キミの鼓動が教えてくれた
「──……ぁ、ぅ、あぁ……っ」
その細腕に少女を優しく抱いたまま人狼とはまた違う昏い笑みを浮かべる脅威に、カナタは完全に心が折れたのか掠れた呻き声を出す事しか出来ないでいた。
先程、謁見の間にて人狼に脅されていたルドマンと同じ様に冷や汗も止まらず、ぐらぐらと恐怖や焦燥から揺らめく瞳のせいで視界さえまともに定まらない。
せめてもの救いか失禁だけは避けられていたが、そんな事に気を回す余裕など今のカナタにはなかった。
「ねぇ、一つ聞いてもいい?」
「……っ」
それから人魚が、ぐいっと顔を近づけてきたかと思うと、カナタの精神状態もお構いなしに何かを尋ねんとし、そんな人魚に対してカナタは口を必死に動かして答えようとしたが、もう声すらまともに出ない事に気がついたのか首を縦に振る事しか出来ないでいる。
さも津波の様に押し寄せてくる恐怖によって、とっくに彼女の身体は言う事を聞かなくなっていたのだ。
その一方、人魚はカナタが首肯した事で満足げに頷きつつ、『聞きたい事ってのはねぇ』と前置きして。
「さっきさぁ、まおう? ってのを倒せば元の場所っていうか……元の世界? に戻れるって話してたよね?」
「……っ!」
つい先程、虚偽を用いて説明した『元の世界に帰る方法』についてを再確認してきた事により、カナタは決して嘘がバレない様にとただ只管に首を縦に振る。
──次の瞬間。
「あれさぁ──」
「──嘘でしょ?」
「……ぇ……?」
……思考はおろか、呼吸さえ止まりかけた。
何で、どうして──この短い時間で幾度となく浮かび続けている疑問詞が今、彼女の脳内を埋め尽くす。
おそらく──そう、おそらくとしか言えないが。
この人魚を始めとした三体の亜人族も、この亜人族たちが大切にしている少女も、こことは全く別の世界からやってきたのだから、カナタの説明を『嘘』だと断ずるに足る根拠や知識など有していない筈なのに。
「『どうして』って顔だね? まぁ、ボクにもよく分かんないんだけど……キミ、ボクたちが出てきてからずっとドキドキ──いや、ビクビク? してたじゃん?」
「……」
そんな彼女に対して人魚は何でもないかの様に再び言葉を紡ぎ出し、あっけらかんとした様子で先程までのカナタの怯えを見抜いた上で顔を覗き込んでくる。
ずっとビクビクしていた──のは何一つ間違っていないが、『していた』というのは正確ではなかった。
(……正直、今だって──)
……そう、カナタの薄い胸は今この瞬間にも張り裂けてしまいかねない程に鼓動を速め続けているのだ。
何であれば、この人魚を始めとした三体の亜人族たちによって殺される前に死ぬのではと思うくらいに。
「でも、ある時だけ急にキミのドキドキが収まって妙に落ち着いて聞こえた瞬間があったんだよねぇ……」
「ぁ……」
それから、とどめを刺すかの様にある時などと不明瞭にして告げられる半ば確信を以た人魚の言葉にカナタは、あまりに──あまりに心当たりがありすぎた。
……あの時だ──と。
「そ、まおうがどうのこうの言ってた時だよ。 だから怪しいなぁ、もしかして嘘かなぁって思ったんだよ」
そして、カナタの予想と完全に一致していた答えを得意げに明かした人魚は、それまでの恐怖や焦燥に駆られた鼓動からは考えられない落ち着きを聞いて逆に怪しく感じ、もしや嘘ではないかと推測したと語る。
キミの鼓動が教えてくれた──。
──と、つまりはそういう事らしい。
その後の反応も合わせれば、もう確定だと判断した人魚の表情が少しずつ、されど確実に冷めていく中。
カナタが抱いていた亜人族たちに関するとある推測の一つもまた、カナタの中で確信へと変わっていた。
この亜人族たちが持つ、おかしな力について──。
(……人狼は嗅覚、鳥人は視覚、人魚は──聴覚)
亜人族という種は往々にして、カナタも属する人族を遥かに上回る身体能力や感覚を有しており、カナタの視界に映る人狼、鳥人、人魚なども例外ではない。
そんな彼女の推測は間違っておらず、この亜人族たちはそれぞれ嗅覚、視覚、聴覚を一般的な亜人族のそれを極端に特化させた様な超感覚を有していたのだ。
カナタには、それらの超感覚が恩恵なのか武技なのかどうかは判断出来なかったが、だとしても一目で自分を聖女と見抜いた事も、どういう絡繰か瞬時に国内の戦力を判断した事も、そして死角となる場所での事象を把握していた事も決して無関係ではないだろう。
きっと、カナタがこっそりと宝物庫を抜け出そうとする時の小さな足音を聞かれていたのだろうし、もっと言えば人狼もカナタの匂いが移動している事に気がつき、それでも人魚がいるからと放置していたのかもしれず、そう考えると全てが無駄だった様に思えた。
どのみち、ここで死ぬ運命だったのだと悟る中。
「死にたくないからって色々考えたんだろうけど」
「ぇ、な、何──」
突如、人魚が少女を抱えていない方の手をカナタへかざし始めた事により、その動作に疑問を覚えたカナタは漸く言葉を発せられたが、もう全てが遅かった。
そんなカナタに向けて人魚は掌に透き通る様な水色の──おそらく本人はそれが何かを理解していないのだろうが──あまりに強く大きな魔力を込め始める。
リドルスを惨殺した時の様に無意識にではなく、ありえないくらいの純然たる敵意と殺意を持って──。
「そういうタチの悪い嘘、つくべきじゃなかったね」
「っひ、あっ」
心の底から怯えきり、すっかり芯を折られたカナタの口からは声とも音ともつかない息しか出てこない。
「……大丈夫だよ、あの屑みたいに半端に残したりしないから。 ぜんぶぜーんぶ──呑み込んであげるね」
そして、もう悪魔と形容した方が合ってそうな邪悪極まりない笑みを浮かべた人魚の手に、くるくると渦を巻く掌サイズの球状で真っ青な渦潮が姿を現した。
この人魚が低空浮遊する為に尾鰭にくっつけている水玉と似ているが、その水玉と一つだけ違うのは渦潮から絶対的な破壊の意思しか感じられないという事。
「ぁ……あぁ……っ」
カナタは動かない──いや、動けない。
……拘束されている訳でもなければ。
……動くなと脅されている訳でもない。
それでも、カナタは動けなかった。
深海の如き紺碧の瞳を見て、この日感じた全ての恐怖が一斉に蘇り──彼女の身体を侵食していたから。
それから、『じゃあね』──と、そんな無情極まる人魚の呟きが随分遠くに聞こえた気がした事により。
これが死の感覚なのだろう──と、そう悟り目を閉じて無意識の内に両手を組んでいたカナタだったが。
(──……あれ……?)
いつまで経っても痛みが来ない。
……いや、もしかすると痛みが生じる事のない力だったのかもしれないし、そもそも痛みを感じる前に死んでしまったのもかもしれないと考えたものの──。
──こうして思考を広げられているという事は。
(私、生きてる……?)
……そう、聖女カナタは生きていた。
身体どころか身につけていた神官服や儀式に必要な装飾品一つにさえ、およそ一切の傷がなかったのだ。
「どう、して……?」
全く以て理解が及ばず、ふとカナタが疑問を込めた呟きを口にしつつ、おそるおそる顔をあげると──。
──そこでは。
「──……ん、んうぅ……?」
あの幼い召喚勇者が──やっと目を覚ましていた。
「み、こ……? よかった! 目が覚めたんだ……! ねぇ、ちょっと二人とも! みこが、みこが起きたよ!」
一方、愛しい少女が漸く目を覚ました事で人魚は寝ぼけまなこな少女をぎゅっと抱きしめた後、心の底から嬉しそうにしながら他の二人にも声をかけており。
「!! 本当か!? ミコ、怪我はねぇよな!?」
「望子……! 良かった、本当に……!」
その嬉しい報せを耳にした人狼と鳥人は、それまでに選別したり運んでいたりした金銀財宝や魔道具を投げ出してまで即座に少女の方へと寄り添い、その濡羽色の長髪を優しく撫でたり抱きついたりしていた。
一転して蚊帳の外となったカナタは命が繋がった自分の幸運と、きっかけとなった勇者に感謝しながら。
(たす、かっ──)
この短い様で長い日、初めて彼女に訪れた真の意味での安堵から、その意識を完全に手放してしまった。
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