いわゆる、仲違いの話
「なべりんのお母さん、そういえば会ったことないなぁ。どんな人なの?」
友人の相川貴理乃から突然そんなことを切り出され、わたし――渡辺凛、だから彼女からは略してなべりんと呼ばれている――は戸惑いを隠しきれなかった。
それは、昼休みにいつものメンバーであるわたしと貴理乃、そして寺村咲という友人の三人でお弁当を食べていた時のこと。いつものように取りとめもなく喋っていると、話題は自然とそれぞれの家族のことになって。
貴理乃は、いわく頭髪が少々薄めだという父親と、病弱だが少し天然な母親のことを。咲はとうに還暦を超えているのに未だパワフルな父親と、風貌が元ヤ……いや、少々派手目で破天荒な性格の母親、そして食べ盛りな弟二人のことを。それぞれ、本当に楽しそうな顔で話す。
一方のわたしには、取り立てて面白い家族がいるというわけでもないけれど、兄が過去にやらかしたこと――例えば読書感想文をネットで適当に引っ掛け丸写しして提出したら県大会まで行ってしまったとか、漢字テストで百点満点中十点だったとか、お寺で拾った蛇の抜け殻を自由研究として提出したとか、そんなことを話したら、思いの外笑いが取れたので良しとした。
そんな中でふと、貴理乃が思いついたようにこう言ったのだ。
「なべりんってさ、お母さんの話全然しないよね」
いつか指摘されることだとは分かっていたけれど、実際に言われると心の準備も何もなく、どきりとする。
はぐらかすように「そうかな」と笑みを浮かべたら、「そうだよ!」と食い気味に返された。
「お兄さんのことはよく話してるし、お父さんやおばあさんの話題だってたまに出るけどさ。お母さんのことって、そういえば一回も聞いたことないなぁって……実はちょっと、前から不思議に思ってたんだよね」
「貴理乃、あのさ……」
言いよどむわたしに助け舟を出すように、咲が口を開く。中学校が一緒だった咲は、わたしの母親を知っているのだ。
「寺村さんは、知ってるの?」
貴理乃の矛先が、咲へと向かう。会ったことがあるのか、どんな人なのか、と矢継ぎ早に問われて、咲は珍しく困ったような顔をした。
「寺さん、ごめんね。ありがと」
庇ってくれようとしたのが分かったから、咲――わたしは、彼女を寺さんと呼んでいる――に礼を言う。頼りなげに眉を下げた咲と、まさに好奇心丸出しという顔をした貴理乃に、わたしは小さく笑った。
「きりのん」
わたしが呼ぶと、きりのんこと貴理乃は「なぁに?」と無邪気に首を傾げた。出来るだけ平静を装い、いつも兄を始めとした家族の話をする時と同じような軽いノリで、わたしは言葉を続ける。
「わたしのお母さんはね、死んじゃったの」
だから、もう会えないんだ。
――その場の空気が、一瞬で変わったのが分かった。
相変わらず教室は騒がしく、わたしたちとは別にグループを組んでお弁当を食べている子たちは、先ほどまでと同じく各々の話に花を咲かせ、楽しそうに笑っている。わたしたち三人の中でだけ、空気がガラリと変わった。
「凛……」
「中学校の時だよ。ガンだってさ。もう、大変だったなぁ」
咲が口を開くのとほぼ同じタイミングで、わたしは言葉を続けた。わざとヘラリと笑って、軽口をたたく時のように早口で。
「こっちは高校受験控えてたのにさ、何もそんなタイミングで死ななくたっていいじゃない、ってねぇ。最後まで間が悪いったら。結局そのせいで、うちの稼ぎが減ったもんで、お兄ちゃんだって高卒で就職しなきゃいけなかったのよ。きっとやりたいこともあったろうにさぁ」
咲は心配そうに、わたしを見ている。貴理乃はいつも饒舌なのが嘘みたいに、水を打ったような静けさでうつむいていた。
一回口から出たものを、自分で止めるのは無理だった。
「でもいいんだ。わたし、もともとお母さんのこと嫌いだったしさ」
「……っ」
酷いこと言ってるって、そのせいでわたし自身の心を傷つけているって、分かってても。
「仏頂面で笑わないし、顔合わせたら文句か愚痴しか言わないし、ホント、何であんな人とちょっとの間だけでも親子だったのか。わかんないもんだよね。もともと性格も合わなかったし、全っ然……」
「やめて」
「あんなんだったら、いっそ母親なんて最初から、」
「もうやめて!!」
穏やかな気質の貴理乃からは考えられないほどの、ヒステリックな金切り声。一瞬教室中がシンと静まり返り、周りがこちらの異常に気付いたのか、徐々にざわつき始めた。
けれどそんな喧騒を気にすることもなく、貴理乃は固い声を出す。
「ひどいよ……自分を産んでくれた、たった一人のお母さんでしょ。もう、会いたくても会えないんでしょ。それなのに……嫌いなんて、そんなこと言うの、ひどい」
「……」
言い返すことはできなかった。
あなたに何が分かるのとか、ちゃんとお母さんに愛を与えてもらえるような平和な家庭で育ったからそういうことが言えるんだとか、言いたいことは山ほどあったはずだ。それなのに、声が出ない。
「ひどいよ……」
黙り込んでいるうちに、貴理乃はとうとう泣き出した。少し、言いすぎてしまったかもしれない。
ボロボロと涙を零す貴理乃の方を、咲がそっと抱く。わたしへ送られる視線に咎める色や責める色は一切なく、ただ気遣わしげな、心配そうな表情だけがそこにあった。
「……ごめん」
何とか絞り出して、言えたのはそんな、簡素な謝罪だけだった。
◆◆◆
その後、貴理乃は五限目までには何とか落ち着いた。咲が傍でなだめてくれていたおかげもあるだろう。
けどなんとなくお互いに気まずくて、話しかけに行くことができなかった。視線を交わし合っては逸らすという、どこの両片想いカップルだと突っ込みたくなるような応酬を遠くから繰り返すうちに、放課後になる。
このまま、仲直りできなくなったらどうしよう……。
そう考えると、ぞっとした。どうにかして、謝らないといけないんだけど、どうしたらいいか分からない。自分から行動することがどうにも苦手で、そんな性格が今回ばかりはほとほと嫌になる。
気晴らしに、部室である美術室へ行った。貴理乃や咲とは所属する部活が違うので、ここなら会うことはない。もともといつ来てもいいような、自由な部活だから、人もまばらだ。いい具合に、頭を冷やせると思った。
中に入ると、ちらほらと部員たちの後ろ姿。コンクール用の作品に取り掛かるにはまだ早い時期だからか、絵を描く子たちは練習がてらに無機物のデッサンをしている。テーブルの方では、彫刻や版画をする子たちがそれぞれ構図を練ったり、即興で小さな木や石を彫ったりしている。
熱心な部員の中には、今度のコンクールに向けて、既に構想を練っているような子もいた。
わたしも何か描こうかな、と、ロッカーから専用のスケッチブックを取り出した。鞄から鉛筆を出して、空いていた木椅子に座る。ちなみにわたしは絵を描くのも何かを作るのも好きなのだが、コンクールに出す作品は決まって絵だった。
被写体を探していると、ガラリと戸が開いた。同じく美術部員の常盤紗幸が入ってくるのが見えたので、軽く手を振る。常盤の方もわたしに気付いたらしく、小さく振り返してきた。
常盤はクラスこそ違うが、家が近いため幼い頃から面識がある。わたしにとってのいわゆる幼馴染であり、同級生の中では一番身近な存在といえるだろう。
わたしと同じように、自分のロッカーからスケッチブックを出してくると、常盤はわたしのすぐ傍にあった木椅子に座った。
「何か、元気ないね。今日」
「そうかな」
「わたしが言うんだから間違いないじゃないか。そうだろう?」
「ま、それもそうか。……さすが、常盤さん」
「褒めたって何も出やしないよ」
互いにアタリを取りながら、ちょうど眼の前に置いてあった花瓶のデッサンをする。いつも上手ってわけじゃないけど、今日はことさら調子が悪く、いつもより形がいびつになった。こんなんじゃ顧問に怒られるかも。
「うーん」
「……渡辺、何かあった?」
気遣わしげな声色の常盤は、けれど視線をこちらに寄越すことはなく、相変わらずサラサラと手を動かしている。いつもの、この適度な距離感が心地いい。
喉につっかえていた言葉は、意外とするりと出てきた。
「今日ね」
「うん」
「きりのんが、お母さんのことを聞いてきたんだ。前から思ってたけど、何でお母さんの話をしないのって」
「……」
「当然の、疑問だと思う。普通の家って、兄弟がいたり、おじいちゃんやおばあちゃんがいたりするとこもあるけどさ。普通はお父さんがいれば、お母さんがいるもんね。それが、当たり前なんだもんね」
常盤は、余計なことは何も言わない。ただ、サラサラと鉛筆の走る音と、時折漏れる常盤の相槌だけが耳に届く。
「寺さんは中学校一緒だったから、お母さんのことを知ってる。けど、きりのんはそうじゃない。だってわたし、一度も言ったことないからさ。でも、今日いきなりそんなこと聞かれて。悪気はないって分かってても、我慢できなくて……つい、言っちゃったんだよね」
わたしはといえば、口ばっかり堰を切ったように達者に動いて、手の方は気付けばすっかり止まっていた。
「わたしのお母さんは死んだ、けどあの人のこと嫌いだったから別にいい……って。そしたらきりのん、泣きだしちゃった。たった一人のお母さんなのに、嫌いなんてひどいよって」
貴理乃の言っていたことは、何も間違ってない。
両親の誕生日をメールアドレスに入れるほど、自分の家族を心から大切にしている貴理乃。家族旅行へ頻繁に行ったり、自分だけでなく両親の誕生日も、必ず家族みんなでお祝いしたり。家族三人で仲良さげな写真を、嬉しそうな顔で見せてくれた。
本来はそれくらい大切なはずの存在を、嫌いだとしか言い切ることができなかった……そして、母の本当の想いを終ぞ知ることができなかった、わたしのせいだ。
まだ心の整理がつかないなんて、言い訳に過ぎないのに。
母親という存在を素直に受け入れ、愛し愛されることができる、貴理乃や咲のことが羨ましくて仕方なかった。いつも……いつも。
「わたしは、きりのんを傷つけた」
その事実を理解していても、どうしていいか分からなくて。
今、貴理乃と顔を合わせたところで、何を言うこともきっとできない。
スケッチブックを抱え込むようにして、うずくまる。その背を、あったかい手が――おそらく常盤の手が、ポンポン、と軽く叩いた。
「帰ろう」
常盤はただ、それだけ言った。
美術室を出て、廊下を歩く。
先ほどまでのことには触れず、常盤がいつも通り取り留めもない話題を振ってくれるから、わたしも少しずつ冷静になることができた。
しこりは残っても、とりあえずいつも通り。何だか、さっきよりもずっと前向きになれた気がする。
家に帰ったら、明日貴理乃にどうやって謝ろうか考えよう。許してくれるかどうかは、その時になってみないと分からないけど……。
クラスが違う常盤といったん別れて、下駄箱で自分の靴を出す。いつものようにスニーカーを履いて、常盤と合流した。
違和感に気付いたのは、校門を出る手前。
「ん……?」
「渡辺、どうしたんだい」
「何か、左足が変に滑る」
言いながら、左足のスニーカーを脱ぐ。常盤の肩を借りて片足立ちし、引っくり返して違和感を取り去ろうとすると、中からひらり、と何か神のようなものが落ちた。
「手紙……かい?」
靴を履き直すわたしに肩を貸した後、常盤がそのメモ紙のようなものを拾って渡してくれた。その色で、わたしは差出人が誰かを悟る。
「水色の、メモ帳……きりのん?」
貴理乃は、水色が好きだ。身の回りのもののほとんどを、水色系統で固めきってしまうほど徹底している。
わたしは慌てて、四つ折りになったそのメモ紙を開いた。
中に並んでいるのは思った通り、わたしがよく知っている彼女の、薄くて細いシャーペンで書かれた字。
『なべりん、ごめんね。あたし、無神経だったね。
でも、出来たらもう二度と、あんな悲しいことは言わないでほしいな。
きりの』
どうやら、先を越されてしまったらしい。
「……と、常盤」
「なんだい」
「まだ、帰ってないかな」
「放課後といっても、そんなに遅い時間じゃないからね。もしかしたら、まだその辺にいるんじゃないかな。行っておいで」
「ありがとう!」
常盤に短く礼を言って、わたしはそのまま校内へ走って戻った。
靴を履き替えるのももどかしく、上靴を適当に引っ掛けて、校内を走る。
教室へ向かう、廊下を曲がってすぐのところで、ちょうどタイミングよく二人の少女が話しているところに鉢合わせた。
二人とも端っこの方で座り込んでいて、一人の方がもう一人の肩を抱き、慰めるようにして何やら話をしている。
「きりのん!」
短く名前を呼ぶと、うつむいて肩を抱かれていた方の少女――貴理乃が、ハッと顔を上げる。
潤んだ瞳が、わたしを映した。
「なべりん……!」
空気を読んでくれたらしい咲が、そっと貴理乃の傍を離れる。わたしはうずくまった貴理乃の前に座り込み、ぱたりと手を着いた。
「ごめんね、わたし……きりのんが家族のことすごい大切にしてるの知ってるのに、あんなに酷いこと言っちゃって」
貴理乃は小さく首を横に振った。
「……寺村さんに聞いた。お母さんと、折り合いが悪かったんだってね。そんなことも知らないで、無神経にあんなこと言っちゃって、あたしこそごめん。なべりんのこと、傷つけちゃった」
「折り合いが悪かったって、寺さんも大げさだよ。ただ、素直じゃなかっただけなんだもん。……傷つけちゃったのは、わたしの方。本当に、ごめんね」
「ううん、ごめんね。事情も知らないくせに、ひどいなんて言っちゃって。そんな権利ないのに、勝手に悲しくなって泣いちゃって。なべりん、困っちゃったよね……」
しばらく、二人で「ごめんね」の応酬が続いた。散々謝り合っていると、何だか途中から可笑しくなってきて。だんだん笑い混じりになった後、最終的には二人で笑ってしまった。
それから、ずっと見守ってくれていた咲に促され、わたしたちはようやく立ち上がった。
「今度、なべりんのお家に行ってもいい?」
涙目の貴理乃が、いつものように屈託なく笑いかけてくれる。そのことにホッとして、何だかわたしまで泣きそうになってしまった。
「お母さんに、会いたいな」
「……いいよ」
貴理乃たちみたいに愉快な友達を連れてきたら、母も喜んでくれるだろうか。あの仏頂面でぬっと現れ、「いらっしゃい」なんて出迎えてはわたしの友達をたびたび怖がらせていた、小学校時代の母親を思い出した。
「ところで、あの手紙いつ入れたの?」
「なべりんが来る、ちょっと前かな。んで、手紙入れてから一応待ってたんだ。やっぱ直接話せた方がいいかなって思ったから。常盤さん、だっけ。あの人と一緒に歩いてきて、なべりんったらあたしたちの目の前素通りしてったんだよ」
「え、マジ? 常盤、何で言ってくれなかったの……」
「凛ったら綺麗に無視して行ったよね。常盤さんはあっち向いてたから気づいてなかったみたいだけど」
「うわぁ……全然気づかなかった。それはホントにごめん」
「んで、常盤さんとあんたのあとを付けたんだけどさ。あんた一回、気付かないでそのまま靴履いたでしょ」
「うん、何歩か歩いてから初めて気づいた。なんか左足滑るな……あ、靴の中になんか入ってるって」
「あたしの手紙踏んづけちゃったんだ。ふふっ、ひどいね」
「あはは、ごめんって」
「ホント凛って天然だよね」
「同感だよ~」
「そんなことないって」
いつもの調子で三人、笑い合いながらわたしは考える。
いつかわたしも、二人と同じように、笑って母親の話ができる日が来るのだろうか。うちのお母さんったら、ホント愛想ないんだよ……なんて笑い話にできる日が、いつかは。
苦い思い出も、時とともに昇華されるようになる。ひょっとしたらそれが、成長するということなのかもしれない。
自分の境遇も、相手の境遇も。全てを受け入れられるような。
願わくは、そんな大人に。