回想
震災や放射能について記述がありますが、全てフィクションです。
この物語は被災者への配慮として最低限震災時の描写を省略させていただいておりますが、不快に思われる方は閲覧をお控え下さい。
壁に描かれている富士に、今更ながら気が付いた。湯の煙で視界が明瞭ではないこの湿度の高い空間で、俺は女の肩に牙を突き立てていた。
理性と殺意がせめぎ合いながら、どろどろと濁った感情が内圧を高めて行く。それと比例して顎の筋肉を絞る。糸切り歯が彼女の肩に食い込み、弾力のある皮膚に穴を穿ち、血の味がする。
「いいよ」女は慈愛のようなものを含ませた声音でそう囁く。「それで許してくれるなら、噛み千切って欲しい」
顎門の中で女の筋肉が動く。ちらりとその肩の先に繋がった細くしなやかな右腕をみると、それはゆっくりと持ち上がり、俺の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。その動きに連動して歯を突き立てている筋肉も口内で動いているのが伝わる。
俺は、どうしようもない怒りと悲しみを振り絞り、女の僧帽筋を一口齧り切って、両手で女の肩を掴んで突き放した。筋繊維が悲鳴をあげて千切れていく感触が伝わる。噴き出した血液の飛沫が右目に入って染みる。
女は痛みを堪えながら左掌で右肩の穿たれた傷をかばい、俺のことを見つめる。その目には複雑な色の光を湛えていたが、微かに、笑みが浮かんでいた。
――どうしてこんな事になったのか、時間は少し遡る……