飼い猫タマの少し不思議な一日
俺は猫だ。名前はタマ。
生まれた時から家を持っているから、近辺の猫たちの中では勝ち組だろう。シュッとした体と白い毛並みはメスにも好評だ。
外はけっこう寒いし、パソコンは残念ながら冷えている。今日はどこで過ごそうか。
そんな事を思っていると、同居人の雅夏が現れた。なにやらビシッとした服装で、手には大事そうに封筒を抱えている。
今日は「しゅっぱんしゃ」に行くらしい。
「じゃあタマ、持ち込み行ってくるから」
『そうか』
「あと、こんど家の柱で爪研ぎしたらメシ抜きだからね」
『それは前フリか?』
俺の返答に雅夏は「いい子ね」と言って喉を撫でてくれるが、それを信じて爪研ぎをすると烈火のごとく怒られる。過去の経験で分かっていることだ。
まったく度し難い、理不尽な同居人である。
日当たりのいい窓のそばに移動し、丸まりながら庭を見る。すると、雅夏が庭でアイツと戯れるのが見えた。
ハチという名の茶色い犬だ。
「ハチー! 行ってくるからね!」
『ご主人! 頑張ってね、ご主人!』
雅夏の笑顔が溢れる。
まぁ、どうでもいいことだがな。
彼女は別に俺のモノってわけじゃない。ハチに対する態度が俺と違うのも、そこまで気にすることじゃない。アイツみたいに人間に媚びるのは趣味じゃないしな。
ただ、無性に家の中をひっくり返したくなる。実際にやったらメシ抜きだろうが。
雅夏が庭を去ると、ハチが尻尾を垂らしてトボトボと犬小屋に帰っていった。それだけ見ると気の毒にも感じるが。
まぁ、いつもの通りなら何も問題はない。しばらくすれば庭で呑気に虫を追いかけ始めるだろう。俺が心配する義理もないしな。
ハチがこの家に来たのは、まだ子犬の頃。
そこまで世話してやった覚えはないが、アイツは俺のあとをついて回りながら遊んでいたっけ。ある程度大きくなった今も、直情的な性格は変わらない。
すぐに凹むが、立ち直りも早いのだ。
暖かい日射しにアクビが出る。
ポカポカとした体。何やら、どこかに引っ張られる感覚がして──。
ブルっ。
身震いをしながら目が覚めた。
ここは我が家の庭……か。
『なぜ俺は庭にいるんだ』
そう思い、玄関へと向かう。
ジャリ。
そんな音とともに首が引っ張られる。
これは……。
『鎖!?』
鎖は犬小屋横の杭に繋がれていた。
違和感を感じ、自分の体を見る。
茶色い体毛。手足の関節が曲げづらい。なんだか音がくぐもって聞こえる代わりに、匂いの世界がいつもより鮮やかだ。
自分の体臭が気になるが、これは……。
『俺は犬──ハチになったのか』
どういうことだ。
俺は混乱のあまり走り出そうとするが、鎖がそれを許さない。そういえば、ハチのやつがコレから解放されるのは散歩の時くらいだったな。
走り回る。首が締まる。
そんな事を繰り返していると、何やら白い影が近づいてきた。
匂いでわかる。これは……。
『俺の体、か……?』
『ってことは、僕の体に入ってるのはタマなんだ!』
目の前には凛々しい白猫がいた。
どうやら、俺とハチは体が入れ替わってしまったらしい。理由も理屈も分からないが、現実を見るにそういうことなんだろう。
『僕、ちょっと羨ましかったんだ。タマっていつも自由だし、どこにでも行けるでしょ? 毎日お散歩し放題。ちょっと代わってみたいと思ってたんだ。だからきっと、神様が叶えてくれたんだよ』
『ふん、俺は別に代わりたいと思ったことは──』
ふと、雅夏に全身を撫でられるハチの姿が頭をよぎる。あんな風にされるのは御免だが、俺も心の何処かで代わりたいと思っていたのか……?
いや、それは考え過ぎだろう。
『しばらくは、このまま生活するしかないか』
『わーい! じゃあお散歩行ってくるねー!』
俺の体を得たハチは、意気揚々と塀を乗り越えて行った。
仕方ない。
ひとまず犬小屋で昼寝でもするか。
『臭ぇ……』
昼寝から覚めたときの感想だ。
ただでさえ鼻が鋭くなってるのに、ハチの体臭自体が強烈だ。雅夏はよく嫌がる俺たちを風呂場で洗うが、そうしたくなる気持ちがよくわかった。
脱力したまま庭に出る。
前足をそろえて背をグッと伸ばし、アクビをする。
「あはは、ハチってば猫みたい!」
そんな声がして振り返った。
家の敷地の外に子供がいる。昔からハチとよく遊んでいる少女だ。少し前から、らんどせる、という赤いカバンを背負い始めたんだったな。
以前は俺にも近寄ってきていたけど、不遠慮に触られるのを避けているうちに来なくなった。
「ハチ、おいでー」
その声にドキリとする。
この体はハチのものだからな……俺のせいでこの少女とアイツが疎遠になったら申し訳ない。ここはグッとこらえて、アイツのフリをして遊んでやるか。
俺はテクテクと少女のもとへ向かう。
「どうしたの? 今日は体調でも悪いの?」
『あーそうか……アイツならもっとテンション高く飛び跳ねてるもんな』
俺は少女の足元に擦り寄り、ゴロゴロと喉を鳴らす。
『とりあえずこれで許せ』
「なんか元気ないねー」
『……そんなことはないが』
少女は俺の体を触る。全身をくまなくワシャワシャとだ。なんというか、ものすごく不快なのだが……。
我慢だ。
今の俺はハチだ。
そう自分に言い聞かせる。
「あ、コレあげるね。早く元気になるんだよ」
少女はジャーキーを置いていった。
たしか、雅夏が少女に「ハチに何かあげたい時はこれにしてね」と言っていた記憶がある。
ジャーキーをかじる。
なかなか美味だ。
臭いにさえ目を瞑れば、犬の生活もそう悪くはないもんだ。外で寝るのも気持ち良い。鎖は不快だが、庭の範囲ならそこそこ動けるくらいには長さがある。
ずっとこの調子だと困るが。
たまにはいいか。
のんびり虫と戯れる。
するとそこへ、俺の体が帰ってきた。
何やらしょげた様子だが。
『ただいま……。ねぇ、タマ、外の世界って辛いね』
『ん、そうか』
『ねぇ! もうちょっとさぁ、何か聞いてよ!』
どうにも興奮した様子だが。
何か話したいことがあるなら、勝手に話せばいいのだ。
俺はその場に蹲って目を瞑る。
『いいだろう、話せ』
『何その態度……。タマも冷たいんだね。猫ってみんなこうなの!?』
ハチがニャンニャン吠えるが、そう言われてもなぁ。
冷たい、か。
なんとなく想像はできる。
おそらく野良のボスあたりと話でもしたんだろう。
『まぁ落ち着けよ』
『もうやだ、家で寝てる! タマのばか! 冷血猫! もう知らない!』
ハチはひょいひょいと家の中に入っていった。
んー、難しいな。
別に冷たくしているつもりはない。ハチのことも嫌いじゃないし、どちらかといえば気にかけているつもりだったのだが……。
でも、そうだな。
『俺は、冷たいのかもしれないな』
雅夏の顔が浮かぶ。
ハチを愛でる笑顔。俺を適当にあしらう真顔。なんてことはない、単純に俺自身が冷たい奴だった結果なのだ。
まぁ、どうでもいい事だがな。
『……寒いな』
俺は犬小屋へと向かった。
壁には断熱材が使われ、暖かい毛布もあるけれど、どうにも寒いままだった。
かなり日も暮れた頃。
家の門に見慣れた人影が現れた。
『雅夏……?』
なんだか憔悴しきってグッタリしている。
様子を伺いながら、そっと彼女に近づいた。
『おい、大丈夫か?』
「ハチ……」
膝を落とす雅夏。
手から封筒が滑り落ちた。
しゅっぱんしゃ、とやらで嫌なことでもされたのだろうか。まぁ、世の中いい事ばかりじゃないよな。
俺はそっと雅夏に擦り寄る。
『ほら、撫でていいぞ』
「はは……今日のハチ、なんだかタマみたい」
そう言うと、雅夏は俺をギュッと抱きしめた。
「二匹とも大好きだよ。なんて、ハチに言うことじゃないけどさ。ハチが無邪気に飛びついてきてくれて、タマが不器用に擦り寄ってきてくれて……それでなんとか私はやっていけてるんだよ。だからほら、いつもみたいに戯れていいんだよ」
『はぁ、仕方ないな……』
俺は遠慮がちに雅夏の頬を舐める。
そんな事をしていると、突然玄関から白い猫が飛び出してきた。
『ご主人! ご主人! ご主人!』
「あはは──なによ、今度はタマがハチみたいじゃない」
雅夏に飛びつくハチを見ながら、俺は少しだけ胸の寒さが和らぐのを感じた。
まぁ別に──どうでもいい事、なんだがな。
深夜に目を覚ますと、俺は猫の体に戻っていた。
雅夏の布団に潜り込む。
おそらくもう、今後はハチと入れ替わることはないだろう。アイツも俺も、代わりたいと願うことなんて、もうないだろうからな。
そんな事を考えながら、俺はゆっくりと深い眠りに落ちていった。





