116.前哨(中編)
ブルーノ・ミルドゥナ侯爵は、煌びやかに飾り付けられた会場一帯を見回し、大きく頷いた。
会場全体の装飾も、テーブルの食器類の一つ一つを見て回る。席次についてもその都度確認し、テーブルとテーブルの距離や花の位置まで気付くべきところはすべて確認した。
審査される側、スタッフも緊張した面持ちでブルーノを伺う。ブルーノは付き従うスタッフを振り返り、満面の微笑を浮かべた。
「よし。これで準備は問題ない。皆、よく頑張ってくれた。本番でも頼む」
そう言って、ブルーノは会場準備をしていたスタッフを労った。
給仕はロイヤル・M・ホテルから派遣されてくる予定だ。特にVIPは総支配人が自ら選んだ給仕をつける。すでに打ち合わせ済みで、事前練習にも問題点はなかった。あらゆる事態を想定した場面に、給仕たちはそつなくこなしていた。思わずその場でスカウトしたくなったくらいだ。
「無事に成功したら、給金は倍だ。頼んだぞ」
晩餐会のドア手前で立ち止まったブルーノは、最後の発破をかける。それは功を奏したようで、ドアが閉まった瞬間、喝采が巻き起こっていた。
(よし。これでスタッフのモチベーションは大丈夫だろ)
廊下に出て、ブルーノはほっと一息をつく。
晩餐会には、祖父であるレオナルドが出席することになっている。ブルーノは監督者として、裏方に徹する。その後の舞踏会は、多少あいさつ回りに出る予定だが、あくまでもサポート役だ。アレックスやエレノアの背後に控えることになるだろう。
「お疲れ様です、侯爵」
執務室に戻ると、ダルム・エン子爵が待機していた。
「うん。会場は問題なさそうだ」
「ロイヤル・M・ホテルからの給仕スタッフも間もなく到着予定です」
ブルーノは鷹揚に頷いて、応接用のソファーにどっかりと座り、背もたれに体重を預けた。背もたれのふちに首をおいて目をつむり、天を仰ぐ。
「招待客の方は?」
「最奥のお部屋の方々が騒いでいるようですが、スタッフが収めてくれています」
「そうか。他には?」
「アークロッド伯爵夫人がお子様を連れていらっしゃいました」
目を瞑っているからダルム・エン子爵の表情はわからないが、声色は苦々しいものだった。当然の反応といえよう。
「バーネットの、というより、マクシミリアン派のジジイどもの入れ知恵だろ。お披露目会でもしてるんだろうな」
「晩餐会にデビュタントを済ませていない子息、令嬢は参加できません。まさか、エレノア公爵令嬢の弟君がいらっしゃると耳にしたのでしょうか?」
どうかな、とブルーノは小さく呟く。もし、ダルムの言う通りなら、マクシミリアン派は優秀な間諜をエレノアのそばに置いているということだ。
「ウィル・ダルウィン公爵令息も、晩餐会の前にこっそり挨拶して、その後はおかえりいただく手はずになっているだけなのにな」
「いかがしましょう」
「放っておけ。ただし、晩餐会に参加させようとしたら阻止だ。マナーもへったくりもない子どもが参加する場ではない。それは、ジジイどももわかっているはずだ」
「かしこまりました」
早速、儀仗兵の選定に入るのだろう。遠ざかる足音を聞きながら、ブルーノは暫し意識を手放した。
―――第一来賓用控室
アーシア・アークロッド伯爵令嬢は、とにかく居心地が悪かった。
狭い部屋に押し込められた大人たち。皆、どこか不満げで不服そう。そして、怒っている。酒気の香りが充満していて、正直、気分も悪い。誰か窓を開けてくれないだろうか。だが、誰に頼んでいいかわからない。「ママとパパが戻るまで行儀よくね」と母に言われ、アーシアは言いつけ通り椅子にちょこんと座っていた。
アーシアの母は本当に人が変わったように、アーシアに構うようになった。時折見せる母親の顔に、アーシアは戸惑うばかりで、それは父も同じようだった。子供っぽいところは相変わらずで、無垢な少女のように躊躇いなく感情を顔に、態度に出す。わかりやすといえばわかりやすいから、彼女の機嫌の起伏を読み取り、距離をとって避難する芸当を学んだ。アーシアの避難場所は大体、蔵書室だ。まず、母親は蔵書室には近寄らないからだ。
そして、今。母親は大層ご機嫌だ。久方ぶりに、きれいなドレスを身にまとい、ネックレスや指輪、イヤリングも一目で高級とわかる品を身に着けている。ピンク色の髪も整えられ、化粧もしっかりと施している。黙っていれば、本当に可憐で美しい女性だ。対する父も容姿端麗である。きれいな金色の髪と深紅の瞳。燕尾服に身を包んだ父は、元皇子というだけあって様になっている。
父を称賛する人たちの中には、母の容姿も褒めていた。あくまで、容姿だけだが。
アーシアがぼんやりと考えていると、突然、怒声が響いた。
「調子に乗り追って、魔女の落とし子がっ!」
「この国は終わりだ。もう、終わりなのだ」
「誰がこの国を支えていたと思っている!」
ふと見上げれば、大人たちが怒りをぶちまけている。
先ほどまであの大人たちはアーシアと父を囲み、「先帝の面影がある」、「お父上似だ」、「将来が楽しみだ」だのなんだの言っていた。アーシアは品定めされているようで不快だった。ついに我慢しきれず、父に願って抱っこしてもらっていた。父もアーシアの居心地の悪さを察してくれたのだろう。抱っこどころか肩にアーシアが腰を下ろせるようにして高く抱き上げてくれた。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、父と母はあいさつ回りとかでアーシアを置いていってしまった。
「大丈夫?アーシア?」
覗き込むようにして気遣わしに問うたのは、アーシアの婚約者、ビルマン・グリーニッジ伯爵令息であった。アーシアは婚約者というものがよくわかっていなかったが、婚約者=兄のような存在、と認識していた。ビルマン兄は、いつも優しい。頭を撫でてくれるし、膝にも乗せてくれる。
アーシアはコクンと頷いた。
「そっか。晩餐会が始まったらお家に帰れるから、もう少し頑張ってね」
「兄さま、ちょっと暑い」
「わかった。窓を少し開けておくね」
ビルマンが開けてくれた窓から心地よい風が入ってくる。
「ビルマン、ちょっとこっちに来なさい」
そう呼びつけられたビルマンは、アーシアに軽く手を振って、両親の元へ向かう。アーシアはまた独りになった。
父や母が傍にいないアーシアに、興味を示す大人たちは皆無であった。一瞥して、侮蔑の微笑を浮かべる者もいた。母をよく思っていない人たちがこういう嫌な顔を向けてくる。
アーシアは、父がそして母が何かをして、今の立場に甘んじていることは幼子ながらに肌で感じ取っていた。だが、それが何なのか誰もはっきりと教えてはくれない。心に澱のようなものが沈殿して落ち着かない気分になる。変に隠したりせずに教えてほしい。
―――あなたは本当は皇女様だったのよ。マックスは皇帝で、わたしは皇妃だったのに。全部、あの人たちのせいで。
何度、このセリフを聞いたことか。
アーシアが目を伏せたとき、フッと影が落ちた。
「アーシア、帰ろう」
ビルマンが微笑して手を差し出した。
「ビルマン、待ちなさい。まだ話が・・・・・・」
ビルマンの母、リネット・グリーニッジ伯爵夫人がドレスの裾を持てこちらにやってくる。アーシアに向ける顔はいつも厳しい。アーシアと目が合った瞬間に眉間にしわを寄せ、視線をそらした。
「もうすぐ晩餐会でしょ?母上、バーネット伯爵夫人についているようネーナおばさんに言われてるでしょう?」
「そっ、そうだけど・・・・・・」
リネットはネーナの名を聞いて、たじろぐ。ネーナはグリーニッジ家にとって絶対の支配者なのだ。たとえ当主夫人といえど、ネーナには従わなければならない。それがグリーニッジ家の掟だ。
「僕はアーシアと一緒に屋敷に戻るよ。行こ、アーシア」
アーシアビルマンの手を取ろうとした瞬間、ビルマンがリネットに腕をつかまれ、そのまま引き寄せられる。
「あまりあの子に関わらないで。婚約だっていつまでか分かったものじゃないんだから」
リネットが息子に耳打ちする。
「ネーナ様もわたしが社交界でどれだけ肩身の狭い思いをしているか分かってほしいものだわ」
「それ、僕にじゃなくてネーナおばさんに言いなよ」
ビルマンはうんざりした様子で言って、母がつかんでいた自身の腕を振りほどく。
「アーシアはいい子だよ。バーネット伯爵夫人についてはノーコメント」
「将来、あの女のようになる要素があるってことでしょ。冗談じゃないわ」
「ネーナおばさんが手綱を握ってる限り大丈夫でしょ。僕、もう行くね」
ビルマンは今度こそアーシアと手をつなぐと、控室を後にした。リネットも今度は引き止めるようなことはせず、ただ恨みがましい目で我が子の背を見送った。
「ごめんね、アーシア。母上が嫌なことを言って。気にしないでね」
「うん」
ビルマンは控室の儀仗兵に帰宅する旨を伝えた。しばらくお待ちください、と留め置かれる。しばらくすると、車止めまで案内してくれるという給仕服姿の男性が現れた。彼を先導役にして、ビルマンとアーシアがその後ろを歩く。
「帰ったら、絵本を読んであげるね」
「ありがとう、兄さま」
角を曲がり、長く続く皇城の廊下を歩く。自分もいつか文官としてここで働きたい、とビルマンは夢見ていた。
と、その時であった。少年と、身なりの良い大人がアーシアの眼前を横切ろうと姿を現した。その後ろから二回りほど小さな影も現れる。
アーシアは、その陰の主にくぎ付けになった。
アーシアの前を横切る少年の金糸の髪がフワリと舞っていた。翡翠の大きな瞳は吸い込まれそうなほど美しい光を讃えている。きめ細やかな白い肌に、理知的な眉がスッと伸び、形良い鼻梁とみずみずしい口元。
アーシアは同い年くらいの子どもで、こんなに美しい子どもを見たことがなかった。
彼は仕立ての良い灰色のツイードのベストと白いシャツを着ていた。胸元には赤いネクタイを締めている。半ズボンから延びる白い足先は白のソックスと茶の革靴に包まれている。
少年の半歩先を行く大人は若く、少年には劣らないまでも、すっきりとした顔立ちの男だった。
少年がアーシアを横目でちらりと見やる。それだけでアーシアの体はカッと熱くなった。
しかし、少年は興味なさげに視線を正面に戻し、「侯爵、待ってください」と言って、先にスタスタと歩いていた大人を小走りで追いかける。
「あれは・・・・・・」
ビルマンの声に、アーシアはハッと我に返る。
「知ってるの?兄さま」
アーシアの勢いにたじろぎながらも、ビルマンは肯首した。
「うん。ブルーノ・ミルドゥナ侯爵とウィル・ダルウィン公爵令息だよ」
あの二人は兄弟ではない。アーシアはそれだけは理解した。
それよりも、ウィル。ウィル・ダルウィン公爵令息。なんて素敵な男の子だろうか。
「兄さま、お二人と知り合い?」
「まさか。貴族の中でも最上級の爵位をお持ちの方々だ。挨拶くらいはしたことあるけど、向こうは覚えてないだろうね」
そっか、とアーシアは失望を込めて返す。そして、思考を切り替える。では、どうすれば知り合いになれるだろうか、と。
(そうだわ。お父様は元皇子様。だったら、お友達になりたいってお願いしたら、何とかしてくれるかしら?)
アーシアの頭は一瞬にして、ウィルのことだけでいっぱいになった。
(わたしの王子様・・・・・・)




