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死生有命に逆らう化物❖4


 綻陽が出て行ってからも俺は怒りが収まらなかった。説明不足で不明瞭な現状、いっそ全ての原因、怒りの矛先として、綻陽の存在は都合が良かった。

 今が何時なのか、そもそも、記憶が途切れたあの日から、どれだけ経っているのかわからない。依然として窓から陽の明かりが入っている所為で、かえって記憶が途切れる前との時間の空白を曖昧にしている。変わり果てた身体の様子から、長い時間が過ぎているというのは想像できるが、空の明るさは記憶の欠落を感じさせないほど綺麗に繋がっている。まるで、船を漕いだ僅かな時間の白昼夢。瞬き一つの間の出来事のように錯覚してしまう。

 俺は苦労して起き上がる。背中が床擦れを起こしているらしく、じくじくと痛んだ。軋む背骨を捻り、四つ足で部屋の隅に這い寄って、壁伝いに立ち上がる。頭が揺れるたびに吐き気を催すが、胃には何も入っていない。液体を含んで重く湿った敷布団を見ると、血で汚れて、下の畳まで赤黒くなっている。

 人が爆発したのかと思うほど、夥しい血飛沫。

 全て俺の血なのだろうか。だとしたら明らかに失血死するだろう。あまりにも現実味がない光景に、胃液が口内までせり上がる。俺はそれを飲み込み、部屋の壁に凭れて呼吸を整えた。

 足下の畳の血飛沫は乾燥しており、脚の爪先で擦ると粉々に剥がれ、畳の目に詰まった。

 俺はしばらく立ち尽くし、そして次の異変を背中に感じた。

 背中の床擦れが粟立って、傷口が痙攣して、恐ろしい速さで塞がっていく。

 この身体に何が起きているのか。俺は綻陽の言葉を繰り返した。


『化物』


 それは、例えでも揶揄でもなく、そのままの意味だと知る。綻陽は俺の身体を診て、こうも言っていた。『身体の方は少しずつ治っていくから』と。この爛れた皮膚は、放射線に被曝した所為なのだとしたら、それさえも治るのだろうか。だとしたら、綻陽は何者で、どのような名前の化物なのだろうか。

 兎に角、こうして生きているということ。それは目を背けることのできない事実。俺は朦朧とした意識を引きずって、部屋の窓側に取り付けられた書院の上に腰を下ろす。ひたり、と張り付く衣服が気持ち悪い。俺は死装束として身に纏っていた一張羅のジャケットを苦労して脱ぎ始める。血を吸って生地が硬くなり、滑りも悪くなったため、脱ぐのに苦労する。袖が張り付いているのをそのまま力任せに振りほどくと裏返しになって畳の上に叩きつけられた。続いてシャツのボタンを上からもぞもぞと外しながら、部屋の中を見渡す。おそらくどこかに浴衣があるはずだ、出来れば水で濡らしたタオルでも用意して、身体を拭きたい。全身に血糊がまとわりついて臭いも酷い。自分でもわかるほど全身血生臭い。爪の隙間にもべったりと渇いた血がこびりついているし、後髪も房ごとに血で纏められて棘のように固まっている。

 シャツを脱いで改めて実感する。

 胸元の生地がほつれて穴が空いている。ボタンを外している時からわかっていたが、この穴は綻陽の貫手によるものだろう。おかしいのは、体には傷跡一つない事だ。

 次に、ズボンも脱ぎ始める。モモに張り付いた生地が脱げていくと同時に肌が外気にさらされ、幾分気分がいい。下着一枚を残して、靴下も脱ぎ捨てた。衣服は纏めて布団の上に乗せて、部屋の中を漁る。浴衣は直ぐに見つかった。

 俺はそれを手に持って、部屋を出る。身体を洗いたい。この際雨水でも構わない。体の血を洗い落としたいのだ。

 そう言えば綻陽はそれなりに綺麗な格好だったことを思い出す。血に汚れたはずだが、何かしらを利用して洗い落としたのか清潔そうだった。俺は身体を洗う方法を聞き出すために、焦眉の急、綻陽を探す。

 壁に手を這わせながら階段を一段ずつ降りていくと、階段を背にして廊下の向かい側正面には広間があった。廊下右側、エレベーターの扉が途中にあり、さらに奥の行き止まりには温泉の暖簾が赤と青に別れて垂れている。男女で色分けされているのだろう。そして左側は俺が入ってきた出入り口。自動ドアは変わらずに半ばで止まっていて、惚けたように口を開けて眠っている。

 一通り、視線を巡らせて綻陽を探しているが、ここにはいないみたいだ。

 となると、外か、あるいは女湯の中か、再開した時のように従業員用の通路の奥にいるのか。とりあえず近場から探索も兼ねて綻陽を探した。従業員用の通路から始める。

 相も変わらず腐臭がするものだと思っていたが、不思議なことに臭いは和らいでいた。綻陽が掃除でもしたのだろうか、腐臭の中に柔らかな、いっそ華やかとまで感じる香りが鼻腔をくすぐる。俺は防火扉を開けて奥へと進んでいく。


 そこには、魚の死骸。調理途中で放置され変色した切り身と、酢飯が入っていたらしき寿司桶には緑色の綿のような黴が浮いていた。水槽に活けていた魚もすべて天地を逆さにして水面に浮かび、目は濁っている。水そのものも、藻が生えてガラスを覆っていた。

 ……。

 まるで蜃気楼でも追いかけていたような、狐にでも化かされているのか。俺は目を凝らしてこの場所から立ち上る芳しい香りの原因を探したが、見つけることが出来なかった。

 鼻が、おかしい。

 俺は綺麗な水も手に入らないだろうことを確認すると、来た道を戻り、防火扉を閉めた。綻陽もいない。

 次に向かうとするなら、女湯なのだが、そもそもそこには何があるのか、温泉として機能しているのなら、俺が入ることは気がひけるので、男湯の方へと向かう。


 男湯の暖簾のれんを潜ると水の音が聞こえる。俺は驚きとともに気持ちが昂る。下着一枚のまま脱衣所を抜けて、曇ったガラスの扉を引き、中へ入ると、腹に響く滝のような水音と暖かな湯の煙に包まれた。

 源泉が湧いているんだ。それなら電気水道ガスが止められていようと、湯は湧き続ける。

 俺は今までの陰鬱とした気分が雲を破ったように晴れやかになり、上機嫌になって下着を脱いだ。

 浴衣や下着を脱衣所に置きに戻り、適当なロッカーからタオルを一枚を抜き取ると直ぐに浴場に入り湯船に手を浸した。少し熱めのお湯だが、確かに新鮮な、澄んだ源泉だ。

 手桶に湯を汲んで手足の先から血を洗い落とす。爛れた皮膚に湯が滲みる。そこでふと我に帰る。

 この湯も放射線に汚染されているのではないか。

 そう思い至ると、急に恐ろしくなって、手を止める。俺はその手桶に溜めた湯を持って、洗い場の鏡に掛ける。鏡の曇りが晴れて、目の前に男の体が映る。

 そこには、顔から首、腹に手足と、全身の皮膚が爛れた俺の姿があった。

 手足や腹が爛れていることはここに来る前から見ていたから、驚きはしないが、顔の変貌には驚きを隠せなかった。今まで見慣れていた自分の姿とは、かけ離れた姿、頬の肉は鳥にでも啄ばまれたように穴が穿たれて、眼球は黄色く濁り、瞳孔も心なしか円の外郭が溶けている。首も全体的に赤く発疹ができていて、かさついている。

 死にきれなかったどころの話ではない。

 これでは死人そのものだ!


「部屋に居ないと思ったら、こんな所に」

 背後からの声、鏡越しに入口を見ると、俺の背中を見つめる綻陽が立っていた。

 俺は振り返り、綻陽に詰め寄る。

「どういうことだよこれ! お前、俺に何をした!!

 …こんな、こんな、体、………死んだほうがましだ!」

 俺は怒りで突き動かされるまま、綻陽の肩を掴んで揺らす。手に籠る力は自然に強くなり、綻陽の肩に食い込む。微かに香る人の肌の匂い。その匂いに胃が蠕動ぜんどうするのを感じる。綻陽は顔色一つ変えずに冷やかに俺を見つめる。その鼻越しに見つめるような態度に僅かに怯む。その一瞬を綻陽は見逃すことなく、俺の腕を振りほどいて、みぞおちに掌底打ちをして湯の中に押し込む。

 吹き飛ばされるようにして湯船に盛大に落ちた俺はみぞおちの痛みに呻き、もんどり打って起き上がる。腹が圧縮されたような痛みに、息が出来ない。

 きっ、と綻陽に睨みを効かせる。

「治るってば」綻陽は短く言う。

「この、体がか?

 こんなになってんだぞ、ほとんど死人じゃねぇか」

 俺は食いさがる。それでも綻陽は飄々と言う。

「だから、治るって。

 信じらんないだろうから、今まで説明してなかったけど、今の真白さんは私と同じ、化物なんだよ。

 放射線で爛れてるのは、人間だった時に受けたダメージだから、これからしばらく時間をかければ治っていくよ」

「ば、化物化物って、なんなんだよ具体的には」

「食屍鬼」

「しょくしき?」

「屍体を食べる鬼と書いて、食屍鬼。オルグ? グールの方が一般的かもね。

 真白さんは、調理場には行った? まだ行ってないなら匂いを嗅いでみるといいよ」

「あ……」

 調理場には、行った。

 あの時に鼻をくすぐった香りはなんだったか、腐った物の中に紛れて香りの元が存在するのだと思っていたが、違う。

 そうじゃない。

 腐った物に対して、鼻が感じ取り方を変えたのだ。

 臭いではなく、匂いとして鼻が処理しようとした。

 綻陽の言うところの食屍鬼として、身体が作り変えられている。

「綻陽は、あれを食べいるのか?」

「馬鹿。私だって汚いものは汚いと思うわよ。

 いい匂いで、食べてもお腹を壊さない。だからといって、黴の生えた物を食べたいとは思わないでしょ」

「そ、そうか」

 俺は少しだけ、安心する。少なくとも今の自分の状況が理解できたことで、焦燥感は和らぎ、心の余裕ができた。

 俺は今、食屍鬼という化物になっている。嘘みたいな話だが、受け入れないと先には進まない。そして食屍鬼となった今、この放射線被曝で爛れた皮膚さえ、回復できる。それには時間がかかる。そして、食屍鬼となったからといって、腐ったものしか受け付けない身体になったわけではない。

 ……なら、何を食べるのだろう。


「綻陽」

「ん?」

「お前は何を食べて、ここで生きてるんだ?

 ここに来てどれくらいなんだよ」

「ここに来て…」綻陽は目を閉じる。記憶を遡っているようだ。そして数秒後「大分前に地震、あったじゃない?」と続けた。

 俺は綻陽の言葉を継いだ。「半年前のことだな」


 半年前の地震とは、つまりここの原子力発電所が崩壊してしまった震災のことだ。老朽化した建物は倒壊して、行方不明者は千人程。重軽傷は五百人と、多大な影響を受けた。当時は津波の危険性から、避難勧告が出されたりもしたが津波そのものは沿岸部をほんの少し洗い流した程度で収まった。問題は発電所の施設から過去最大の放射線漏れが観測されたことだ。津波の被害こそ少ないが、そのまま住民は帰ることができず、現在に至る。

「半年前…そんなに月日が経ってるの……

 えぇと、…その時、ここに居たんだよ。神奈かんなと一緒だった」

「神奈、市之丞いちのじょう神奈か」

 覚えてはいるが、俺はあまり関わりはない。綻陽のもう一人の友人だ。大学時代には唯一行動を共にしている姿を見たが、卒業後も交流があったとは、綻陽のイメージからは想像できない仲の良さだ。

「市之丞は、どうしたんだ…?」

「…。」

 俺の問いには答えず、綻陽は微かに一瞬、顔を悲しみに歪めた。

「震災で、亡くなったのか」俺は表情から読み取って、確認した。

「そうだよ。…でも少し違う。殺してしまったの」


 そして、遺体を食べた。

 綻陽は言う。


 人としての理解を超えた事の顛末を、あまりにもさらりと言われたせいで、すぐには反応できなかった。静かに、湯船の外に晒されている身体が震えた。

「友達を、食ったのか?」

 友人。成人女性一人の肉体の処理をした。その経緯を綻陽は話し始めた。

「…地震が起きたとき、私と神奈は市街地の地下デパートを回っていて、その時に建物が倒壊して、出られなくなった。

 その時は他の人も合わせて五人、みんなで一晩を共にして、救助を待ったよ。震災で怪我をしたお婆さんが死んで、残りは四人。一週間の間、お婆さんの腐臭が満たされた檻の中で、人間にとっては地獄みたいな環境だった。死体の匂い。食べ物もなく、酸素も薄く、光も届かない。最初は五人いたはずなのに、気づくとみんな衰弱していた。

 私は神奈を励ました。できることなら死んでほしくなかったし、食屍鬼の私の肉を食べさせれば、神奈は人間を止めて生き残れるかと思った。

 だから、私は最善を尽くすために指先の肉を千切って、指を舐めさせた。血を飲ませて、少しずつ。

 でも、神奈の身体は耐え切れなかった。

 そこで、初めて試みた眷族作りは失敗して、神奈の身体は破裂した。

 適応できなかったんだ。食屍鬼としての変化に衰弱した身体はついてこれなかった」


 俺は黙って聞いていた。身体が破裂するという場面には思い当たる事がある。先程まで俺が眠っていた部屋は、確かに人が爆発したような血飛沫が付いていた。

 俺は耐え抜いたのか。


「結果として地下には私一人と四人の屍体。全て食料として供養した。

 お婆さんは腐敗が進んでいたから、食べきれなかったけど、神奈だけは、綺麗に食べたよ。

 途中で救助隊の足音が聞こえたけど、全部無視した。

 被爆する可能性があるから、救助犬は活躍しなかったみたいで、助かったよ。犬なら臭いで嗅ぎ当ててしまう。この有様を見られては社会で人のフリは出来ないから。

 …そして、長い時間を掛けて、誰もいなくなった後、一人で瓦礫の山から脱出した」

「…それで、今ここに居る。ってことか」

「うん」

「震災を期に、綻陽は人でいることが出来なくなったんだな」

 俺がそう言うと、綻陽はほんの少しだけ目を丸くした。意図した言葉ではないが、何か心に響いたようだ。

「私だって、社会の中で人間のフリをするのも悪くなかった。

 私だって、被害者なの。

 あんなことがなければ、友達を食べたりはしなかった」

 俺は頷いた。

「友達を救えなかったから、だから私はこの土地に引きこもっているの。

 食べるものはなかったけれど、それももうすぐ解決するし」

「ほう」俺は気になって詳しく聞くことにした。俺の胃も空腹を感じているので、丁度良かった。「その食べるものとは?」

「あなたよ」

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