107.ブルーノとミルカ
ブルーノ・ミルドゥナが、帝都のミルドゥナ侯爵本邸に帰宅するのは、二週間ぶりのことであった。ブルーノは基本的に皇城に詰め、時折、祖父の邸宅に泊めてもらう。忙しいというのが理由だが、それは建前だ。長年育ったこの邸宅に近寄ると自然と過去を思い出す。父を放逐した過去、母が出て行った過去、そして、姉のことも。多忙を理由に逃げているのだ。己の愚行とセットで思い出されるから、精神的なダメージが大きい。結論はいつも我ながら女々しい、だ。
(いっそ、更地にして立て直すか)
そう思いつつ、毎度決断できないのだ。そんな自分に嫌気がさし、ブルーノは嘆息する。
家に入る前から若干疲れを増やし、玄関前に停められた馬車から降りる。玄関に続く階段を昇りきったところで、玄関の両扉が内側から開かれる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
執事長のブルックスが恭しく頭を下げて出迎える。その後ろには、揃いの衣装を着たメイドとフットマンが並ぶ。彼らも上司に倣って頭を下げた。
「ああ。今、戻った。皆も出迎えご苦労。仕事に、いや休んでくれ」
夜間勤務以外の人員は、すでに就寝してなければならない時間だ。メイドたちの朝は早い。主人不在が多いが、それでもいつでも主人を迎えられるようブルックスに躾けられているはずだ。
ブルックスは首を巡らし、後ろに向かって頷きかける。メイド長の促しによって、彼らは一礼し、玄関ホールから散っていった。
「お疲れでしょう。湯汲みもご用意しておりますし、夜食もございますが」
「資料を取りに戻っただけなんだ。すぐに戻る」
「臨時の議会が開かれているとか?」
「ああ。陛下の開会の挨拶を見届けて戻った。貴族院は夜通し議論が続くだろう。下手すりゃ、三分の一が職を無くす」
廊下を歩きながらジャケットを脱ぎ、鞄もブルックスに手渡す。ブルックスが後任に考えているフットマンがそれらをブルックスから受け取り角を曲がる。ブルーノの私室に運ぶのだろう。
「ところで旦那様」
「ブルックス。坊ちゃまで構わんぞ」
「ご冗談を。それはそうと、お客様がお見えです。すでに客室でお休みです。連絡が遅れましたことをお詫び申し上げます。罰はいかようにも」
「それだけ切羽詰まっていたんだろ。で、誰だ?」
「ミルカ・ラドナ・アルケイン王女殿下です」
(今日はどんな厄日だよ)
ブルーノはその場にぴたりと立ち止まり、手で顔を覆ったまま天を仰ぐ。
「・・・・・・。今日は泊まる。明日、朝食を共に、と。あと議場に手紙を届けてくれ。すぐに書くから」
「かしこまりました」
顔を覆っていた手を鼻先まで下ろし、くぐもった声で指示を出す主人に深い同情を込めて返事をする。
(ごめん、アレックス。独りで頑張ってくれ)
翌朝。
ミルカ・ラドナ・アルケイン王女は、餐堂に現れた。シンプルな空色のドレスに身を包んだ彼女は、すでに到着していたブルーノに目を留める。
一年と数ヶ月ぶりの彼女は、幼さが消え、母譲りの美しさが際立っていた。銀色の髪が腰元まで流れ、深紅の瞳にかかる睫がけぶるよう。潤った口元には薄く紅を引き、血色の良さをより引き立てている。あくまで彼女の美貌を引き立たせる控えめな化粧だ。ブルーノも思わずその美しさに溜息をついた。
「あら。このまま居留守を使うのかと思ってたけど?」
「とんでもない。事前にお知らせ下さればそれ相応のご用意ができたのですが」
ブルーノは嫌味を込めて言った。先触れもなく勝手に訪問しておいて、どういうつもりだ、と。
「あまり仰々しくはしたくなかったから。一度、お姉様の育った家というのを見ておきたかったの。ところで、朝の挨拶が未だだったわね。おはよう、ブルーノ・ミルドゥナ侯爵」
「おはようございます。ミルカ・ラドナ・アルケイン王女殿下」
ミルカは当然のように暖炉の前、主人の席に座った。背後にミルドゥナ家の紋章が掲げられているその席に。この席は父ですら座ったことがない場所であった。祖父が、ラティエースとブルーノ、アレックスの賠償金について話し合った時に座って以来だ。
その席に躊躇いもなく着席できる王族の図太さが正直羨ましい。
ブルーノは何も言わず、その斜め右に座る。
「わたし、回りくどいのは嫌いなの」
「僕もです」
ブルックスがモーニングティーを出して、そのまま下がった。ミルカの前にはフルーツの盛り合わせが並んでいるから、空腹はとりあえずそれで凌いでもらうことにする。
「あなたたち、何を考えているの?」
茶器に口を付けて、ミルカがブルーノを睨み付ける。
「何のことでしょう?」
ブルーノはミルクと砂糖をたっぷり入れてから口を付ける。
「貴族のことは貴族で決めるべきよ。それを平民の代表たる衆民院と手を組むなんて」
「彼らほど国民の声に近い存在はありません。陛下が耳を傾けるべきと判断したまでのこと」
「嘘おっしゃい!いい?彼らに貸しを作れば、いずれ帝政は揺らぐのよ?ロザほどの大国が有象無象の民主制に移行してご覧なさい。国は分裂し、内乱だって起きることになるわ」
「いずれ、でしょう?」
「混乱の種をまいたまま、後世に引き継ぐというの?無責任だわ」
「確かに。しかし、僕らもなりふり構っていられないんですよ。何せ、親父世代は皆、無能で、有能な方々は皆、高齢だ。今のうちにできる限り老害を排除しないと。たとえ、貴族と相対する衆民院と手を組んだとしてもね」
「全て承知だというの?」
「まあ、そうですね」
「お姉様は絶対にそんなこと、許さなくてよ」
「そうですかね?わりと「いいんじゃない?」で済みそうですけど。何より、あの人は自分の生まれをありがたがっていませんでしたから」
ミルカは一瞬押し黙る。そうかもしれない、と不覚にも同意ししそうになった。
「それに、ベン・クーファは国家運営の権力を貴族から民衆に移行させたいと思っているだけで、混乱させたいとは微塵も思っておりません。段階を踏んで、貴族制度を潰すでしょうよ」
「あなた、それをみすみす許すの?」
「まさか。僕も高位貴族の一員です。一族を守る義務がある。そう易々、先祖代々の土地や財産を渡す気はない」
「じゃあ、どうするのよ」
うーん、とブルーノは僅かに宙を仰いだ。
(時期尚早とは思うんだが・・・・・・)
こうして、わざわざキャンキャン喚く子犬が飛び込んできたわけだ。この機会を逃す手はないだろう。
「ミルカ王女殿下」
「何よ」
ブルーノの真剣な表情に、ミルカは思わずたじろぐ。
「僕と結婚しましょうか」
ミルカは生まれて初めて、マナー違反を犯した。講師がその場にいれば、卒倒するような振る舞いをやってしまった。
それは、口に含んだ紅茶を吹き出したことであった。
ブーッ、と勢いよく吐き出されたそれは、真っ白なテーブルクロスに飛び散る。
「なっ、なっ、何を。ゴホッ、ゴホッ・・・・・・」
顔をリンゴよりも紅くしたミルカの口元からは、紅茶の水滴がついている。
「あーあ。ほら、落ち着いて」
ブルーノは席を立ち、自分のナプキンをミルカの口元にあててやる。
「自分でやるわよ!」
ミルカは奪い取って、口元を拭う。
「あっ、あなた!自分が何を言ったか分かっているの?」
「ですから、結婚しましょう、と」
空気を求める魚のように口をパクパクさせるミルカに、顔には出さないものの、ブルーノは意外に思った。
(ロフルトの時は随分と大人びて見えたけど、こう見ると年相応というか、何というか・・・・・・)
「貴族社会の崩壊を危惧しているあなたなら、僕との結婚はメリットが大きいのは分かるでしょう。デメリットはお互いがお互いを愛していないだけだ」
ブルーノは言い切った。そう言ってあげた方が、ミルカには救いになるだろうとの判断だ。あくまでこれは取引だ、と。彼女に本当に愛する人が出来たなら、ブルーノはそれを邪魔することなく、お互いの努めさえ忘れなければ、好きにすればいいと考えていた。かつての両親がそうであったように。
「あっ、あなたはそれでよろしいの?」
「ええ。僕も貴族です。政略結婚は当然と受け入れている。ましてや、真実の愛とやらで国を危機に追いやった皇子の側にいたから、尚更身に染みていますよ」
「お兄様と、ラティ姉様はどうなるのよ」
「帰ってこない人のことを考えてもねぇ・・・・・・」
次の瞬間、パンッと乾いた音が餐堂に響く。
頬を弾かれたブルーノ。
目尻に涙を溜めて睨み付けるミルカ。
静けさが、二人の間に流れる。
「あなたが、実の姉弟のあなたが、それを言うの!?」
ブルーノは顔を背けたまま何も言わなかった。
レイナードは、西方諸国の姫君たちと何度かお見合いのようなことをしており、その中でも有力な貴族令嬢と何度か逢瀬を交しているという。皆、ラドナ王国にとって有益な縁組だ。いつ婚約発表がなされてもおかしくはない。
ブルーノはレイナードが不実とは全く思わない。むしろ、ようやくふっきれたのか、と賞賛したいくらいだ。問題なのは、アレックスの方だ。未だにラティエースに拘っているし、エレノアを始め、それを咎める者がいない。ましてやエレノアはラティエースを思い続けるアレックスに好感すら抱いている。
アレックスの思いを美談にしてよいのか、とブルーノは最近になって思う。国を導く者としてそれで本当に良いのか、と。エレノアとリートリッヒ一世の成婚が進められる中で、その思いは一層強くなる。けれど、ブルーノはアレックスに告げることができない。姉を諦めろ、と。
「純愛が尊ばれるのは、物語の中だけですよ」
そう言ったブルーノの顔は、苦笑しているその中に、何だか泣きたくてたまらないという子どものような表情が浮かんでいた。
侍女のスールは、ミルカの専属侍女であった。初めて対面した時から、ミルカはスールにとって神と同等の存在であった。この方に仕えるために自身は生まれてきたのだと本気で思った。日ごと美しくなり、知性も他の淑女とは比べものにならない。
馬車の中にいるミルカは、車窓に頬杖をついて外を見ていた。
突然、ロザ帝国に行くと言ったときは何事かと思ったが、ミルカの決意は固く、あっという間に旅支度を整え、ロザに入国した。
皇城に行くこともなく、ミルドゥナ侯爵邸を訪問し、そのまま一泊。今朝、ミルドゥナ侯爵と対面した。人払いを命じられたため、スールは外で待つしかなかった。未婚の男女は二人りきりにするなど禁忌であったが、侯爵家の執事にも「決して間違いは起こりません」と諭され、信じて外で待つしかなかった。
しばらくして、ミルカは飛び出してきた。その前に、肌を弾く音とミルカの怒鳴り声が響いていた。
そのままスールの主人は「帰る」と言って、今に至る。
紅くなった掌。
泣いたのか、少し目元が紅い。
あと、胸元に紅茶の飛沫が散った跡。主人は「噴いただけだ」と言ったが、今思えばそれはそれで問題発言だ。あのミルカがどうやったら紅茶を噴くような事態に陥るのだろう。結局、詳細は教えてもらえず、着替えをすることもなく馬車に乗り込んだ。
(服が乱れてはいないから、乱暴されたわけじゃないだろうけど・・・・・・)
何があったか気になるが、問える雰囲気ではなかった。とりあえず、帰国してから考えることにする。女王に報告すれば、後はよいようにしてくれるだろう。二人きりにしたことは叱咤を受けるだろうが、懐にはブルックスとブルーノが書いてくれた手紙もある。これには、スールに咎が行かないよう書かれていると言っていた。
「ねえ、スール」
「はっ、はい。姫様」
スールは我に返り、反射的に返事をした。ボーっとしていたことを咎めることなく、スールの主人は嘆息する。
「わたしとブルーノ侯爵が婚姻したらどうなると思う?」
「えっと・・・・・・」
求婚されたのだろうか。いや、しかし、ミルカはブルーノに対する評価は著しく低かったはずだ。ゴミクズだのなんだの言っていたと記憶するが。
「わたしと彼に子ができれば、その子はお姉さまが戻らぬ限り、ミルドゥナ大公領を相続するわ。お兄様に子ができなければ、ラドナ王国の王位も継承し、二重統治ということになる。ロザ帝国の国力が低下すれば、ラドナ王国の一部とすることも可能かも」
「それは・・・・・・」
一介の侯爵が王女を迎えるのは、あまり例がない。ただしミルドゥナ家は名門だ。その一門だけで二十以上の親族が伯爵位から子爵を叙爵している。その一門の直系子息であるブルーノがミルカを花嫁として迎えるならば、きっと大公妃として迎えるだろう。
ラドナにとっては夢のような話だろう。肥沃な土地が一気に自国領になる。ただし、果たしてロザが指をくわえてみているだけだろうか。断じて、否だ。とすると、この成婚は諸刃の剣だ。ラドナが消滅する可能性もある。ミルドゥナ大公が後ろ盾になっても、難しいだろう。
何年か前に、ラティエースとレイナードの婚約の噂が出た。ラティエースの祖父とレイナードの母親が親しかった縁でこの婚約はわりと真実味を帯びた噂であった。実は、当時のミルドゥナ侯爵、つまりラティエースの父もこの婚約を支持していた。もしラティエースがラドナ王国に嫁げば、レオナルドの死後、大公の位が自分に転がり込む可能性が高くなると予想したからだ。仮にレオナルドがラティエースを推しても周囲は賛成しない。ロザは自領を守るために、嫁いだ孫よりも、オットーかもしくはブルーノに相続させるべきだというだろう。ラティエースの背後にはラドナ王国があり、大公領をラドナに持っていかれる可能性が高い。事実、ラドナ女王はその野心を隠しもせず、しかし明言も避ける形でちらつかせていた。
大公と侯爵の親子確執は有名であったし、孫のラティエースが祖父の溺愛を受けていることも周知されていた。レオナルドならばやりかねないという評価が貴族だけでなく、皇帝をはじめとした皇族も考えていた。現に、レオナルドはケイオス1世からやんわりと釘を差されている。結局、レオナルドは、諸々の時勢を考慮して、ラティエースの婚約者はレイナードではなく自国の貴族令息を選んだ。
もし今回、ミルカとブルーノの婚約が具体化されれば、一度棚置きした国際問題がまた再燃するということだ。現在、ラティエースは所在不明、レイナードも婚約者候補の選別に入ったところで、婚約に至るまでにはまだまだ時間がかかる。レイナードの婚約者が、どの国の出身であるかは大変重要視される。世界中が注目しているといっても過言ではない。ラドナという国は、天秤の中央、支柱なのだ。どちらに傾くかで世情は大きく変わる。ソレを手玉に取るのが、ラドナの王族でもあった。
少なくともロザ帝国は、レイナードが他国の娘と婚姻し、子が生まれるまでは警戒し続ける。ロザの血を引かない後継者が生まれて、ようやくロザ帝国はミルドゥナ大公領がラドナ王国に盗られることはない、と安堵するのだ。
「ひっ、姫様は玉座をお望みですか?」
スールに向き直ったミルカは瞬いた。
「そうね。お兄様が王になるものと思い込んでいたから、自分が女王になることは考えてこなかったかも」
ミルカにとっても、レイナードにとっても、レイナードが王になることは当然のことと考えていた。
兄は優秀だ。施政者としての素質を全て兼ね備えていると断言できる。ラドナという地政学的にも問題の多い国を戦禍に巻き込まれることなくかじ取りをしていったのだ。
ラティーエス失踪の一報を聞いたレイナードは、その瞬間、インク壺を倒してしまうくらい動揺していた。補佐官に詳細な情報を報告するよう指示した後、インクが執務机に広がるのを構いもせず、呆然と立ち尽くしていた。
(きっとすぐに飛び出して捜しに行きたかったはずだわ。だって、もし、お兄様が失踪したら、お姉さまは迷うことなく探しに行くもの)
ラティエースは自身が貴族令嬢ということをまるで気にせず、旅の準備をするだろう。
兄は、そんな大切な者のためにあっさりと肩書きを捨てられるラティエースを愛しているのだろう。憧れにも似た思いで。
「王位簒奪か・・・・・・」
そうすれば、兄は自由になり、ラティエースの元へ駆けていくだろうか。
そうして欲しいという思いと、王としてラドナ王国を守って欲しいという思いが交差する。
(結局、わたしはどうしたいのかしら・・・・・・。そして、お兄様にどうしてほしいのかしら)
答えが出ないまま、ミルカは帰国の途につく。




