103.バーネットの準備
――――ロザ帝国帝都ロザ内グリーニッジ伯爵家本邸
数日前から、ムロウダの住まう屋敷には、次男の婚約者になったアーシア・アークロット伯爵令嬢とその両親が滞在していた。ただし、父親であるマクシミリアンは派閥の貴族に連れまわされて、早朝から深夜まで人脈作りに勤しんでいる。本人は、とても嫌そうではあるが。
そして、アーシア伯爵令嬢は幼子であることから、なぜ、自分が此処にいるかもよく分かっておらず、乳母や侍女、グリーニッジのメイドたちと楽し気に遊んでいる。性格も素直で優しく、わがままも少ない。さらに見目麗しい幼女に、誰もが顔をほころばせ、あのネーナも頬を緩めている。
「嫁選びは失敗したけど、子育てはまあまあじゃないの」
ネーナはそう言って、今日も、アーシア嬢に絵本を差し入れていた。次男も婚約者と言うよりも妹のようにかわいがり、彼らなりの交流を深めていた。
(嫁ね・・・・・・)
ムロウダは、テーブルマナーの授業を受けているバーネットにチラリと視線を向ける。真っ白なテーブルクロスの上にカトラリー一式が並び、大小さまざまワイングラスもシャンデリアの光を反射して鎮座している。一応、今はメインディッシュの食べ方を習っているようだが。
仮にも下級とはいえ貴族令嬢だったのだろう。そして、皇子の恋人、果ては伯爵夫人となりおおせた娘のマナーは、お世辞にも合格とはいえず、むしろ落第点であった。子どもでもしない食器同士の重ね合わせ、大音量を響かせ、肉を切る時に皿まで切り分けてしまいかねない力任せのナイフ使い。スープをまさか皿に口を付けて飲もうとしたときは、講師、メイド、そしてムロウダ一同唖然とした。
(これが、仮にも皇子妃になるかと言われた女か?)
マナー講師はすでに3人目だ。他に座学講師も何人入れ替わったか分からない。皆、講義中のバーネットの反論に疲れ果て、辞退を申し出た。すべてムロウダ自身が手配した者たちではないとはいえ、気の毒だった。皆、一流の家庭教師として名をはせていたというのに。最初の頃は、慰労金として金を握らせていたが、5人目の辞退者が出たとき、それもやめた。
最近では、講師が辞めるたびにファネー伯爵家に遣いを送る。数日後、新しい講師がやってくるという日々が繰り返された。その家庭教師も一流から三流の上の方という人材が送られるようになっている。ファネー伯爵の人脈をもってしても、そろそろ人材が枯渇しているらしい。
そんな中、どこから聞きつけたか知らないが、ネーナが珍しく本邸に姿を現した。バーネットの様子を一通り聞き終えると、座学の一部と、マナー、特に挨拶や皇城での振る舞いについては引き受けると言った。
「いや、しかし。お話しした通り、伯爵夫人はとても難しい方でして」
「承知した上で言ってるの。うちのサロンの娘たちより随分と意地の悪そうな娘。それでいて、男にはその部分を見せないで、表情や話術、仕草で惹きつける。天性の悪女だね」
「はぁ・・・・・・」
一応、ムロウダは礼儀として止めただけだ。ネーナはやると言ったらやる。グリーニッジ家の陰の実力者に、ムロウダが勝てることなどないのだ。
「好きにしてください」
「もとよりそのつもりよ」
ネーナの教え方は独特であった。まず、座学は机にテキストを広げて講義するような形はとらない。四阿かどこかでお茶を飲みながら、まるで世間話をするように歴史を語る。テキストは宗教画や絵画といった文字が極力削がれた書籍を数冊のみ。
話の合間に「〇〇男爵と××伯爵令嬢は愛し合っていた」や「実は、△△侯爵の初恋は女優の★★」といった恋愛話を混ぜ入れて、バーネットの興味を引き付ける。続きをせがむバーネットに、「その話の前に、ちょっとした歴史背景を説明しておくね」と言えば、バーネットも素直に耳を傾け、ともすれば質問をする。「どうしてそうなるの?」と聞けば、「当時のロフルト教の信仰で・・・・・・」と話が広がりを見せる。これには講師たちも舌を巻いた。
「えっ、じゃあ、マックスの御ばあ様の御ばあ様の御ばあさまは、社交が嫌で北方辺境伯に嫁いだんですか?」
「ええ、そうよ。宮中マナーに嫌気もさしていたというね」
「なんだー。わたしだけじゃないんだー。意味わかんないものが多いもん」
「そういうものも多いがね。貴族はね、マナーを見て篩にかけているのさ」
分からない、とバーネットは小首をかしげる。
「このマナーを完璧にこなせるかどうかで付き合うかどうか決める。マナーはね、確かに相手を不快にさせない所作でもあるが、自分と同じステージに立てるかどうかを判断する物差しでもある。上流階級のマナーは平民が覚える必要はない。何故なら、平民まで覚えてしまったら、服装さえ整えてしまえば誰が貴族でだれが平民か分からなくなるからさ。まず、マナーを覚える手段を狭める。貴族と貴族に準ずる者だけが覚え、その所作を見れば、身分証明になるというわけだ。だから、時折、マナーを身に着けた平民がいると、彼らは評価を正す。子どものころから叩き込まれる貴族と違って、平民が一流のマナーを身に付けるのはある程度の年齢がいってからと言う者も多い。平民出の外交官は、まず3年はマナー講習漬けになるというよ?」
「そんなの、身分差別だわ。話して、その人が好きだと思ったら仲よくすればいいじゃない」
「大人になると、それが難しいのさ。だから、バーネット」ネーナはバーネットを見据え、「あんたはそれを逆手に取りな?」
「逆手に、とる?」
「そう。せっかくマナーを学べるお膳立てをしてもらってるんだ。そういう所作で相手を馬鹿にする奴にぎゃふんと言わせる方法は一つ。あんたが、そのマナーを完璧に覚えて披露し、こう言ってやるのさ」
「・・・・・・。大した事ないですわね」
その見下した口調に、バーネットは一拍置いて噴き出す。
「何、それ」
「おや、ダメかい?」
「ダメじゃないけど・・・・・・」
(・・・・・・。エレノアたちも相手に侮られないためにマナーを一通り覚えたのかしら)
あのラティエースでさえ、普段は貴族令嬢とは程遠い所作をしていたが、公式な場ではその一切を封印し、口調まで変えて貴族たちと渡り合っていた。一度、彼女たちのカーテシーを見たことがあるが、それは優雅で、ぎこちないところもなく、自然とこなしていた。あれほど自然にできるまで一体、どれくらいの時間を要したのだろう。
「わたしにもできるかな?」
バーネットがポツリと言った。
「全部は無理さ。でも、来月の宮中晩餐会で恥をかかない程度には仕込んでやるよ」
「マックスも喜んでくれるかしら?」
「もちろん。ついでに、アーシア姫もきっと美しいお母さまを見て喜ぶに違いない」
以降、バーネットはほんのわずかだが勉学に真剣に取り組むようになった。相変わらず他の講師の講義は居眠りや癇癪を起すことはあったが、それでも以前より随分とマシになった。大体、かんしゃくを起こす日は決まっていて、それはネーナのスパルタ授業の翌日で、睡眠不足、筋肉痛によるものだった。
今までであれば、夜更けまで何度も廊下を往復するなんてことに意味はないと部屋に閉じこもっていたはずだ。しかし、ネーナも根気強く付き合い、「歩き方が美しい」、「今のは最高に良かった」と褒めるときは大いに褒めてくれる。そんな彼女にバーネットは童女のように慕った。ネーナの講義だけはどんなことがあっても歯を食いしばって耐え続けた。ネーナは不出来なときはためらわず鞭をふるった。そして、講義終わりには傷薬を持参してバーネットを褒めた。今日もよく頑張ったね、と。
バーネットは大人になってようやく学ぶ楽しさ、出来る楽しさの片鱗に触れたのであった。
そして、ここまでバーネットに親身になってくれるネーナに理想の母を重ねていた。
バーネットのつかの間の幸せがそこにはあった。




