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屍者蘇生に泣く❖1


 壁に描かれている富士に、今更ながら気が付いた。湯の煙で視界が明瞭ではないこの湿度の高い空間で、俺は綻陽の肩に牙を突き立てていた。

 理性と殺意がせめぎ合いながら、どろどろと濁った感情が内圧を高めて行く。それと比例して顎の筋肉を絞る。糸切り歯が彼女の肩に食い込み、弾力のある皮膚に穴を穿ち、血の味がする。

「いいよ」綻陽は慈愛のようなものを含ませた声音でそう囁く。「それで許してくれるなら、噛みちぎって欲しい」

 顎門の中の筋肉が動く。ちらりとその肩の先に繋がった細くしなやかな右腕をみると、それはゆっくりと持ち上がり、俺の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。その動きに連動して歯を突き立てている筋肉も口内で動いているのが伝わる。

 俺は、どうしようもない怒りと悲しみを振り絞り、綻陽の僧帽筋を一口齧り切って、両手で綻陽の肩を掴んで突き放した。筋繊維が悲鳴をあげて千切れていく感触が伝わる。噴き出した血液の飛沫が右目に入って染みる。

 綻陽は痛みを堪えながら左掌で右肩の穿たれた傷をかばい、俺のことを見つめる。その目には複雑な色の光を湛えていたが、微かに、笑みが浮かんでいた。


 自分でも、なんでこんなことをしているのか、よくわからなかった。あの時、綻陽の方から一歩を踏み込み、俺の首もとに牙を突き立てるところだった。

 命の危機を確かに感じていたが、それ以上に、見えている世界は圧縮されて、一瞬の時間を明瞭に感じていた。そして頭の中で浮かぶのは反撃の意思。

 その間は一秒にも満たない。首元に牙を突き立てていたのは俺の方だった。


「口に合えばいいけど」

 綻陽はそんな軽口を叩き、自ら飛び込んだ湯船から出る。

 俺は口の中にある肉片を吐き出して、両手で皿を作り、受け止める。人の肉としか認識できない。そして人の肉を食べるということが、禁忌に感じかれたから、吐き出したのだ。

「食べなさい」

 綻陽は語気を強めて命令する。

「真白さんはこれから、私の肉以外の食料はないし、私もあなた以外の食料はないの」

 だから食べなさい。

「冗談じゃない! 人の肉だぞ!?」俺は叫ぶ。

 なんで人の肉なんか。

「人の肉じゃない。化物の肉よ」

「俺にはお前が人にしか見えない」

 それは本心だった。今目の前にいる生き物の姿形は人だ。鬼らしい角もなく、牙もなく。

 大学時代を共にした綻陽の姿だ。俺は力なく腕を下ろし、湯船に肉片を落とした。

 水に沈む音と共に、別の音も重なる。俺は伏せていた目を見開いて、口から漏れる血を吐き出す。腹が焼かれるように熱い。目の前には綻陽。一瞬のうちに間合いを詰めて、俺を抱き締めているのように見えていたが、その細い腕は胴を回り込まず、真っ直ぐに俺の腹を貫いている。

 ごぼっ。と、口から血が溢れて止まらない。吐き出した血は綻陽の顔にかかり、粗相を詫びようと俺は謝ろうとしたが、それどころではないのは明白。

「私は、食べる」

 耳元でそう聞こえたと同時に、俺は綻陽に蹴り倒される。両脇腹からずるりと抜ける両腕の感触に気が遠くなり湯船に座り込む。肺を潰されたのか、息をする度に腹の穴から泡が漏れて、次第には息が出来なくなった。

 歯を食いしばって綻陽に助けを求めたが、綻陽は手に掴んだ肉片を果物のように噛り付いていた。

 ――人ではない。

 その光景によって初めて実感した。

 動物が獲物を仕留めて肉を喰らう時のような、命のやり取り。

 喉を鳴らして最後の肉片を飲み込むと、また俺に向かって近づいてきた。俺は息もできなければ、腹を捻ることも出来ず、つまり立てないまま怯えていた。

「まだ足りない……

 食べなよ、真白さんも。ほら」

 綻陽はそう言って掌を俺の口に当てがう。小指球の柔らかい部位が丁度顎門に収まる。俺がその肉を食べるかどうか躊躇っている間にも、綻陽の口は胸筋に食い込む。俺は両腕で綻陽の肩を掴んで引き離そうとしているが、決して退いてはくれない。彼女の牙が皮膚を貫いた。

 ぐち、ぶち、…と筋繊維が千切られて俺は涙を流して耐える。息もできず、湯は滲みる。俺も怒りを振り絞り、彼女の掌を噛みちぎった。

 歯に伝わる肉の感触と、染み出す血の味と匂い。訳も分からないままただひたすらに顎を絞める。繋がっていた皮を噛み切って、咀嚼することなく飲み込んだ。塩辛いような味の中に、えも言われぬ旨味を感じ取った自分の舌に、絶望した。

「食べて。真白さんの身体が回復するためにも、もっと」

 もっと食べて。と綻陽は言う。俺が噛み切ったはずの肩も掌も、筋繊維が糸蚯蚓のように蠢いて、結合して塞がる。それはまるで映画のような光景で、俺は泣きながら綻陽の腕に噛み付いた。

 いつの間にか潰れた肺もまた膨らんでいた。自分の体が回復する様を見ないように、目を閉じてただ口に運ばれる綻陽の腕を噛み千切った。

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