34.対峙
ブルーノ・ミルドゥナが、物心ついた頃から、父のオットーは、祖父への怨嗟を隠さなかった。ブルーノは、その言葉をロフルト教典の次に聞き続けて育ったと言っても過言ではないだろう。
祖父は、オットーの姉、カリーナ・ミルドゥナに、ミルドゥナ家のすべてを託すつもりで養育し、カリーナはそれに応えるべく、優秀な令嬢であり続けた。オットーには何も期待をしなかったそうだ。待望の跡取りであったはずなのに。
なぜ、男であるオットーよりも、カリーナが、祖父を喜ばせたか。
それは、祖父が蒼い血にこだわり続けたからだ。
祖父は、蒼の一族であることを誇りと思っていた。一時は玉座に最も近い、皇后腹の皇子として、宮廷に君臨していた。しかし、権力闘争に敗北した結果、当時のミルドゥナ大公の娘との婚姻という形で宮廷を追われてしまった。
権力争いに勝ち、皇帝の座に着いたのはケイオス一世の叔父にあたる皇子で、ただ一時の寵愛を得ただけの側妃の皇子であったという。その側妃の名は伝わっていない。歴史から完全に抹消されたのだ。
ところで、ロザ帝国には紋章院という部署がある。帝室を含めた名家の家系図や家紋を作成、保管する部署だ。降嫁したり、臣籍降下したりするとその紋章院で保管されている「皇族血統全書」に、二重線が引かれ、皇族であることを抹消される。それは、本人立ち会いの下に行われるちょっとした儀式らしい。
祖父は、自身の名の上に線が引かれた瞬間、全身に雷が走ったと言った。誇張ではなく本当に全身が震え、痺れたという。こうして、レオナルド皇子は、ただのレオナルドとなり、ミルドゥナ大公の入り婿となるべく、帝都を後にした。
祖母と結婚し、1年が過ぎた頃、祖母は女児を出産した。父であるミルドゥナ侯爵の姉、カリーナである。
祖父は歓喜したという。男子禁制であるにも関わらず、産屋として設えた寝室へ踏み込み、祖母を絶賛した。感謝の言葉と共に、「俺はまだ皇族だ!!」と叫んだらしい。なぜなら、その女児は蒼い血に包まれて生まれた子だったからだ。
この頃、祖父の血もまだ蒼いままだったという。祖父は血が変わることを恐れて、度々、手首を切り、血の色を確かめていたという。3年後、男児が生まれた。赤い血をまとった子、オットーである。そして、この頃、祖父の血は赤くなっていたという。ミルドゥナの一族は、跡取りの誕生に歓喜したと言うが、祖父は落胆したという。只人の赤の血を受け続く息子を。そして、自分の血を赤に変えたという、オットーにしたらえん罪甚だしい恨みも抱かれて。
無論、叔母の体を巡る血は赤だ。生まれた女児の体の中もそうだった。しかし、祖父は一時でも蒼の血に触れた叔母を溺愛し、跡取りの息子には関心を抱かなかったという。
祖父がラティエースを気に掛ける理由。それは、今はなき自身の娘とラティエースを重ねているからだ。面影がある、とことあるごとに言っていた。祖父はラティエースを娘の代わりに愛し、父は、祖父の愛を独占した姉の代わりに、ラティエーを疎んだ。
カリーナは20年ほど前に勃発した戦乱に、ミルドゥナ大公軍の軍人として従軍した。当時、オットーはぜんそくの発作が頻発し、とても戦いに出られる状態ではなかった。このことも、祖父を失望させたという。
カリーナは戦死した。敵の奇襲に対応しきれず瓦解しそうになった自軍の殿をつとめ、数千の兵で、十万の敵兵を足止めしたという。
戦後、オットーは懸命に大公領の立て直しに奔走したという。僅か、13、14歳の少年が、割れかけた一族の結束を結び直し、自ら夜盗討伐に出かけたりと、寝る間を惜しんで働いた。今も、祖母方の一族が、オットーに同情的なのは、こうした姿を目にしていたからだろう。
ミルドゥナ大公領が、今の富を得られているのは、父であるオットーの働きもあってのことだ。しかし、祖父はカリーナの死を悼み、息子のオットーの働きには何の反応も示さなかったという。祖母はオットーに感謝し、常に息子を愛したが、オットーが求めたのは、自分に背を向け続ける祖父の愛情であった。
――――――お前が死ねば良かったのに。
その言葉で、オットーは伸ばし続けた手を、ゆっくりと引いたのだった。オットーが15歳の頃のことであった。
オットーは拠点を帝都に移し、ロザ学園卒業後、当時皇太子であったケイオスの側近として出仕を開始した。ケイオスの勧めで、ヴェルゥーチェと婚約、一年後に結婚した。さらに二年後、ラティエース、ブルーノと続けて子宝に恵まれた。
オットーは、いくら求めても得られない愛情に見切りをつけ、目の前の家族を愛そうとした。ブルーノの記憶にも、幼少期は、家族で過ごした思い出が多い。父が手ずからスープを口に入れてくれたこと、熱を出したときは、氷枕を換えてくれたこと。つきっきりで看病をしてくれたこと。ボートに乗せてくれたり、操舵方法を教えてもらったり。いたずらをしたときは、壊した物よりも、大けがをしたかもしれないことを注意された。叱られた後は、必ず抱きしめてくれた。その頃は、ラティエースもブルーノも、同じだけの愛情を注がれていた。
ところが、それまで特に接触なかった祖父が、孫のラティエースを見いだしたことで、家族は引き裂かれたのだ。同時に、オットーが封印していた怨嗟が湧き出てしまった。
オットーは決して愚鈍な人物ではない。しかし、いつまで経ってもカリーナと比べられ、そのカリーナは故人であるが故に祖父の中で優秀であり続けた。彼女は死んでいる。ということは、もう二度と失敗や失態を冒さないということだ。死んでいるのだから、功績を積み上げることもない代わりに、間違えようもないのだ。対し、オットーは間違え続けた。ラティエースを家族と見なさず、レオナルドの代わりと見立てて、無視という名の虐待をし続けた。ところが、オットーの目測は外れた。レオナルドの分身であるラティエースが、無視ぐらいで折れることはなかったのだ。それは、ラティエースの変化が目に見えて現れた時期と重なる。それまで両親に従順で、引っ込み思案だった姉が、まるで別人のようになった。理不尽な叱咤に、真っ向から反論し、父が思わず手を上げたときもそうだった。ラティエースの目には怯えもなく、「こんな子どもに手を出して恥ずかしくないの?」と啖呵を切ったのだ。オットーは怯み、荒々しい足取りでその場を後にした。
ダルウィン公爵に目を掛けられ、大公の援助を受けているとは言え、姉は、南部商会と提携し、仲介業中心に次々と事業を展開している。その莫大な利益は、ミルドゥナ大公領に還元されているという。もちろん、その利益の一部を、自分の生活費や、ミルドゥナ侯爵にも流しているらしい。今、あの屋敷が維持できているのは、ラティエースの働きによるものだ。そんな娘に、「貴族令嬢として失格」、「ミルドゥナ家の令嬢として恥ずかしい」と悪態をついては、娘の金で遊んでいる。それは母も同じであった。気づけば、オットーは、侯爵という看板しかもっていなかった。同類の貴族と夜会や紳士クラブで、貴族であることだけを誇り、世間の潮流から背を背け続けた。
(その結果が、今の僕か・・・・・・)
ブルーノは今、ミルドゥナ大公領領府(=首都)・ダーナにあるミルドゥナ城にいた。建国祭直後、学園を休んで一週間掛けて此処にやってきた。
最後にミルドゥナ大公領を訪れたのはいつだっただろうか。
抜けるような真っ青な空も、肥沃な緑、どこまでも続く田園も、異国の船が行き交う港も、記憶にない光景ばかりで戸惑った。帝都とは異なる、どこか猥雑な雰囲気の街。真っ白な石造りの建物が並び、帝都のような整然とした秩序が全く見られない町並み。この無骨さが、ミルドゥナ大公領であり、オットーが嫌った生まれ故郷であった。
ミルドゥナ城は、別名ダーナ城とも呼ばれ、ロザ有数の観光名所だ。城の一部を開放し、観覧料を得ているのである。これもラティエースの発案だという。
小高く街全体を見渡せる立地に、ミルドゥナ城はあった。外装は石造りの無骨で、質素な作りだが、内装はその逆だ。広々とした内部は贅がこらされている。ブルーノは、一度、ダルウィン公爵の晩餐会に招待されたことがあるが、その公爵邸よりもずっと豪奢であった。特に、この開放感は、帝都の皇城でも味わえない。
皇城の謁見の間の縮小版ともいえる部屋に、ブルーノは通された。簡素な椅子が用意され、それに腰掛けている。その正面、金銀で象眼された四柱に支えられた壇上に、玉座によく似た豪奢な椅子が据えられている。
あれは玉座だ。父が欲しているミルドゥナ大公の玉座だ。そして、ミルドゥナ大公が欲したロザ皇帝の玉座でもあるのだ。
カツン、と靴音が鳴った。ブルーノは咄嗟に、椅子から滑り落ちて、平伏すべきか迷った。宮廷の慣例であるならば、絨毯の上に跪き、項垂れなければならない、が、ここは大公領であって帝都ではない。そうこうする内に、玉座の前に、その椅子に座る資格がある者、レオナルド・ミルドゥナ大公が立っていた。
ブルーノが、祖父レオナルドとまともに対面するのは久しぶりのことであった。
レオナルド・ミルドゥナ大公は、少なくとも見てくれは、老獪な人物ではない。むしろ、その逆だ。役者と見まがう美丈夫であった。オットーが、社交界で浮名を流しているのは、この祖父からの美貌を受け継いでのことだ。
大柄で、生まれ持っての華やかなオーラと、人の上に立って当然とも言うべき立たずまい。頭に白いものが混じってきたとはいえ、まだまだ現役と言えよう。オットーが彼の遺産を受け継ぐのは、当分先のようだ。
「久しぶりだな、ブルーノ」
よく通るテノールの声。どこか芝居がかっていると思うのは、さすがに偏見が過ぎるか。
「なぜ、わしにこの話を持ってきた?」
「それが、最善と思ったからです」
レオナルドの双眸から目をそらさず、ブルーノは言った。なるだけ平然を保ったつもりだが、心なしか声が震えていたかもしれない。祖父と対峙するということは、恐怖と対峙するということと同義であった。
祖父が怖かった。いや、今でも怖い。ミルドゥナ一族を統括する長。祖母亡き後、一族をまとめるのは、帝室という外からやってきた祖父であった。その身にミルドゥナの血を引かぬ男は、ミルドゥナ一族を繁栄に導き、帝国の3分の一を掌握する傑物だ。
「ふん・・・・・・。次から次へと愚か者どもは思いつくものだ」とひとりごちて、レオナルドはブルーノに視線を戻す。「この話を持ってきたのは、カンゲル男爵夫人か?」
「はい。その、夫人と父は、昔なじみだったそうで・・・・・・」
「ただの娼婦と客だっただけだ」
「父と夫人が関係していたのは事実なんですね?」
「そうだ。この話を持ってきたときに言われたのだろう?もしかしたら、バーネットは、お前たちの妹かもしれない、と・・・・・・」
「はい」
――――――妹だったかもしれないバーネットを助けてやって?
カンゲル男爵夫人はそう言って、ブルーノの手を握りしめた。触れられた瞬間、悪寒が走り、払いのけてしまったが。
「心配するな。あれの子ではない」
レオナルドがはっきりと言った。あまりにもはっきりと、そして疑いを微塵も抱かせない断言。祖父が言うならそうなのだろう。この祖父が、家を危険にさらすような事態に、手を打たないわけがない。
ブルーノが思案顔なのが、祖父は気に入らなかったのだろう。
「子が出来ぬ方法は、男の方でも対策ができるということだ。女の方には雇い主に言って、きちんと管理させていた。もっと言えば、ロフルト教皇国には親子関係を証明できる聖法とやらがあってな。ロフルトでは一般的な検査だ。それで調べさせているし、証明書も保管してある。当代教皇の御名御璽付きだ」
なるほど、とブルーノの納得はストンと身の内に落ちた。さすがはミルドゥナ一族の長だ。抜かりはないらしい。
「で、話を戻すが。なぜ、わしのところにこの話を?」
「・・・・・・。僕も、ミルドゥナ家を担う者です。この件は、家の破滅を招くと思いました。父はこの話を前向きにとらえるはずです」
(あなたへの対抗心だけで)
その部分は心中で呟くだけにとどめた。言わなくとも、祖父なら分かっているだろう。今やオットーの原動力は、祖父の権力を削れるか否かで決まる。
「バーネットが侯爵令嬢としてマクシミリアンに嫁げば、いずれは皇妃の実の父として権力を振えると考えておるのだろう」
ブルーノは押し黙った。
「皇子派の諸侯からはことごとく養子縁組を断られた結果、なりふり構わず話を持ってきたというところか。帝室に嫁ぐには、最低でも侯爵以上の娘でないといけない。そういう暗黙の了解があるからな」
これは、身分差別だけでは処理できない問題がある。皇妃には、何かと金がかかるのだ。みすぼらしい格好をして公務をされては国の威厳に関わる。もちろん、帝室にはそれなりの予算もあるし、財産も保有している。しかし、私的に使える金は意外に少ない。特に知られたくない用途の場合、帝室予算から手出しすれば、すべて記録されてしまう。そこで、帝室に嫁ぐ娘は実家から莫大な支度金を携えて婚姻する。婚姻してからも、化粧料といった形で実家から援助を受けるのが通常だ。実家からの援助が多ければ多いほど、帝室もその娘を重視する。彼らもその恩恵を受けるからだ。
マクシミリアンの婚約者エレノアは、ダルウィン公爵の一人娘であり、ダルウィン家は国内有数の資産家でもある。婚約期間中も、エレノアの公務に対する予算は付けられていたが、ダルウィン公爵はすべて私費でまかない、その予算は教会や慈善団体に寄付するか、そのまま翌年に予算を繰り越しさせていた。これは、国内外から大いに賞賛され、ダルウィン公爵の名声はうなぎ登りであった。
いくつかの奇跡が重なってバーネットがミルドゥナ侯爵令嬢として嫁いだ場合、化粧料はもちろん侯爵家から支払うことになるが、エレノアのようにバーネットに振り分けられた予算に手を出さないわけにはいかないだろう。寄付なんてする余裕はない。議会が、バーネットの予算にどれほどの値を付けるか分からないが、エレノアと同額もしくは同額以上とはならないだろう。世間では、今、エレノアの支度金の用途についてのニュースで大盛り上がりだ。難解な資産表を読み解ける者ならば、金の一部が帝室に流れていると気づくだろう。そうなれば、帝室の予算も把握できる。いかに、エレノアの支度金が帝室にとって重要であったか分かるというものだ。
仮にバーネットが婚約者の座に収まるならば、この支度金をミルドゥナ侯爵家が用意しなければならない。散財を続けるオットーに用意できるわけがない。もちろん、大公が用立てることもない。
「さて、ブルーノ。わしは、ある程度の期間、相手を観察し終わったら、二種類に分類する。使える者と、そうでない者。お前の両親とお前は、後者に分類されている」
「・・・・・・はい」
「そして、その考えが変わることはほとんどない。使えぬ者は死ぬまで使えぬ者だ」
そう。それが祖父の自身に対する評価だ。そう思われても仕方がない。ブルーノはずっと両親が正しいと思ってきた。今ようやくその誤りに気付いたから、此処に立っている。
「しかしな、お前ははじめて、わしの考えを変えた男になるやもしれん」
弾かれるように顔を上げると、レオナルドは口角を上げ、微笑みを浮かべていた。
「わしは、はじめて仕分けを間違ったのかもしれぬ」
「それは・・・・・・」
「お前は、一族を守るために、両親を切り捨てられるか?」
ジッと、紅い瞳がブルーノを見つめる。その目は、祖父が皇族であることを示す唯一の身体的特徴だ。残念ながら、オットーも、その子どもも祖父の紅い瞳は受け継がなかった。
「ありとあらゆる手段を用いて、それでも駄目だった場合、僕は両親を切り捨てます」
はっ、とレオナルドは声を上げた。この声の意味は嘲りか。それとも、失望か。祖父の望む答えでなかったことは分かる。けれど、ここで嘘をつきたくない。ブルーノは両親を、そして姉を愛していた。だから、最後まで諦めたくなかった。
「やはり、姉弟だな。お前たちは」
えっ、とブルーノはきょとんとレオナルドを見やる。
「ラティエースも同じことを言っていた。家族を切るのは最後だ、と」
「姉さんが・・・・・・?」
「愉快だ。愉快だぞ、ブルーノ。わしが間違っていた。お前はミルドゥナを担う者だ」
つまり、祖父にとって使える者ということか。ブルーノは冷静に受け止めていた。ショックなどではない。ようやく同じ土俵に立てたのだから。ここからは本当に自身の才覚で渡っていかなければならない。
そんな決意を胸に、声を上げて笑う祖父を見つめる。
「ブルーノ。ブルックスについて一から学び直せ。あいつにはわしから伝えておく」
ブルーノは一週間を掛けてミルドゥナ大領から帝都のミルドゥナ侯爵邸に戻った。早馬で、ブルックスに連絡が行ったのだろう。ブルーノは学園以外の時間は、ブルックスに教えを請うこととなった。帝王学から領地経営、一族の歴史、武術も当然、科目に入っていた。
ブルーノが日増しに生傷を増やす様を、母は嘆き、ブルックスに処罰を下そうとしたが、ブルーノは決してブルックスに手出しをさせなかった。祖父の名も出さず、あくまで自分が自主的にやっていると言い張った。
そうこうしているうちに、祖父の元へ持ち込んだ「バーネットをミルドゥナ侯爵家の養女にする件」について、すっかり頭の隅に追いやってしまっていた。書類はすべて祖父に渡したが、結局、あれはどうなったのだろう。
そう思いつつも、ブルックスの容赦ない打ち込みに、ブルーノはすぐに現実に引き戻された。
三百本の素振りを終えてようやく、小休止を許されたブルーノに、ブルックスは言った。
「ところで、坊ちゃま。坊ちゃまのお名前は、大公殿下がわたくしめの名を一部取ったのですよ?」
「今、言う?」




