4.保健室
結局、事態は有耶無耶となった。騒ぎを聞きつけた給仕長が、皇子に詳細を尋ねたからだ。詳らかになれば、分が悪いのは皇子たちである。どさくさにまぎれて保健室へ向かったエレノアたちを、皇子たちが阻むことはなかった。「待ってください!」とバーネットの声が耳に届いたが、ラティエースたちは聞こえなかったふりをしてバーネットの前を横切り、その場を後にしたのだった。
保健室に到着したエレノアたちは、まずは手近なソファーにロザーヌを座らせる。タオルを手渡し、体に付着したグリーンティーを拭う作業から開始した。それが終わると、ローテーブルを挟んで対面にエレノアが座り、痛ましそうにロザーヌを見やる。
「大丈夫ですか?ロザーヌ様」
「はい。ありがとうございます、エレノア様」
本来、ロザーヌはエレノアのことをダルウィン公爵令嬢と呼ばなければならない。もしエレノアに兄弟姉妹がいれば、区別するためにエレノア公爵令嬢と呼ばれることもある。長子または唯一の令息令嬢の場合、家名プラス爵位で呼ばわるのが一般的だ。しかし、エレノアはダルウィン公爵令嬢と呼ばれるたびに、「学園では是非、エレノアと呼んで欲しい」と言っていた。そのことがいつの間にか広がり、女子同士ではファーストネームに様を付けて呼び合うことが普通になっていた。エレノアも一部例外を除いて、エレノア様と呼ばれれば、気軽に応じる。
保健医不在だったため、ラティエースとアマリアは勝手に薬品棚から、包帯や薬品瓶を取り出していく。
「制服の匂いとれなさそうだね。予備はある?よければわたしのを貸すけど」
薬品棚の前で、瓶のラベルを確認しながら、ラティエースが言った。確認し終えた瓶をアマリアに手渡す。受け取ったアマリアはラベルを確認し、無言で瓶を薬品棚に戻した。
「いえ、寮に戻れば予備がありますので」
「ロザーヌ様、ちょっとやけどを確認しますね」
いくつかの瓶と包帯を抱えたアマリアが、ロザーヌの隣に座った。瓶類をローテブルに置き、赤くなった首元や頭などを確認していく。
「ひどいやけどにはならなそうだけど。痕になったら大変だから軟膏だけ塗っておきますね」
アマリアは言って、軟膏を手のひらで薄くのばし、首筋や側頭部に塗りつけていく。その手つきは慣れたものだった。
「ロザーヌ様、何が起こったか教えてくださいますか?」
手当を終えたのを見届けて、エレノアが声をかけた。話し始めようとした矢先、ラティエースが手ずから淹れた紅茶のカップをローテーブルに置いていく。ラティエースはエレノアの隣に座ることなく、少し離れた執務机の縁に軽く腰掛けた。
(何で保健室でお茶の用意ができるのかしら)
タオルもそうだが、場所を熟知していないと出来ない芸当だ。ラティエースたちは保健委員ではないはずだ。気にはなったが、尋ねられる雰囲気でもない。ロザーヌは頭に浮かべた疑問をとりあえずは、追いやることにした。
「はい。いつものようにカフェテリアで皇子たちが騒いでいたのです。話が盛り上がっていたようで、急にバーネット男爵令嬢がフリッツ様に抱きついたのです。それでわたし、思わずバーネット男爵令嬢に「この、売春婦!」と罵ってしまって・・・・・・」
(わちゃー・・・・・・)
ラティエースは思わず天を仰ぐ。
確かに、バーネットの所業は下品極まりないが、ロザーヌの売春婦発言は頂けない。ロザーヌにも過失ありと見なされるだろう。
「どうすんの?」
ラティエースに問われたエレノアは、それには応じず、ロザーヌに向き直る。
「ロザーヌ様、ことの顛末を最初から見ていた人の名前は挙げられますか?」
「はい」
ロザーヌが言うと同時に、メモの束とペンがエレノアに向かってアンダースローで投げられ、エレノアは軽々とキャッチする。まさに、阿吽の呼吸だ。エレノアとラティエース、それにアマリアが仲が良いのは見聞きしていたが、本当に相性が良いというか、お互いの行動の先を読んだ上で、動ける間柄のようだ。
「では、この紙に書いてください」
書き終えたメモにサッと目を通し、エレノアは立ち上がる。
「ロザーヌ様。今日は寮ではなく自宅に戻ってください。できれば、講義もお休みしてください。わたしは、今から理事会に行って、この件の調査を依頼します。すぐに理事会と、それと生徒会も調査に乗り出し、関係者の聴取を始めるでしょう。聴取は必ず一人では受けず、弁護人を伴ってください。無理に一人で連れ出されたりした場合は、黙秘してくださいね。しばらくはおひとりで行動せず、どうしてものときは、行き先を誰かに告げてから動いて、居場所を明確にしておいてください」
「分かりました」
ロザーヌの返事に満足したエレノアは、足早に保健室を後にした。
「ラティ、これからどうする?」
エレノアの背を無言で見送ったラティエースは、壁時計を見やる。講義の時間は半分を過ぎている。
「次の講義まで図書館で寝てる。アマリアは?」
「今からでも検定って受けられるかな?」
「大丈夫なんじゃない?」
えっ、とロザーヌが目を見開く。
「アマリア様、検定試験だったんですか?」
「いいの、いいの。ハンデみたいなもんよ。わたし、計算得意だから絶対受かるもの」
でも、と言いつのるロザーヌ。
「じゃあ、アマリア。教室に戻る前に、ロザーヌ様を車止めにお連れして。わたしは、図書館に行く前に保健医を待って、ロザーヌ様の早退証明書をもらっておくわ。ロザーヌ様、荷物はありますか?」
「えっと、カフェテリアに置きっぱなしで。どうしよう・・・・・・」
「大丈夫ですよ。給仕長が保管してくれているはずです。早退証明書をもらったら、荷物を引き取ってご自宅まで送り届けますから」
「そんな、そこまでしていただくのは・・・・・・」
正直、ロザーヌはラティエースが苦手だった。無愛想で、素っ気ない。ラティエースもロザーヌの隔意を感じ取ってか、皇子たちの前では「メーン伯爵令嬢」と呼んでいた。
でも、ロザーヌの身を案じた上で、自ら行動してくれようとしている。ただただその親切に戸惑うばかりだ。
「いいの、いいの。ロザーヌ様は、自分のことだけ考えてね」アマリアは言って、ロザーヌの背を押し、出口へ向かう、ラティエースには「じゃあ、ラティ。あとよろしくー」と軽い調子で言った。
はいよ、とラティエースも軽く手を上げて二人を見送る。
このまま、出ていっていいのだろうか。逡巡してる間に出口が迫る。
ロザーヌは、意を決して振り返った。
「あのっ、お助けいただき本当にありがとうございました。今度からわたくしも、ラティエース様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
少し目を見開き、すぐに、ラティエースは柔らかい微笑を浮かべた。
「今度と言わず今からでも。ラティエースは長いからラティでいいですよ」