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死者蘇生に泣く❖2


 怖くて目を閉じていたから分からないが、それでも、感覚的には綻陽の腕は肉が残らないのではないかと思うほどの量を飲み込んだ。次に口にあてがわれるのが骨になるのではないかと思いながら歯を突き立てるが、綻陽の肉はなくならなかった。

 そしてその内に舌の上に広がる味を覚えて、病み付きになっていた。態度にこそ出さなかったが、綻陽が差し出す腕の所作は、俺の思いを悟っているような気さえしていた。

 ぬるついた綻陽の腕は、蜜の滴る果実のようで、後引く美味しさに俺は夢中になっていた。


「もう、充分でしょ?」

 綻陽は欲しがる子供に諭すような声でそう言った。

「あ、あぁ……ごめん」

「残念そうな顔してる。

 沢山食べたから、きっと回復も早くなるわ」

 俺は目を開けて、慌てて口を拭った。人肉であることをいつの間にか忘れて、夢中になってぱくついていた事に愕然とする。しかし、胃が拒絶することもなく、腹八分程の心地よい満足感さえ感じていた。

「湯冷めする前に出たほうがいいよ」綻陽は腕を湯船に沈めて、血を洗い落とすと出口に向かって歩いて行った。脱衣所に入り、扉を閉める前に一言、

「次は私にも食べさせてね」と、言った。


 温泉の海側、ガラス張りの壁面から見える景色は夕陽が赤く空が燃えていた。急速に暗くなる世界を眺めて、この街には電気がないことを思い出した。

 俺は改めて湯船に肩まで身を沈めて、一息、長いため息を吐いた。

 ただ呆然とした。どこを見るでもなく上を仰いで、昇る湯けむりを眼に映して、静止する。

 綻陽に裸を見られたことを今更自覚したり、肉の味を思い出したり、次は俺も食われるのだと考えたり……

 生活が変わった。

 確かに化物になったのだ。

 人としての真白凪の死は行方不明として知人に知られるのだろうか。ああ、なにも分からないままだ。

 ひとつ分かっているのは、死にぞこなったということだけ。


 数分後、いい加減に身体が茹だって来たので湯船から出る。

 タイルや壁面に付着した血を手桶で洗い流して、洗い場の椅子に座って備え付けのシャンプーで手短に髪を洗う。

 そしてタオルで身体を軽く拭いてから脱衣所へ出て、バスタオルで丁寧に全身を拭く。ドライヤーが使えないのは少し困りものだが、そもそも温泉が生きている事が奇跡のような環境だ。贅沢は言えない。

脱衣所の大きな鏡に、身体を映す。肉を食べたからといって、すぐにこの死体のような見た目が回復する訳ではないようで、相変わらず死人のような外見をしていた。それでも、近付いてよく観察すると、温泉に入ったからか少し血色が良い。肌の爛れも改善されているように見えた。

 前もって用意していた浴衣に袖を通し、清潔な身なりになって幾分が良くなり、浴場の外へ出た。

 廊下を歩くと視界の横目で綻陽を捉えた。宴会場の広い空間、畳の上で寝そべっている。

「ここにいたのか」俺は綻陽の横に立つ。

「何にもないけど、悪くないでしょ」綻陽は寝返りを打って俺を見上げる。

「温泉があるのはいいな。……けど、それ以外の娯楽はないな。電気も水道もガスも止まってるんだろ?」

「止まってるよ。シャンプーとかは裏に在庫を幾つか見つけたけど、あと日本酒とワインも。酒は常温でも腐らないからね。

 まぁ、暇つぶしといえば、図書館とか、書店を漁ればいいし、それこそコンビニに探検でも行けばいい」

「それだけじゃ、退屈だな」

「……もしかして誘ってる?

 ……ダメだよ。今の真白さんは今の見た目はゾンビなんだから。

 おあずけ」綻陽は寝返りを返して俺から背を向けた。

「……なら、この身体が回復したらまた誘うよ」

「その場合、お腹いっぱい食べるけどね」

 中々、手厳しい答えが帰ってきた。とはいえ完全な拒絶とまではいかないようだし、この身体が元に戻ったら、その時はそれとなく誘うだろう。

「…さて、それではその酒を飲んでみますか?」俺は廊下の方にとって返す。「場所はどこなんだ?」

「調理場の手前のガラスケースにあるよ」


 防火扉を開けて、生暖かい腐臭を浴びる。珈琲豆を挽いた時の香りに近い、腹が空くような香りが色濃く感じ取れる。このままでは黴だらけの酢飯を食ってしまうかも知れない。明日にでも外に捨ててしまおう。


 さて、お目当の日本酒とワインは確かにガラスケースの中で眠っていた。陽の当たらない保管庫にあるので、確かに傷んではいないようだ。ガラスの扉を引き開けると一瓶ずつ取り出した。グラスも発見したので二つ取り、宴会場へ戻る。


 がらんとした宴会場の窓際で、寝そべり続けている綻陽のもとまで戻り、日本酒とワインとグラスを畳に置いた。

「ワイン温いと美味しくないよ?」綻陽はグラスを受け取りながら小言を言う。

「冷やす方法がないからしょうがない。寧ろこのまま腐らせるより、早めに飲みきってしまおう」


 俺はワインの栓を開封して、綻陽と俺のグラスに注いだ。血液よりも冷たい、赤紫の液体がグラスの半分程を満たした。

 綻陽は畳の上に座り直して一口舐めるようにワインを飲んだ。

「どう?」

「苦い」

「傷んでる?」

「苦い」

「わかんねーよ」

 綻陽はそもそもワインが苦手らしく、傷んでいるかどうかは窺うことはできそうにない。俺も一口舐める。

「……確かに、渋みが強いけど、傷んではなさそうだな」

「ま、食屍鬼なんだから、美味しかったら傷んでるったことかも知れないよ」

「そう考えると怖いな。

 綻陽はワインを飲んで美味しいと感じたことは?」

「ないよ。全部苦いししょっぱい。

 血の方が甘い」

 綻陽はさも当然という顔で言う。

 ……美味しいと感じたら、傷んでいると考えたほうがいいと言うのは、間違いではなさそうだ。

「それはワイン以外も?」

「モノによるかな。

 牛肉鶏肉豚肉、それらは卓に並ぶときには死んでるわけでしょ? 腐っているわけじゃないけど、おそらく人と同じ味覚を共有しているはず。美味しい。

 野菜とか果物は、苦手だったな。多分食屍鬼になった真白さんも、これからは食べれなくなるかもね。

 あと、パンとかご飯は味がしない。

 スナック菓子はまぁ、美味しい」

「案外雑食というか、人間になりすますのは困難ではないんだな」

「そんなことないよ。お腹を満たすのは簡単でも、食欲そのものを満たすのはやっぱり人の肉だもの」

「そうなのか」

 だとしたら、僕と共に過ごした学生時代にも、人の肉を食べていたのだろうか?

「なぁ」

「ん?」

「綻陽はここに来る前、具体的にはいつから食屍鬼だったんだ?」

「生まれた時からそうだよ。

 親から離れて、一人暮らしした時に、自炊してもお母さんの料理とは味が違うから、電話で聞いたんだ。『どんな隠し味使えばいいの』って。そしたら、『人の肉を使うのよ』なんて帰ってきて、まぁ、今まで隠されてきたから、信じられないし、冗談だと思ってたけど」ははは。と綻陽は笑う。

「それから、人を殺して食べたことは?」

「ない。……何度かすごく美味しそうな人にも出逢ったけど、殺すことはできなかった」

「なんだ、少し安心した」

 俺はワインを早々に飲み干して、日本酒を注いだ。

「もし殺す計画とか、完全犯罪ができるなら、真白さんはもっと早いうちに食べちゃってたけどね」

「え? …それは、俺が美味しそうな人の一人だったって事?」

「うん。私が友達として近づいたのは神奈と真白さんが美味しそうな人だったから。

 チャンスがあれば一口だけでもって思ってた」

「……」


 なるほどな。

 なんとなく大学時代の綻陽の真相が見えた気がする。

 鼻越しに見るような偉そうな態度と、それとは不釣り合いな友好。

 綻陽なりの不器用さだと思っていたが、その背景にそんな感情があったとは。

「今は真白さんも食屍鬼になったし、いくら食べても死なないから、食べ放題だよ!

 身体が回復したら、早く食べたいなぁ」

「は、はは。……ぞっとする話だな」

「自分のこと食べて見れば? 痛みに慣れる練習にもなるよ」

「綻陽は自分を食べて練習したのか?」

「練習、とは違うな。

 人を殺せないから、自分を食べて我慢してた。

 お腹は膨らまないから、心理的な満足しかないけど、痛みには慣れたよ」

 俺は自分の掌、小指球の膨らみを少しだけ見つめてみたが、噛み付く気持ちにはならなかった。代わりに日本酒を一口飲み込んで、ガラスの向こうの景色を眺める。

 外の景色は薄暗い砂浜だった。打ち寄せては引いてを繰り返す波の白く泡立った汀。水平線の向こうまで文明的な灯りはなく、世界に二人きりな気がしてくる。事実では、半径五十キロ圏内が立ち入り禁止区域となっている。もしかしたら俺みたいな馬鹿が、その区域の中を少しくらいは侵入しているかも知れないし、どうしても縋り付く思いで自宅まで戻ってくる人もいるかも知れない。だが、そんな事をしたら必ず被曝する。

 この場所はその立ち入り禁止区域の中心に近い。見渡す限りでは、その目に映る世界は二人きりだ。

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