006
「まずは諸君らに一つずつ、デルタ因子の投与カプセルを配布する。担当の者から受け取ってくれ」
会場の端から瑠璃色に輝く液体が入った注射器が台車のようなものに大量に並べられ、運ばれてきた。
そして、僕達の手元に一本づつ手渡された。
注射器に入った液体は宝石のような輝きを放っているが、同時に言いようのない恐怖を感じた。
「今運ばれてきたのがデルタ因子である。これを自らの体内に投与し、魔導士になることがーー諸君らに課せられた義務だと思え」
雄弁に男は語る。
彼の言葉一つ一つが自信に満ち、発する単語には力が籠っていた。
「神徒による被害は今なお続いている。よって、一人でも多くの隊員が必要となる。そして、魔導士になることは、この壁の中で一人でも多くの人命を救えるという名誉なことだ」
首のない死体の血溜まりを作った張本人は大衆に訴えかける。
名誉なことなら、何故自身はそれに身を投じないのかと僕は奥歯を鳴らしていた。
「それに魔導士になれば、特種ーー特別二種に昇格となり、二種と同等の権利を解放することを私が約束しよう」
周りが騒がしくなっている光景を、一種は蛆虫が湧いているのを見るような目で睨んだのち、再び説明をし始めた。
「知っている者もいるかも知れないが、何割かの確率でデルタ因子の投与が失敗する場合がある。その場合は、特別な処置を施す」
特別な処置ーー二種の腰に添えられている拳銃らしき物。
前から不可解に思っていた真ん中の丸い空間。
まるで、聖者が神に祈りを捧げるような場所があったことを僕は疑問に思っていた。
二種と呼ばれた者達が住んでいる場所がここなのだろう。
大勢の人々の尊厳を犠牲にして、成り立っていることを当然だと信じきっているかのように僕らを見下している。
きっと投与に失敗した者は、あの円の中で彼のように傷みを叫ぶ暇もなく息絶えるのだ。
足元から形容し難い恐怖が這い上がってくる。
「どちらにせよ、投与を拒めるのは二種以上の階級のみだ。それ以下の市民階級の諸君らには悪いが、魔導士となることを期待している。なお、失敗した者が出た場合はーーーー」
一瞬、何が起きたのか理解ができなかった。
天井が突如として崩れ落ち、何人かは悲鳴も出すこともなく、瓦礫の下敷きになりーー肉片と化した。
そして、空から何かが滑空し、瓦礫の上に落下してきたのはーーーー。
幻想やお伽話でしか存在しないはずのドラゴンと呼ばれている翼の生えた巨大な生物らしきものだった。
「何故だ!? 魔導士の奴らは何をしているんだ!! さっさとこいつらを」
一種の男は逃げる間もなく、ドラゴンは胴体に被りつくと喰いちぎり、腸に貪りついていた。
大半の人間が状況を理解できないでいる中、あの金髪の二種達だけは状況を理解しているようでーーーー。
「ボクはこんなの聞いてないぞ!!神徒じゃない化物まで出てきているし。それにボクはただ、失敗した奴の対処をしろって聞いてただけなのにさ!!!!」
あんなに偉そうにしていた二種が何かに取り憑かれたかのように血相を変え、会場の出口から出ようとする。
だが、場面が切り替わったかのように二種の首は肉体と離れ、重力に従って、その場に落下した。
その屍を踏みつけ、こちらに向かってくるのは黒鉄色の金属を見に纏い。
目玉のような部分を紅く光らせ、血に濡れた異様な武器を所持していた。
装甲の隙間からは蒸気を噴射させ、僕らに向かって一歩ずつ確実に近寄ってくる。
片腕に持つ武器の中心は翡翠色をした正八面体で、金属を目視で分かるほどの磁場らしきもので固定していた。
「神徒だ……。なんで、こんな所に……」
そして惨劇を目撃し、自身に降りかかる恐怖を理解した人々は、悲しみや絶望、恐怖や怒りが混じり合い。
ーーまるで、この世の破滅を描いた絵画のような光景がそこにはあった。
けれど、僕達が生き残れる可能性が一つだけあった。
それは、デルタ因子を自らの体に取り込むことだ。
ーーなんだ、英雄になれるチャンスじゃないか。
現状、神徒に対抗できるのはデルタ因子を取り込んだ魔導士だけだと、一種の野郎が雄弁に語っていたじゃないか。
僕は自分の左腕を捲り、右手にあるデルタ因子の入った注射器を構える。
けれども、身体は正直なのかーー冷や汗が止まらず、手足は小刻みに震えている。
恐怖で目の前が霞みーー皮膚の中を蚯蚓が這いずり廻るような瀬ない気分で、悪寒や嗚咽が止まらなかった。
ーーもし、失敗したら……どうなるのだろうか。
死ぬことよりも苦しい目に合うのだろうか。
死ぬのは、どれくらい痛いのだろうか。
痛いのは嫌だ。
死にたくない。
頭に刷り込まれるように響く心の声は狼狽している僕の体を簡単に支配して、心臓の鼓動は爆音を鳴らし続けている。
一度は死を選び、命を投げ出した人物が何を言ってるんだよ。
僕は右腕を何度も叩いて震え抑え、デルタ因子をしようと上腕に向けて針を近づける。
だが、体は危機を回避しようと必要に投与の邪魔をする。
結果として、右腕が動かなくなるまで叩き続け、青痣が刻み込まれただけだった。
徒労以外の何者でもない。
どうすることもできない自分の弱さを嘆き、地べたにしゃがみ込んで泣き崩れている僕の手を誰かが優しく握りしめていた。
「お兄ちゃん、任せといて。私が、お兄ちゃんを守るから」
「おい、何言ってるんだよ…………」
優しい笑みを浮かべた妹は震える手でーーデルタ因子を自らの体に投与した。