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――・1・――
「ここは……?」
視界のすぐれない場所だった。
気づくとここに立っていて……小脇に抱えた感触はアケコン、だろうか。慣れ親しんだものではあるが、状況の理解には役立たない。
注意を他へ向けると、少し風が吹いているようだった。かすかだが、葉や木々の揺れるような音も聞こえてくる。……思えば地面の感触も固くない。土か草むらか……少なくとも舗装された感じではない。
一体自分はどうしてこんな場所に――当然の疑問だが、答えてくれる記憶はなかった。
実力以上のものを出し切って駆け抜けたIVO二日目。努力が報われたことに達成感を抱きつつも、三日目への期待感を胸に就寝したところまでは覚えている。
それがどうして、こんな暗がりの野外に放られることにな――
「っ」
突如背後に現れた何者かの気配に、俺は咄嗟に振り返った。
「え、どういう……こと?」
声の高さで女だとわかった。しかし相変わらずの視界で、その顔を見ることは叶わない。ただ声の震えからして、向こうもかなり困惑しているようではあった。
「……くん?」
「え?」
「ううん。違うならいいの。でもその顔つき……あなた、日本の人よね?」
「え、ああ。この暗がりでよく見えるな。いや、そんなことより。とりあえずよかった。一人じゃなくて。それと、言葉の通じる人で。一体今どういう状況なんですか? 俺ここに来るまでの記憶がなくて」
まくし立てるように俺は言う。この状況で唯一頼れる相手への気持ちが、思わず前面に出ていた。
「やっぱり……。でもどうして……また誰かが…………」
ぶつぶつと彼女は何やら言っている。どうやら困惑を加速させてしまったようだ。冷静に考えれば向こうも大して変わらない状況だと察しがついたはずだが、どうやらそれすらも考えが及ばないほど、俺も気が動転していたらしい。
「あの、名前を聞――」
あらゆることが突然のことだった。
最初は地面が唐突に輝き出した。それは目眩ましのようになり、俺は思わず手をかざす。しかしその間際だった。彼女が俺を力いっぱいに突き飛ばしたのは。
爆音が耳をつんざき、それとほぼ同時に大きな衝撃が俺を襲った。
「…………ぅ」
吹き飛ばされた身体が地面に何度も叩きつけられ、軋みを上げる。受け身もままならず、衝撃は容赦なく俺の身を襲った。肺からは空気がなくなり、長年無縁だった痛みがかつてないものとなって全身を包みこむ。
「ゴホッゴホッ」
これ以上ないほどわかりやすい身の危険に、俺は無理矢理にでも頭を働かせにかかる。
――これ全然死ねるぞっ!
まず状況確認だ。身体はまだ動かせる。とんでもなく痛いが、それでもなんとか起き上がれるぐらいには軽傷だ。多分地面のやわらかさが幸いした。あとは彼女の無事だが――
グチャゴキッグチャ。
生理的に受けつけない、嫌悪感と拒否感をもよおすおぞましい音だった。
骨が噛み砕かれ、肉を貪られ、そして今まさにその生命を散らせているかのような――
「だいじょっゴホッゴホッ」
嫌な考えをかき消すように声を上げるも、舞っていた砂埃が肺に入りむせる。
濁流のように否応なしに流れ込んでくる悪い予感に、俺はあえぐことしかできない。
――勘弁してくれよ。なんたってこんなときに……俺が何したって……。
アケコンは手元を離れ、身体も満身創痍と言っていい。すでにこれだけでも、IVOへ向けて準備してきた俺にとっては到底許せない事態だ。
「……あれ」
怒りから俺を引き戻したのは、いやに不自然な静寂だった。さきほどまでの嫌悪的な音もなくなり、まるで何事もなかったかのような光景が広がっている。
光景。これも俺を引き戻した違和感の一つだ。木々が辺り一帯を囲み、ところどころの枝の間から月明かりが射し込んでいる――そういった光景が見えるようになっている。
目が暗闇に慣れたのか、あるいは月明かりが視界を良好にしているのか。理由は定かでないが、ともかく貴重な情報ではあった。
「だが森と言っても……」
さすがに旅先の土地勘があるはずもなく、せっかくの情報も活かす頭がない。他だ。他に俺の扱えるような情報……さっきの人はどこだ?
見渡した限り、人影は見つけられない。現状で手がかりになりうるのはあの人だけだ。せめてお互いの事情をすり合わせるだけでも、今よりは状況が好転する。
「これは……」
視界が確保できたとはいえ、依然として暗がりであることに変わりはない。だからこそ見落としていたのだろう。
辺りを探索し始めること数十秒。一見なんの痕跡もないように思われた光景だが、木に近づくと不自然に傷ついた跡が見られる。それも1つや2つじゃない。一定方向に向かうにつれ、その傷跡が深くなっている。かすり傷のようなものから、徐々に切り傷のように、そして最終的には何かに抉られたような跡まで。
――これでよく生きてたな……。
惨状を確認すればするほど、自分の生存が奇跡的に思えてくる。咄嗟の場面で行われた彼女の一押しも、その奇跡に一役買っているのだろう。
ピチャ。
水音。そしてそれと同じくして、足元から嫌に粘度のある感触が伝わってきた。
木にばかり注意が向いていたせいで気づけなかったが、これは――
「いや」
それがなんであるのか、脳裏によぎるものがありながら、どうしても認めたくない自分がいた。この先に何かがあると思って、願わくばそれが事態を打開する希望であると信じて、ここまで辿ってきたのだ。
だがそんな想いを嘲るように、むせ返るほどの強烈な鉄の臭いが鼻を通過して胃を刺激する。予感は確信に変わりつつありながらも、それでもなお俺は否定しようとした。
「やめてくれよ。なんだって――」
しかしそれは、とうとう視覚的にも現れてしまった。
ついさっきまでは手の届く距離にいた相手が、今は力なく地に伏している。手足は本来人体が意図していない方向にひしゃげ、彼女を中心に血溜まりが広がっていた。……視界の確保に一役買っていた月明かりだが、このときばかりはその惨状を晒し上げているようで、疎ましく思えて仕方がない。
触覚でも、嗅覚でも、あるいは聴覚ですら、その気配を感じてはいた。でも、いざそれを直接目の当たりにしてしまった衝撃といったら――
「うおぉぉえ」
耐えきれず、俺はこみ上げる胃液を吐き出した。不可抗力で四つん這いになり、地面に広がる粘液がより一層の存在感を放つようになる。より鮮烈な触覚と嗅覚の刺激に、嘔吐は連鎖的に続いた。
「…………」
ひとしきりして落ち着く。顔を上げた先に見える光景は未だ変わらず――
「お前……なんだよそれ。どういうことだよ……」
凄惨な光景であることに違いはなかった。だがその中に違和感が、それも特大のものが目に留まった。
改めて見る彼女の姿は、それでもローブをまとっていてほとんど確認できない。だが、そのフードの隙間から見える顔は――
「ルネ……なのか?」
ルネ。それは俺が取り組んできた格闘ゲームのキャラクターで、今大会の相棒とも言うべき存在だ。本来のトレードマークである白髪と碧の瞳は今は確認できないが、それでも顔立ちが酷似している。
「どうなってやがる……」
意表の出来事に、自然と後ずさっていた。
急速に現実味が薄れていき、思考のノイズだった痛みも心なしか遠のき始める。
――夢、なのか……?
ルネという存在が、この空間を非現実たらしめる。それに夢だとしたら全て辻褄が合う。そうだ。あまりに根を詰めすぎたがために、決戦を前にしてこんなものまで――
「――ぁ?」
ふんわりと、視界が浮き上がる。スローモーションのように流れる世界に、自分が今宙を舞っているのだと理解――
「ガッ。…………ぁぁぁぁああああああああああ」
地面に叩きつけられるとともに加速する時間。同時に、脳が焼ききれんばかりの痛みが身体を駆け上がってくる。何か重大な損傷をきたしていることだけはわかりながらも、その正体を理解するだけの頭が働かない。
「…………」
――紫の……炎…………?
おぼろげな視界の中、その光景を最後に意識が途絶えた。
遠のく意識とともに痛みも薄れていく。
最後に見た光景が像として頭の中で結ばれる。
炎を纏った化け物。そのあまりにも現実離れした姿に確信する。
――こんな縁起でもない夢、見るかよ……。