01 竜討ち
その村は業火に包まれていた。
至る所で火の手が上がり、煙が充満している。
およそ脱出路といえるようなものは見つけられず、それを証明するかのように昨日まで笑顔で働いていた村の人々は、物言わぬ骸となり果てていた。
「お母さん…、お父さん…」
ふらふらとした足取りでアニラは自分の両親を探していた。頭では当然わかっていた。
父も、母もおそらくは生きていないであろうということ。
だが、それでも認めたくないという思いが、ただ淡々と足を動かしていた。
家族に対する想い。それは多くの人が持つ、普通の感情だ。
その想いは人の体が限界であろうとも、その体を動かすという奇跡を起こすことはままある。
そして、その奇跡は、必ずしも喜ばしいものを連れてくるわけではないということも、ままある。
動かしていなければ、出会わなかったかもしれない「モノ」。
逞しい四肢は家を簡単に薙ぎ払い、黒光りする鱗は、この業火の中でも傷一つついていない。
鱗と同じ漆黒の瞳は、知性を感じさせる輝きを見せながらも、無感情にはっきりとアニラを捉えていた。
「ドラゴン……?」
アニラは呆然としながら、声に出していた。
目の前にいたのがドラゴンと呼ばれるモノの中でも上位種に位置する邪竜種という存在であるということまではアニラにはわからなかったが、それでも相手が自分など一瞬にして消し去ることができる存在であるということは、アニラにも本能的に察知することができた。
少なくとも今の自分が勝てるはずもない相手。生物としての本能がアニラの全身に訴えかけてくる。
逃げなくてはいけない。そう頭でわかっているはずなのに、同じ頭がそれ以上の活動を体に許さなかった。足からは力が抜け、呼吸すらままならない。体全体が、生存を拒否するかのような、圧倒的な絶望に、今、アニラは打ちひしがれていた。
人は本当に絶望すると、体が先に生きることを諦めるのだ。
そんなことを呆然と立ち尽くしながらアニラは思う。
邪竜はゆっくりと口を開く。
おそらくそこからこの町を燃やしているのと同じ炎を吐くのだろう。
他人事のようにアニラは思いながら目を閉じようとしていたが、それすらも体は許してくれなった。意識を失うことができればどんなに楽なのか。そう思いながら、アニラは絶望を抱きつつ、この世界から消滅するはずだった。
しかし、その時は一向に訪れなかった。邪竜は先ほどまで確かにアニラの方を見ていたはずなのに、今は明らかに違う方向を向いていた。
アニラは全身の力を振り絞り、邪竜と同じ方向を向く。
たったそれだけの行為なのに、全身から汗が噴き出し、体を支えきれないほどに痛みが走る。
それでも、向いた。
そこには一組の男女がいた。
おそらくはアニラより何歳かは年上であろうが、まだ少年少女といって差し支えない男女だ。
大柄でも小柄でもない、中肉中背といった雰囲気の少年はすらりとした美しい長剣を携え、邪竜に対峙していた。
その横に立っていた少女はアニラに気づいたのであろう。小走りにこちらに駆けてくる。
その姿はまるで絵物語の女神のようで、アニラはもしかすると自分はすでに天に召されてしまったのではないかと錯覚するほどだ。少年の美しい長剣に勝るとも劣らない輝きを放つ銀色の長い髪を揺らしながらアニラの元へと着た少女は、見た目通りの美しい涼やかな声をかけてくる。
「大丈夫? 怪我は……ひどいですね。でも大丈夫ですよ」
言いながら手をかざすと体中の痛みが引き、それとともに心まで落ち着いてきた。おそらく少女は神官か何かなのだろう。神官の多くは、人の傷や心を癒す魔術を行使することができる。女神のように優しげな雰囲気の彼女にはよく似合うとアニラは思った。
「ありがとうございます! 私はもう大丈夫です、はやくあの人を……」
邪竜と対峙してくれている少年のおかげでアニラは助かったが、すぐに逃げないと今度は少年が犠牲になってしまう。そう思い声を上げたが、少女は小さく首を横に振って見せた。
「問題ないですよ。……というよりも、この程度で問題を起こされては困るんですけどね」
少女は変わらぬ優しい笑顔でそう言い切った。涼しげな声はそのままだが、それがかえってアニラを動転させる。
大丈夫なはずがない。相手はあのドラゴンなのだ。瞬く間に村を滅ぼし、近隣でも有名な狩人であった自分の父もあっさりと殺されてしまったのだ。
その光景を思い出し、アニラは目の前が真っ白になり倒れこみそうになるが、クリスが優しく抱とめてくれることで、何とか意識を失うことは避けられた。
「でも、ドラゴンですよ……?」
震える声でアニラがそう言うが、クリスはまるで動じた様子も見せない。
浮世離れした美しさが、その奥で対峙する少年と邪竜という構図とあまりにも対照的過ぎて、アニラはもはや今の状況がよくわからなくなりつつあった。
「問題ないですよ。所詮はドラゴンです。魔族ではないですし、ましてや神族でもない。慌てる必要はありません」
言葉通り、動じた様子も見せず、クリスはゆったりとした動作で立ち上がり、少年に声を掛ける。
「カーフ、何しているんですか! この子が心配していますよ!」
「わかってるよ、クリス」
少女の名前はクリスといい、少年の名前がカーフというのだということを、アニラはそこで知る。
クリスの言葉通り、カーフの返事は大きな声ではあったものの、まるで動じた様子はない。
普通であれば緊張感があるであろうに、まるでそこまで買い物へといったような気やすい返事。
深緑色の外套を揺らしながら、カーフはドラゴンの方にゆっくりと向き直る。
放置されていた格好のドラゴンは自身の力に対する絶対の余裕からであろう、激昂する様子を見せるでもなく、その尖った嘴のような口から、ゆるやかに言葉を紡ぐ。
「矮小な存在が、2人増えたところでどうするのだ。あまりに小さく、か弱きものよ……」
「矮小? 自己紹介か何かってことだな」
カーフの挑発に、意外なほどあっさりとドラゴンは乗った。
首を一捻りした後、カーフに向けられたその口からは炎が噴き出す。痛みを感じる間もなく、その炎に包まれたカーフの姿は塵一つ残さずこの世界から永遠に消えるはずだった。
少なくとも、ドラゴンとアニラはそう思っていた。
しかし、カーフは目にも止まらぬ速度で剣を抜き、炎に切りつけた。
炎を切り裂く勢いというに相応しい、光速の剣捌き。
しかし、現実には通常の人間ではそのような芸当、できるはずもなかった。
なかった、はずだった。
しかし、現実として、ドラゴンから放たれた炎は斬撃により切り裂かれ、あっさりとその力の行き場を失った。
そして返す斬撃で、口を開いたままのドラゴンを、そこからが切りやすいと言わんばかりに、一刀両断した。
邪竜と呼ばれたドラゴン――数多くの勇者を屠ってきた邪竜であることなど、この場にいる誰もが知らないことであったが――その体は、尾まで二つに切り裂かれた。
それだけで、今まで数多くの命を奪ってきた、生命界の頂点に近い存在は、その長い生涯を閉じた。