NIGHTMARE~虜囚失患~
ちょうど最後のページを読み終えた瞬間、アリステシアは思い出した。
そうだった。
すっかり忘れていた。
この感覚も珍しい。
ちなみに、その研究書の最終章のタイトルが、『魔性金属と毒素、とりわけ、重金属に関わる相互作用』というものだった。しかしながら、この本を記した研究者はよっぽど集中力がなかったのか、読めば読むほど話が逸れていき、終いには、シルバーロイスと呼ばれる故郷の街で経験した、画家の少女との初恋話に変わってしまっていた。結局、その話がなかなか面白かったので最後まで読んでしまったのだけれど、どこまで読んでも魔性金属にも重金属にも話が戻らなかった。それで、そういえば何の話だったっけとタイトルを確認して、その副産物として、別の記憶まで蘇ったという経緯になる。
椅子からゆったりと立ち上がり、本をすぐ傍の戸棚に戻して、部屋から出る。
廊下を無音で歩きながら、髪を一度だけ払った。
多分、忘れようとしたのだと思う。
あの人間の前でも、一度だけこの仕草をした。
例の扉が見えてくる。
特に躊躇するでもなく、その扉を開けて、中に入る。
血煙。
そして、血生臭い。
「あら、まあ……」
そんな言葉が口をついて出る。
さらに、苦笑。
前後両端にだけ柵がついた簡易ベッド。
その上で両手両足を拘束され、大の字に寝ている男がひとり。
いや。
男だった。
寝ていたという表現が正しい。
既に人じゃない。
生物じゃない。
死骸だ。
その有様を観察すべく、すぐ傍まで近づこうとするが、自分の靴が水溜まりを踏みつけた気がして、思いとどまる。
目を凝らして観察してみる。
部屋全体が、血の海だった。
再び彼を見る。
見開かれたままの瞳。
叫んだままの口。
皮膚全体が裂け、そこから全身の血液が流れ出し、寒気を感じさせるほど血の気が失われているという、惨たらしい有様。
可哀想に。
「ご機嫌如何?」
その場で立ち止まって、一応尋ねてみるが、もちろん返事はない。
ほんの少しだけ、返事があるかもしれないという期待はあったのだけれど。
でも、やっぱり、そんな器じゃなかった。
そういうことかしら。
残念。
本当に残念。
でも。
どういうわけか、微笑んでいた。
そして、自分の手で、唇にそっと触れる。
もし生き残っていたら、その時は、キスくらいさせてあげてもいいと思っていたのに。
それでも生き残っていたら、今度は肌に触れさせてあげてもいい。
それでも平気だったら、肌の奥に。
それでも平気だったら──
どこまでも、いくらでも。
ご褒美が待っていたのにね。
一生。
一生、尽くさせてあげたのに。
死ぬまで、奴隷にしてあげたのに。
実験動物にしてあげたのに。
だけど。
これでも、まあ、幸せだったのかもね。
だって。
あんなに死にたがっていたのだから。
殺してくれ、殺してくれって。
あんなに言っていたんだから。
最初は鬱陶しかったから無視していたんだけど、どうしてそんなに死にたいのか、途中から気になってきてしまって。
だったら、いっそ殺してあげてもいいかなって。
そして、どうせなら、秘薬の試験体にでもなって貰おうと思って。
一石二鳥と言うのかしら。
いい考えじゃない?
貴方だって、誰かの役に立ちたかったわけだし。
もう大丈夫。
貴方のお陰で、次に打たれる人は、もう少し長持ちするんじゃないかしら。
尊い犠牲というやつかも。
いえ。
そうでもない。
別に尊くなんてない。
犠牲ですらない。
ただ。
生きて、死んだ。
それだけのこと。
たったひとつのありふれた命が。
ありふれた死を迎えただけのこと。
最期に話ができて、満足だった?
私も、人間の身の上話を聞くのは嫌いじゃないから、それなりに楽しかった。
でも、貴方の人生は代わり映えしなかったから、いまいちだったけれど。
「じゃあ、さようなら」
アリステシアは、最後に澄んだ笑顔を振りまいてから、その部屋を後にした。
扉を閉める。そうすると血の臭いも弱くなったので、そこで深呼吸した。綺麗な空気が体に満ちて、少しだけ気分が晴れる。
その時点で、部屋の中の死骸のことは、ほとんど記憶から抜け落ちていた。
記憶するのは、何日保ったか、どんな症状が出たかというデータだけ。それも、ほぼ自分の予想通りだったので、敢えて確かめる必要もなかった。そういう意味では、もう少し穏やかな配合でもよかったかもしれない。それこそ、今更言っても仕方のないことだけれど。
さて。
ここの資料はほとんど読み終えたことだし。
そろそろ、別の遺跡に行こう。
そう思って、歩き出そうとした時。
ふと足下が気になって、視線を下ろす。
右足を少し引いてみると、赤い靴跡が床に残っているのが見えた。
「ああ……」
あらら。
汚してしまった。
だけど。
それを見て、アリステシアは微笑む。
この汚れが。
彼の最期の意志ということかしら。
子供が親に泣きつくように。
虫が人にまとわりつくように。
私に構って欲しかった。
そういうことかもね。
だったら。
これくらいは、許してあげようかしら。
せめて、この遺跡にいる間は、彼の血で汚れた靴を履いていてあげる。
彼の血の臭いがついた服を着ておいてあげる。
そうすれば、きっと。
いい夢が見られるかもね。
あの世がどうなっているのか、私は知らないけれど。
寝心地のいいベッドがあるのか知らないけれど。
でも、どうせ見るなら。
いい夢を見て欲しい。
そう願うくらいなら、してあげる。
アリステシアは胸の前で両手を組んで、そっと目を閉じた。きっと、外見だけなら、葬式で祈りを捧げる聖女に見えたかもしれない、と思いながら。
だけど、それも数秒だけ。
目を開ける。
こんなものかしら。
じゃあ、心おきなく。
さようなら。
おやすみなさい。