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希死念慮の閾値❖1


 俺は、真白まもうなぎは自殺を考えていた。

 生まれてからこの方、自分の人生を価値のあるものだとは思えなかった。

 生まれる前から確立されていた社会というシステムが、おそらく俺には向いていないのだと感じながら、それでも、報われるという一縷の希望を持って二十年近い年月を生きてきた。

 そして、その努力は実らず、社会で生きていく中で少しずつ綻びが生じて、呆気なく精神を病み、職を失った。

 その時に気付いたのだ。人生というものは、報われない人間もいるのだと。生まれたことそのものが、一種の敗戦処理のようなもので、この精神を引きずりながら、それでもまだ生き続ける。……そんな義理はないのだと。


 だから、自分の住んでいた社員寮の片付けをそこそこに放棄して、遺書らしき文面も、気取った諦観を歌う辞世の句もなく、衝動的にバイクに跨って夜の大通りを駆ける。

 向かう場所は大体の方向しかわからなかったが、道路に掲げられた看板を確認しながら辿れば何の苦もなく、おそらく夜明け前には着くだろう。片道五時間の道のりだと思うと、面倒臭くなって来たが、躁状態の今の俺には、もうあの部屋の中に戻ることは考えられなかった。

 おそらくはこの、偶然のような一瞬毎の意志によって運命は決まっていたんだと思う。少なくとも当時の俺は、そこで死ぬのだと思いながらバイクを走らせていた。


 長らく道を走っていくと、少しずつ前を走る車両も、後続車両も減っていくのが感じられた。そして三時間程走り、一つの山を越え、長いトンネルを抜け、いよいよ空は白み始める。気付くと対向車両のヘッドライトさえすれ違わなくなった。時間の所為でもあるかもしれないが、一番の理由は、その目的地に人はいないからだ。向かう者も出て行く者もいない。


 この世界に一人。


 その孤独は都市にいた時から感じてはいたが、この開けた国道での孤独とは意味合いが違う。

 都市で感じていた孤独は、もっと相対的な、劣等感のような寂しさだった。置いてかれるような焦燥と、人との物理的な距離は近いのに、心は通わせることが叶わないという断絶の孤独。

 それに比べ、今は少し、気分がいい。

 置いていったのは俺の方だ。バックミラーに映る後方のビル街を一時見つめる。

 相対的な劣等感を感じるには、比較対象が必要だが、この人気のない国道の孤独は、自由さがあった。

 きっと、もっと上手く生きていけたら、自殺の為にこの道を走る事も無かったのだろう。この、開放感。少しだけ赦された気がした。このまま、この晴れやかな気持ちのまま、死にたい。


 サービスエリアに立ち寄る。この場所から先に続くはずだった道は、バリケードが設置されていて侵入を拒んでいる。

 さて、どうしたものか。俺は誘蛾灯の明滅する公衆トイレの端から、バリケードを観察した。


 そのバリケードは工事などで立ち入りを制限する簡易的な伸縮門扉で、その合わせには南京錠が掛けられている。伸縮門扉の横には立ち入り禁止と書かれた看板があるのみで、その隙間から進入出来そうだが、カメラが設置されている。


広い駐車場には俺のバイクが一台、所在無げに停まっている。サービスエリアの施設にさえ明かりは灯っておらず、シャッターが下りているため中の様子は伺えない。一部ガラス張りの所から内部を覗くが、理路整然として椅子と机が並び、リアリティのない現実が広がっている。暗い闇を抱えた虚ろなカウンターレジには、片手で持てるくらいの箱状のものが置かれていた。途端、背中が粟立つ。


 ここから先の道には、死の危険があることを実感する。


 カウンターレジに置かれているそれは、ここ数年でよく目にするようになったものだ。

 ガイガーカウンター。どこか玩具めいた名称で記憶しているその機械、またの名を放射能測定器。

 この人が寄り付かないサービスエリアは、理論上での安全圏。分水嶺である。


 先へ進む。ただそれだけで死が決定する。生物として持ち合わせた生存への意志は強かに主張し始めて、体は震える。


「……」

 俺は虫が集る自販機にお金を投入して、ボタンの上で眠る一匹の蛾を押し潰しながらコーヒーを手に入れる。蛾の体液でぬるりとした親指を地面のアスファルトに擦りつけて、バイクの近くの花壇に腰を下ろす。

 栓を開封すると香りを味わう事もなく液体を飲み込む。甘さのくどい濁った液体が、喉を潤しながら、胃に降る。

 俺はため息を一つ吐き出して、これから始まる朝の事を考えた。俺のいない都市は、過不足なく日常を繰り返す。なんの欠落もなく、都市は寂しがらず、困ったりもせず、最初から俺が居なかったような態度で一日を送る。

「…そうだな。うん」

 俺は寂しい。

 俺は困まる。

 都市に生きる誰かに、俺が居ないことで寂しがって欲しかった。困って欲しかった。

 でもきっとそんなことはない。夢物語だ。

 とても空虚な、願いだった。


「俺、死ぬよ」

 誰に言うわけでもなく、ただバイクを前にして声を出す。朝日によって明度を上げた空に、言葉は思っていたよりも自分の中へ反響した。


 ――そうか、自分に言い聞かせていたのか。


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