机に置いておくから、明日、掃除に入るときにでも回収しておいてくれ」
「かしこまりました」
「他には?」
「ございません」
ブルックスは、ブルーノの言付けを告げるつもりなど更々なかった。そんなことでラティエースを煩わせたくない。彼女の時間は、そんな些事に使わせるわけにはいかないのだ。
「そう。じゃあ、戻るわ」
「おやすみなさいませ。何かございましたら別邸で待機している者に」
「ありがとう」
と、その時だった。
「待てよ!」
振り返ると、弟のブルーノが肩をいからせて大股でラティエースの元に向かってきた。後を追う給仕の青年が、申し訳なさそうにブルックスにペコペコと頭を下げる。彼はブルックスにブルーノの足止めを指示されていた。そのために、わざわざテラスに食後のお茶を用意したのだが、物音で気づかれてしまったようだった。ブルックスも内心で舌打ちする。
「なに?」
「何、じゃないだろ!何で、メーン伯爵令嬢を連れ去った。まだ話は終わってなかったんだぞ」
「本気であのまま話を続けるつもりだったのか?」
頭から緑の液体を滴らせたメーン伯爵令嬢。放り投げられたコーヒーカップには、まだ湯気の立った痕跡があった。周りの生徒も驚いていたが、珍しい光景にクスクスと薄く笑う者たちも出てきた。恥辱に震えるロザーヌの小さな肩が、ラティエースの脳裏をかすめた。
「殿下がお声をかけていたんだ。いかなる時でもその場で膝を折って恭順の姿勢を見せるのが、臣下の務めだろうがっ!貴族である以上、メーン伯爵令嬢も皇子の、いや、皇家の臣下だ」
「この間は、学生は平等だとかほざいて、カンゲル男爵令嬢を仲間はずれにしたとかで騒いでいたのは誰だったっけ?」言って、「ああ」、とわざとらしくラティエースは声を上げる。
「カフェテリアのメンバーと同じだったな」
ブルーノはカッとなる。だが、そんな様子を気にもせず、ラティエースは無言でブルックスに玄関を開けるよう視線で指示する。背を向けたラティエースを呼び止める前に、ラティエースの方から振り返る。
「あんたたちのそのダブルスタンダードに反吐がでるのよ、こっちは」
なっ、とか、あっ、という単語しか出てこない。言葉を発したいのに、頭が熱をもってうまく考えがまとまらない。黙れば黙るだけ認めているかのようで、ブルーノは足掻くが言葉が出ない。何か言わねば、と焦るばかりだ。それを待っていてくれる優しい姉ではない。さっさと、玄関のドアをすり抜け、出て行った。
「おじいさまに気に入られているからって、いい気になるな!!」
ドアが閉まりきる瞬間、ようやく絞り出した言葉だった。