線香のにおい
……ああ、今、線香のにおいが、した。
なんてことない日常で、ふわりと香る、辛気臭いにおい。
どこにも姿がないのに、なぜかにおう、その気配。
このにおいは、いったい。
このにおいは、どうして。
このにおいは、もしかして。
スン、スンと…鼻を鳴らして、あたりを確認する。
……よくにおいを嗅いでみたら、線香じゃ……ない。
鼻腔に届いた、コーヒー独特のコクのある香り。
キッチンのシンクの端に…、ドリップコーヒーのカスが落ちている。
香りは、空中にふわりと漂うもの。
ごく普通の空気との境目には、希薄な香りが存在している。
うすい香りの端っこが…線香の煙たさとほんの少しだけ、似ていたようだ。
……コーヒーの中にある焙煎という過程が、仄かに線香の燃焼と重なったのかもしれない。
私は勢いよく水を流して…匂いの元凶を葬った。
……ああ、今、線香のにおいが、した。
なんてことない日常で、ふわりと香る、薄暗いにおい。
どこにも姿がないのに、なぜかにおう、その気配。
このにおいは、いったい。
このにおいは、どうして。
このにおいは、もしかして。
スン、スンと…鼻を鳴らして、あたりを確認する。
……よくにおいを嗅いでみたら、線香じゃ……ない。
田舎道に面した畑の端っこで、野焼きをしている。
鼻腔に届いた、枯草の燃える臭い。
臭いは、空中に解き放たれるもの。
ごく普通の空気との境目には、希薄な臭いが浮いている。
風に流された臭いの端っこが…線香のきな臭さとほんの少しだけ、似ていたようだ。
……確かに枯草が燃えているのだから、線香の燃焼と重なるのは致し方ない。
私は少々歩みのスピードを上げて…臭いの元凶から逃げ出した。
……ああ、今、線香のにおいが、した。
なんてことない日常で、ふわりと香る、縁起の悪いにおい。
どこにも姿がないのに、なぜかにおう、その気配。
このにおいは、いったい。
このにおいは、どうして。
このにおいは、もしかして。
スン、スンと…鼻を鳴らして、あたりを確認する。
……よく匂いを嗅いでみたら、線香じゃ……ない。
正面からやってきたおばあちゃんの着物から滲み出す、品の良い薫り。
向かい風に乗って鼻腔に届いた匂いに、人のおうちの平凡な日々を感じる。
香りは、空間で自由に飛び交うもの。
ごく普通の空気との境目には、希薄な薫りが気ままに飛んでいる。
散らばった薫りの端っこが…線香の香料とよく似ていただけだろう。
……もしかしたら、毎日あげている線香のにおいが染みついてしまったのかもしれない。
私はにっこり微笑んで…匂いを振り撒くおばあちゃんに、挨拶を。
……ああ、なんだ。
優美に薫りを振り撒いているけれど、ずいぶん……希薄な、おばあちゃんだ。
向こう側に続く道が透けている。
空気と人の境目が揺らいでいる。
……不思議なものだ。
この世界に何一つ物質として存在していないのに、しっかりにおいを纏う映像。
この世界に確かに存在していた、その事を訴えるかのように突如現れる蜃気楼。
何を思って、ここに現れたのかはわからない。
何がきっかけで、ここに来たのかはわからない。
何に感化されて、ここで浮いているのかはわからない。
この世界では、物質として存在していなければ…、人と交わることが難しい。
ただの匂いは、簡単に大気に混じってしまう。
ただの臭いは、簡単に空気に溶け込んでしまう。
ただの薫りは、簡単に風に流されてしまう。
線香のニオイに纏わり憑れたまま、土埃をまきあげながら前に進むと、どこからか獣のワイルドなニオイが漂ってきた。
……このにおいは、安藤さんちの牛さんの臭いだな。
800メートル離れていてもばっちり鼻の穴にこびり付く、パワフルな生き物の自己主張。
線香のにおいなど、秒で吹っ飛んだ。
……生き物って、本当に、素晴らしい。
私は、鼻をスンスン鳴らしながら、家族と9匹の猫が待つ自宅へと急いだのであった。




