自信のない俺に勇気を与えてくれた(前編)
二十一時半。
バイト帰りの俺は、いつも以上に緊張して七〇七号室の扉の前に立っている。
大丈夫、落ち着け。
普段どおり、さりげないのが一番いいはずだ。
ごくりと息を呑み、インターホンを押す。
すぐにりこの可愛い声が返ってきて、扉が開いた。
笑顔で伝えられる「おかえりなさい」の言葉とともに、りこが俺の鞄を受け取ろうと手を伸ばしてくる。
でも今日はだめだ。
この鞄を渡すわけにはいかない。
「これは自分で持つよ! 全然軽いから! てか、これからも毎日、鞄のことは気にしないで。今までありがとう」
頭の中で何度もシミュレーションした言葉を伝えると、りこは瞬きを繰り返した悲しげな瞳で言った。
「えと……気づかなくてごめんなさい……。私に持たれるの嫌だったんだね……」
「あ、え!? ち、違……っ。嫌だったんじゃなくて、悪いからで……っ。あと今日はちょっと事情が……」
「……」
待って。
そんなしょぼんとした顔で俯かないでくれ。
可哀そうすぎて見ていられない。
「嘘! 今のなし! 持ってもらっていいかなッ!?」
女の子が泣きそうなとき、男が何も考えずにその場しのぎの行動でどうにかしようとするのは、必死さの表れだ。
よくツイッターで奥さんから非難されてる旦那さんを見かけるけれど、女性陣、その辺わかってください……。
りこは俺を責めたりはしなかったけれど、首を力なく振って、「無理させちゃってごめんね……」と再度謝ってきた。
りこがどれだけ気遣いをする子かを思い出し、いたたまれなくなる。
だってそれに対して俺はどうだ。
考えたつもりで考えの浅い行動を取り、彼女を簡単に傷つけてしまった。
鞄の中身のことはもう一旦忘れよう。
こうなったらもう、誠心誠意謝罪するしかないのだから。
「……ごめん。本当に。これから一生鞄持ってもらえますか……」
本気で申し訳なく思いながら頭を下げる。
すると正面に立つりこが息を呑む気配がした。
「一生……?」
うわっ。
しまった……!
また馬鹿な発言を……!
慌てて顔を上げたら、なぜか耳まで真っ赤になったりこが、口元に両手を当てて茫然としていた。
え。
これはいったいどういう反応だろう。
「本当にいいの……?」
今の状況をまったくもって理解できていない俺でも、ここは「うん」と答えるのが正解なことぐらい察せられた。
……よし。
りこを傷つけない一心で「うん」と言うと、彼女はなぜか「わあああっ……夢みたい……」と小声で叫んで、その場に蹲ってしまった。
今の俺はきっと、宇宙空間に飛ばされ、混乱の果てに瞳孔が開いてしまった猫みたいな顔をしていると思う。
「って、やだ……。私、わたわたしすぎだよね……。恥ずかしいな……。それにめんどうくさい態度取ってごめんね……」
「いや……」
状況が理解できないことを置いておいたら、取り乱すりこの姿はめちゃくちゃ可愛かったので、いいもの見せてもらってありがとうございますという心境なのだけれど、そんなことを思っている場合ではない。
「……そんなに鞄持ちたかったの?」
りこはまだ照れながら、何度も髪を耳に掛け直している。
「バイトで疲れてる湊人くんをちょっとでも労わりたかったの……。あとね、こういうのお嫁さんっぽいでしょ……? だからいつもうれしかったんだ……」
えへへと笑いながらりこが言う。
「そ、それはあれ? 女の子がお嫁さんになるのに憧れたりする的な?」
パイロットに憧れてきた男の子が、大人になって操縦席に座った瞬間、感動するとか、教師になりたかった女の子が、教壇に立つと喜びを覚えるとか。
そのたぐいの感情だろうか。
今の時代も『お嫁さん』に憧れる子がいるのかどうかは謎だけれど、思いつく理由なんてそのぐらいしかなかった。
りこは俺の問いかけに、うーんと唸って、眉を下げた。
「……お嫁さんに憧れてただけじゃ、大事な言葉足りないんだけど……、でも、うんそれでもいいの」
「足りないって?」
「ううん、なんでもない。気にしないでね……! それより今日のバイトはどうだった? カップルデイだから混んだかな?」
「ああ、うん。でも今の上映ラインナップってわりとマニアックだから、激混みって感じはなかったかな。多分、今度のレディースデイのほうが混みそう」
お互いが思ってることについて話すより、こういう雑談のほうがずっと気楽だ。
もちろんまったく緊張しないと言っているわけじゃない。
こっちのほうがまだましぐらいのレベルで、声が上擦ったり、話している内容が要領を得なくなったりしてしまうところは大差なかった。
それでもりこはいつも熱心に話を聞いてくれて、俺の話なんて絶対つまんないのに、楽しそうにコロコロと笑ってくれるのだった。
彼女が鞄を持とうとしてくるのは、もう止めなかった。
「あ! でも今日は縦に持ってくれると助かります……」
「縦? こう?」
「うん、そうそう。ありがとう」
なぜ縦持ちに拘ったのか。
ごはんの前に着替えてくると言って寝室に向かった俺は、制服を脱ぐより先に鞄を開けて、中身を大急ぎで確認した。
鞄の底にしまった箱は、入れた時のままの状態でしっかり収まっている。
「よかった……。崩れてない……」
独り言を呟き、細心の注意を払って取り出したのは、帰り道にコンビニで買ったイチゴのショートケーキだ。
りこのしてくれていることにお礼がしたい。
でも何をしたらいいのかわからない。
悩んでいるだけで、何もできない日々が続く中、ようやく物でお返しをしてみようということを閃いた。
ただ俺はりこが何を好きなのかまったく知らない。
本人に好きなものを聞くのが一番手っ取り早いはずだ。
ただし、相手が気になっている女の子じゃない場合に限る。
興味がある女の子に、好きなものを聞くことの難しさと言ったらない……!
そういうことを尋ねることで、こちらの気持ちがバレてしまうのではないかと思うと気が気じゃない。
結局、以前りこが『名前を呼んでくれた記念日』と言って、ケーキを買ってきたときのことを参考にした。
あのときりこはとてもおいしそうにケーキを食べていた。
好物かどうかはわからないが、嫌いということはないだろう。
そういう流れでこのケーキを購入してきたんだけれど……。
取り出した箱を見下ろして、急に不安になってきた。
プラスティックで作られた透明な蓋はいかにも安っぽい。
コンビニのスイーツコーナーで見たときは、プリンや小さなチョコムースなんかに比べてこのショートケーキは圧倒的風格を漂わせていたし、特別感だってちゃんとあった。
でも、喜んでもらえるといいなと思って買ってきたケーキは、寝室の蛍光灯に照らされると、ありえないぐらい残念で、まったく美味しそうにも見えなかった。
……てか、普通ケーキってケーキ屋で買うものだったんじゃないか?
そうだよ。
りこが買ってきてくれたケーキだって、おしゃれな白い箱に入っていたじゃないか。
なぜそんな初歩的なことに気づかなかったのか。
いや、理由はわかっている。
今までの人生の中で、誰かにケーキを買って帰るという経験をしたことがないからだ。
……こんなのをお礼だなんて言って渡せるわけがない。
もらったほうだって反応に困るよ。
「仕方ない。りこが風呂に入ってるときにでも、一人でこっそり消化するか。はあ……。なんでよりによって二個入りにしちゃったかな……」
ぶつぶつと独り言を呟いて肩を落としたそのとき、扉をノックする音が聞こえてきた。
まずい……!
りこだ。
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