名前を呼んだだけで、今日を記念日にしちゃう嫁
今思えば、あんなに喜んでくれるのならもっと早く勇気を出しておけばよかったってことだ。
なんの話かというと……。
「あれっ、花江さん、シンクの掃除してくれた? めちゃくちゃキレイになってる……」
ハムエッグ、マカロニサラダ、ナスの煮浸し、豆腐の味噌汁、お新香というメニューで朝からガッツリどんぶり飯を平らげた俺は、空になった食器を持って向かったキッチンでシンクがピカピカなことに気づいた。
花江りこが毎日寝る前にサッと洗ってくれているから、もともと水垢なんかとは無縁の清潔なキッチンなんだが、今日は輪をかけて綺麗になっている。
「まるで新築みたいだ」
「あはは。結構張り切って磨いてみました。朝ごはんの準備をしたあと、ちょっと時間があったから」
「そっか。ありがとう。それにしても花江さん、いつも早起きだよね」
朝の弱い俺は尊敬の眼差しを花江りこに向けた。
すると帰ってきたのは、頰をぷくっと尖らせた彼女のちょっと不満そうな表情だった。
「私はまだ湊人くんにとって『花江さん』?」
「あっ。あー……。そう、その件ね……わ、忘れてるわけじゃないんだけど」
花江りこは、俺と違って海外にいる両親と頻繁にスカイプでやり取りをしていて、彼女の両親を安心させるために、俺も時々登場することがある。
そういうときは二人の関係性を疑われないよう、お互い名前で呼び合おうということになっている。
けれど、俺はうっかり彼女を名字で呼んでしまうというミスを数回犯してしまい、その結果、彼女から普段から名前で呼んだほうがいいんじゃないかと提案されたのだった。
花江りこの言うことはもっともだ。
彼女の両親は「まだ呼び慣れていないんだな。初々しくていいじゃないか」なんて笑って許してくれたけれど、いつまでもそれで済むわけがない。
学校での花江りこと俺は相変わらず絡むこともなく徹底して別行動なので、名前で呼ぶ癖がついてしまっても別段問題はなかった。
というわけで、名前で呼び合おうということになったのだけれど――、これがどう頑張っても上手くいかないのだ。
たかが名前で呼ぶだけ?
まさか。
そんなふうに思えるのは、普段から女の子と交流のあるヤツだけだ。
女の子の下の名前が、モテない男にとってどれほど特別なものなのか、俺は身をもって思い知った。
そのせいで「心の準備が必要だから、少し時間をもらいたい」と頼んで、猶予をもらわなくてはいけなくなってしまったのだった。
ちなみに花江りこのほうは、名前のルールを決めた当日から俺のことを『湊人くん』と呼ぶようになった。
躊躇うような態度は見せなかったけれど、彼女はいつも少しだけ照れくさそうに視線を動かす。
それは見逃してしまいそうなほどささやかな表情の変化なのに、俺の心は毎回必ず鷲掴みにされたかのように苦しくなる。
そしてますます、花江りこを下の名前で呼びづらくなっていった。
名前で呼ぶという行為が、俺の中でどんどん特別なものに変化していってしまったのだ。
でもそういう理由を花江りこには話せないし、きっと彼女の眼には約束を先延ばしにしている優柔不断男として映っていることだろう。
好かれはしなくてもいいから、せめて嫌われたくないのに、俺がこんなんじゃ先行きは暗い。
……って、諦めてるのがよくないんだよな。
嫌われたくないなら、ちょっとは勇気を出して努力しろって話だ。
名前だ。
名前を呼ぶだけだ。
とにかくまず心の中でだけでも下の名前で呼ぶようにして慣れるんだ。
だいたいなんでいつまでたっても自分の嫁さんを、フルネームで呼び続けてるんだよ。
芸能人と変わらない距離感じゃないか。
いや、それは一理あるな。
俺にとって花江りこは、アイドルや女優よりもっと遠い高嶺の花だもんな。
「どうしたら勇気って出るんだろ……」
大真面目な顔でため息交じりに呟いたら、花江りこが口元に手を当てて優しく笑った。
「湊人くんは、名前を呼ぶのに勇気が必要なの?」
「それはまぁ……。女の子のことを名前で呼んだことなんてないし」
「もっと小さい頃は名前で呼ばなかった? 幼稚園児の時とか」
「あー。言われてみれば。でもその頃のことってほとんど記憶になくない?」
「えっ。私は覚えてるよ? でも、子供の頃の記憶がない人って結構いるって聞くもんね。湊人くんもそのタイプなのかも」
「まあ、それはそれとして、名前の事なんだけど」
「勇気かぁ……。じゃあちょっと、強引な作戦に出てみようか?」
「え? どういうこと?」
「今から湊人くんが名前で呼んでくれるまで、私お返事しません」
「へ……!?」
な、なんだって……!?
「待って。花江さん、今からって……」
俺がそういった瞬間、花江りこはプイッとそっぽを向いてしまった。
うわっ。
本当に今から返事しないつもりだ、これ……。
「あの、でもやっぱりまだ心の準備が……」
「……」
花江りこは振り返らない。
返ってくるのは沈黙だけ。
これは堪える……。
斜め後ろからその表情を伺うと、彼女は唇をきゅっと結んで、何かを堪えるような顔をしていた。
俺が名前を呼ばない限り、ずっとこのままってことだよな……。
それは……かなりしんどい……。
「待って。わかった。よし、言うよ。言うから」
拳を握り締め、目を瞑る。
そして自分に暗示をかけた。
言える、言える、言える。
言える気がしてきたぞ。
「言える、言える、言える……。…………………り、…………………………っり、こ……」
声が掠れた上、途中でひっくり返ってしまった。
たった二文字なのに、それすらまともに口にできない俺。
情けなさで消滅しそうだ。
でも許してほしい。
俺にとっては、それだけ特別な二文字なのだ。
……ていうかちゃんと聞こえたかな。
不安を抱きながら視線を上げると、いつの間にか振り向いていた彼女が、頬をピンク色に染めて俺を見つめていた。
「わあ、どうしよう……。は、恥ずかしい……。でもうれしい……」
自分の頬に両手を当てて、彼女は瞬きを繰り返した。
その仕草の全てがめちゃくちゃ可愛い。
「名前で呼んでもらうって、こんな特別な感じがするんだね……。ありがとう、湊人くん」
「い、いや」
「本当言うと、もしずっと呼んでくれなかったら困ったなって焦ってたの」
「えっ、そうだったの?」
「うん。だって湊人くんを無視するなんて、つらいよ……」
「あ、そ、そう」
この子はすごく優しいからな……。
相手が誰であれ、どんな理由でも無視したくはないのだろう。
それなのに俺のために嫌な役割を引き受けてくれたんだな……。
「花江さんが協力してくれて助かったよ」
「むっ。花江さん?」
「あっ、い、や、……りこ」
「ふふっ。ねえ、湊人くん、今日は帰りにケーキ買ってくるね!」
「なんでケーキ?」
「だって湊人くんが私のことを名前で呼んでくれたから。今日は私にとって特別な日になったの。『名前で呼んでくれた記念日』だよ」
後ろで手を組んだ彼女がにこっと笑って、俺の顔覗き込んでくる。
まだその頬は赤いまま、はにかみながらも幸せそうな目をしている。
ああ、もう。
可愛すぎてずるい。
なんでこんなに喜んでくれるんだよ……。
俺が底なしに自信のない男だからよかったようなものの、多分一般的な普通の男だったら確実に勘違いをしていた。
それでも……、勇気を出して名前で呼んでみて本当によかった。
どうしてか理由はわからないが、とにかく彼女をここまで喜ばせられたことが最高にうれしい。
俺にとって今日は、『花江りこの特別な笑顔を見られた記念日』だな。
この日の夜、彼女は本当にイチゴのショートケーキを二つ買ってきて、二人でささやかなお祝いをしたのだった。
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