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魔蝕の血~幻月~  作者: 倉元裕紀
第1章 覚醒
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6


 夢を見た。

 今度は、はっきり覚えている。

 自分が死ぬ夢だった。

 正確には、自分が死んでいる夢。

 屍になったまま、恐らくは、腐敗して消えるまでずっと、その場所に置き去りにされる夢。

 惨めな死。

 彼女を信じたばっかりに。

 そうか?

 そうだろうか。

 不思議だ。

 そんな気はしなかった。

 そう思った瞬間に、光を感じる。

 そして、その刺激が口火を切って、停止していた体の機能が活動を再開し始める。

 動く。

 動いている。

 心臓も。

 肺も。

 生きているという懐かしいリズムが、体を巡っていく。

 熱が出ているかのような高い体温を感じるが、すぐに体が慣れていき、薄い衣を羽織っているような穏やかな温もりが定着していく。

 しかし。

 右手は、動かない。

 左手も、足も。

 弱ったな。

 また最初から、トレーニングしなきゃならないのか。

 すると、胸の内の舌打ちに答えるように、夏の夜風のような涼やかな声が聞こえた。


「お帰りなさい。シド」


 シド。

 木の芽のように生じる違和感。

 だけど、それもあっという間に置き去りになる。

 体中に根が張られているような一体感。

 シド。

 なるほど。

 悪くない。

 シドは目を開ける。

 顔が動かせるか自信がなかったが、幸いにも、思ったよりもずっと簡単に傾き、左側に座っていた彼女を視界に捉えた。

 そこにだけ全ての夜を閉じこめたような、黒い淑やかな少女のシルエット。

 いつか見たのと、同じ姿勢だった。

 なんてこった。

 呑気に本を読んでやがった。

 しかし。

 少し笑った。

 すると、その上にぼんやりと浮かぶ白い月が、いや、彼女の可憐な顔がこちらを見下ろして、まさに月を見上げた人々に遍く癒しを与えるように、ふっと微笑んだように見えた。


「気分はどう?」

「……ああ」


 多少掠れていたが、割とまともな声が出た。だが、微笑み返してやるのはまだ難しいようだ。顔の筋肉ってどうやって動かすんだったかと、試験中のようなぎこちない脳が辿々しく検索を始めていたが、明らかにこの数分で見つかるようなペースではなかった。

 視界の方も、どうもおかしい。

 結局、首が疲れてきてしまったので、彼女の顔にピントを合わせるのは諦めて、再び天井を見ながら、返すべき答えを探すことにした。

 幸い、回答はすぐに思いついた。


「まあ……、前に比べたら、断然いいな」


 前のこのシチュエーションで覚えていることといえば、体も気分も鉛のようだったことだけ。あの時の感覚が頭に残っているうちは、大抵の状況を歓迎できる気さえする。


「そう。それならよかった」

「俺は、何日くらい寝てた?」

「そうね。ちゃんと寝られたのは、大体60時間くらいじゃないかしら。その前に、それと同じくらいの時間、ひたすら叫んでのたうち回っていたから、妥当な睡眠時間だと思うけれど」

「……睡眠って言うのか? それ」

「さあ?」


 どちらかというと、気絶とか昏睡の方が近い。

 そこで、音もなく立ち上がった彼女が、こちらの視界の中央に顔を覗かせ、笑みを浮かべながらじっと見下ろしてくる。

 今度は、目の焦点機能も回復していた。

 所々が綺羅星のように瞬く長い黄金の髪が、天使の階段のように流れ落ちる。

 磨かれた陶器のように滑らかな顔の中で、淡い色の可愛らしい唇がそっと微笑む。

 そして、淡い神秘の光を讃えた銀色の瞳が、見る者の視線と意識を釘付けにしていく。

 幻月かと、心の中で呟く。

 綺麗だ。

 そして変わらない。

 女性らしく淑やかに髪を押さえている右手を、もどかしく少しだけ動かしながら、彼女は言った。


「ねえ。早速で悪いんだけど」

「……ああ」

「私のこと、呼んで貰える?」


 思わず、吹き出しそうになる。

 気付かないうちに、彼女も笑いを堪えるような表情に変わっていた。

 しっかりと記憶は残っていた。


「アリシア」


 その名前を初めて口に出した途端。

 どういうわけか、彼女の見え方が少しだけ変わった気がした。変な言い方だが、可愛らしく見えたような気がした。いや、可愛いのは、元からなのだが。

 そこで急に、彼女と目を合わせているのが気恥ずかしくなる。

 結果、照れたように視線を逸らしてしまったのだが、さすがにあからさま過ぎたのか、彼女がクスクスと笑い出したのが分かった。

 何だ?

 何なんだ、これは……

 よく分からないが、何かに負けたような、そんな気がした。


「あ、そうだ」


 彼女の気配が頭上から消え、椅子に腰掛けたのが分かった直後、思い出したようなそんな言葉が聞こえた。

 仕方なく、もう一度、そちらを見る。

 彼女はもう笑っていなかった。ただ、こちらの視線を受け止めるなり、口元を上げた不敵な表情で、右手をゆっくり持ち上げる。

 その手には、見覚えのありすぎる、鎖の付いた黒い手錠が握られていた。よく考えてみれば、今の自分の手足にはその感触がない。寝ている間に外しておいてくれたのだろう。

 ただし、だからと言って、安堵できたわけではない。

 この薄暗い部屋でもはっきり分かるほど、その手錠の全体に、赤黒い血がびっちりとこびり付いていた。

 もちろん、誰の血なのかはすぐに理解できた。そういえば、手首や足首がヒリヒリと痛むような気がしないでもない。

 その惨劇の痕跡を弄ぶように揺らし、彼女は僅かに首を傾け微笑む。


「捨てようかと思ってたんだけど、もしかしたら気が変わっているかもしれないと思って、一応とっておいてあげたの」

「……何が?」

「これ、私に使ってみるなら、今のうちだけど?」


 髪を揺するような思わせぶりな仕草の中に垣間見える、魔王の気配。

 顔を天井に向けた。

 どういうわけか、彼女に枷をかける場面を、彼女の自由を奪って思い通りにするというシチュエーションを、意識しそうになっていた。前は、それほど興味がなかった気がしたのだが。

 だが。

 シドは上を向いたまま微笑む。

 その表情は、少しだけ、魔王のそれと同じ色を含んでいたかもしれない。


「……そうだな」


 ほとんど直感的に、そう呟いていた。

 それでいい。

 良いとか悪いとか。

 倫理とか道徳とか。

 人の目とか。

 そういうものを気にするのは、もうやめだ。

 人に認められるとか、人に貶されるとか、そんなものをいくら追い求めたところで、結局自分には何も返ってこないことに、彼女は気付かせてくれたのだから。


「でも、そいつは捨てといてくれ」


 シドは彼女を見る。

 受け止めたのは、この世で最も可憐な月。いつの間にか、少しだけ優しくなった彼女の微笑みは、見ているだけで善も悪も消え去っていくような、清々しい表情だった。

 その銀の視線を真っ向から跳ね返しながら、内から溢れ出る感情のままに、シドは思いのままに顔を歪めてみせる。


「もしかしたら、いつか、あんたを自分のものにしたくなる日が来るかもしれない。それか、手錠でも首輪でも何でも填めて、動けないあんたを滅茶苦茶にしてやりたくなる日が、来るかもしれないな。だけど、今は気分が乗らないからいいや。それに、もしその気になっても、そんな汚い物は使いたくないね。どうせ汚すなら、あんたの血がいい」


 思いも寄らないほど、淀みなく口が動く。これが自分の本心なのかと勘ぐっているうちに、長い台詞が口から勝手にこぼれて出していった。

 そして、その穢れじみた言葉を受けた、アリシアは──

 表情を一切動かさず、こちらをじっと見つめたまま、珍しく、言葉を選ぶようなゆったりとした口調で答えた。


「……そうね。少しだけ不本意だけど、でも、その『あんた』は嫌いじゃないかも」


 一瞬、しまったと思う。

 無意識のうちに、彼女をまたあんた呼ばわりしていた。

 だけど、彼女はその戸惑いすら包み込むような、それでいて勿体ぶるようなゆったりとした仕草で右手の人差し指を唇に触れさせ、それから、夜の淑女のような、誘うようでいながら上品な女の顔で、妖しく慎ましやかに微笑んでみせた。

 完璧だ。

 タイミングも、表情も。

 完全に見透かされている。

 少なくとも、格が違うとしか思えない。そう認識するしかない。

 この可憐な少女の体の中に、とんでもない魔女が潜んでいる。

 触れられるようで触れられない。

 無垢なようで妖艶。

 白と黒。

 夜と月。

 まさに、宇宙。

 まさに、魔王。

 本当に、とんでもない。

 しかし。

 だからこそ、いい。

 だからこそ、挑戦しがいがある。

 勇士が空を目指すように。

 その先に浮かぶ、月を目指すように。


「特別に貴方にだけは、その呼び方を許してあげる。その代わり、いつか証明してみせて。貴方の作った枷で、私を戒めることができる。貴方の意志ひとつで、私をどんな辱めにも遭わせることができる。私の心と体に、貴方ならあらゆる苦痛を刻むことができる。そんな風に、いつか私の全てを貶めて、支配して、隷従させてみせて。私を本当の意味で、貴方のものにしてみせて」

「ああ……」


 シドは頷く。

 分からない。

 そんなこと、できるのかできないのか。

 そんなこと、したいのかしたくないのか。

 どちらも分からなかったが、シドは頷いていた。

 ただ、そう──

 彼女が、頷いて欲しいんじゃないかと思ったから。

 そうすれば、彼女の心に近付ける気がしたから。

 それだけ。

 ただ、それだけの感情で、頷いていた。

 そうだ。

 これでいい。

 それで十分だ。

 これからは、こうやって、俺は生きていく。

 その達成感を胸に、再び眠りにつく。

 休むべきだと思ったから、休んだ。

 なんとなく、いい夢が見られるような気がする。そんな予感から滲み出た温かい表情を、その顔に浮かべながら。



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