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魔蝕の血~幻月~  作者: 倉元裕紀
第1章 覚醒
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5



 あっという間に3週間が過ぎた。

 その期間に励んでいたのは、弱っていた体力を戻すための筋力トレーニングだ。

 幻月が打ってくれる秘薬は、本当に強力な物だったらしい。最初は自分の体重さえ支えられない脆弱な肉体だったのに、3日トレーニングしただけで、すぐ立てるようになっていた。1週間で杖が無くても歩けるようになった。2週間でほぼ通常の活動が可能に、3週間目には、ほぼ以前の肉体に戻った。しかも、一切飲み食いせずに。

 食事を作る時間も摂取する時間も必要ないので、ただトレーニングと寝る時間だけに充てることができた。その間、太陽を拝んだことは1秒もなかったが、生きるために働きながら、修行の時間を捻出していた以前を思えば、恵まれた環境とさえ思える。

 その間、幻月の魔王が何をしていたかと言えば、やはり以前と変わらない。秘薬の支給以外に特別なことは一切してこない。たまに思い出したように、こちらのトレーニングを眺めにくるだけ。しかも、それも読書のついでといった様子で。相変わらず何を考えているのかよくわからないが、たまに話しかけてみると返事はあるし、広い場所が欲しいと言ったら適当な部屋まで案内してくれたし、汗を流したいと言ったらシャワー室も使わせてくれた。付かず離れずと言うべきか。これくらいの距離感が適切ということなのだろう。

 そして、そんなある日。

 寝起きの習慣として、ベッドの上で腹筋運動をしていると、いつものように彼女が薬と注射器片手にやってくる。

 ただ、反対側の左手が握っている器具に気付いて、さすがに動きを止めざるを得なかった。

 鎖で繋がれた金属製のリング。一般的な鉄色ではなく、炭で染めたような漆黒だったが、その形状を見れば用途は一目瞭然だった。

 手錠だ。


「……そういう趣味だったのか?」


 いつもの澄まし顔で椅子に腰掛けた彼女に、思わずそう尋ねていた。口にした後、ジョークにしても面白くなかったと若干後悔したが、意外にも、少し考えた彼女は表情ひとつ変えずに、コクリと頷く。


「そうかも」

「……マジ?」

「あ、でも、拘束する方じゃないから。拘束される方。手錠でも縄でも、縛られて自由を奪われるってシチュエーション、案外嫌いじゃない」


 一応想像してみる。こういう言い方も何だが、どんな格好でも彼女なら似合う気がする。それどころか、彼女に手錠をかけた時点で、どんなにその気がない人間でも、危ない趣味に目覚めるのは必至だ。

 しかし、そこで彼女は口元だけで微笑んだ。


「だけど、残念なことがひとつ」

「何だ?」

「私を本当の意味で拘束できるものって、まだこの世に存在しないの」


 聞いた瞬間は違和感のある言葉だった。彼女の華奢な体なら、普通の男でもあっさり拘束できるように見えるからだ。

 だが、彼女の笑みの奥にある暗い本質を感じると、確かにそうかもしれないと思えてくる。

 とにかく、彼女から感じるのは懐の深さだ。

 可憐で無垢な少女に見えても、その奥には千年以上の歳月が培った叡智が控えている。手を伸ばして触れられそうでも、握った拳の中に収めたようでも、次の瞬間には、以前と変わらず空に浮かんでいる。まさに月のように。

 だからこその幻月ということかもしれない。


「で、結局、そんな物持ち込んでどうしたんだ?」


 話を戻すと、彼女はまた小さく頷いた。子供のように可愛らしい仕草だが、もちろん、見とれている場合じゃない。


「そろそろ、身体能力は回復しているでしょう?」

「ああ」

「その時期になったら、この提案をしてあげようと思ってたんだけど」

「提案?」


 彼女は持ってきた薬袋を持ち上げて見せる。以前から使っているのと同じ、銀色の小さな袋だが、彼女の口振りからして、中身が違うのだと推測できる。


「私が前にした秘薬についての説明、覚えてる?」

「ああ」


 聞くまでもなく覚えていた。そもそも、あの程度の知識は、独学でも簡単に修得できる。

 こちらの顔を見つめながら、彼女はいつもよりもずっと真剣な表情だ。


「秘薬にはそれぞれ合う血統があって、違う血統に打っても効果がない。それどころか、強烈な拒絶反応によって死ぬこともある。その原因が何なのかと言えば、もちろん、貴方達の体に流れる魔物の血。つまりは、その主たる成分と言える『魔性金属(メタリオ)』の影響」


 魔性金属。

 それは現代科学において切っても切り離せない存在。秘薬をはじめとする、現代技術の多くを支えているのは、その魔性金属を応用した知識や概念だと言える。


「魔性金属は、魔物や貴方達の体内では、ある意味で細胞のような役目を果たす」


 彼女は視線を逸らさない。本やメモのような物はどこにもないので、全て頭の中にある知識なのだろう。

 その神秘的な銀の視線に見つめられれば、もちろんこちらも目は逸らせなかった。


「赤血球や白血球の同類だと思って貰えばいい。貴方の体の中にも、魔性金属のうちの何種類かが流れているわけ。ただし、貴方の能力を決めているのは、その中で量的に優勢な金属ということになるけれど」

「その辺は、まあ、だいたい分かるが……」

「じゃあ、もし、その優勢な金属を選べるとしたら、どう?」


 そこで彼女は不敵に微笑む。

 しかし、こちらは笑えなかった。

 彼女の提案の意味が、ようやく分かった。

 血統の改変。

 血統を変えてみないかと、そう持ちかけているのだ。


「方法自体は、本当に簡単なもの。適当な魔物の体液から魔性金属を抽出して、貴方の体に流し込むだけ。その量が十分であれば、貴方の血中でその金属が最も優勢になり、能力も変わる」

「いや、だが、それは……」

「そう。貴方本来の金属と、新たな金属の間で駆逐合戦が始まる。要するに、それが拒絶反応ってやつね」


 そうなのだ。

 それはある意味で、人間の抗体の働きに近い。異物が入れば追い出そうとする機能が、その魔性金属にもある。普段はバランスを保っているが、秘薬の過度な注入などを行ってしまうと、その反応が過剰になり、最悪の場合死に至る。

 彼女が言っている方法は、その最悪のケースよりも、さらに過激な手段だった。それを試した人間がいたとしたら、まず間違いなく死亡している。自殺行為だと言っていい。

 だが、彼女は少女のように無邪気に微笑みながら、簡単に言ってのけた。


「失敗したら廃人確定だと思うけれど、やってみない?」

「……正気か?」

「ええ、正気」


 幻月は少しだけ笑みを引っ込める。


「要するに、これは精神的な問題なの。今の貴方の体力なら、金属間の均衡がつくまで耐えることは可能。それは間違いない。あとは、精神が保つかどうか。普通の人間なら、恐らく数秒で精神を手放すことになる。貴方がそれに丸2日近く耐えられるかどうか。それが全て」

「……俺が耐えられるっていう根拠は?」

「ない。私の印象。それだけ」


 これは、さすがと言っていいのだろうか。いくら魔王とはいえ、この自信はどこからくるのだろう。

 しかし、そこで彼女の笑みが完全に消えて、睨みつけるような厳しい視線に変わる。


「もちろん、貴方が嫌と言うなら無理強いはしない。というより、ここで怖じ気付くような精神だったら、そもそも試すだけ無駄でしょうし」

「俺、怖じ気付いてないのか?」

「そう。いい質問ね」


 再び微笑む幻月の魔王。

 可憐な顔立ちの中に、まさに魔王といった邪悪な微笑みをのせて、彼女は言った。


「貴方は全く恐れていない」


 彼女の顔をまっすぐ見返す。

 そうか。

 そうかもしれない。

 確かに、以前ほど、この彼女の雰囲気に気圧されていない自分がいる。しかし、その程度は気休めにもならない激痛なのは間違いない。

 いや──

 ふと気付く。

 もしかしたら、逆だろうか。

 こうして平然と話せることが、もしかしたら凄いことなのかもしれない。

 そんな実感はないのだが──

 幻月が不意に表情を弛める。

 まるで慈母のような、旅人の夜道を遍く照らす月のような、優しい表情。


「どうする?」


 一度目を閉じた。

 息を吐く。

 そう。

 そうだ。

 考えろ。

 考えるしかない。

 考えないと、答えは出ない。

 誰かが答えを与えてくれるわけがない。仮にアドバイスしてくれる人がいても、その誰かが決断の責任を肩代わりしてくれるわけでもない。

 結局、決めるのは自分。

 自分がどうしたいのか。

 すると、驚くほど簡単に、答えが出た。


「やろう」


 沈黙。

 しかし、すぐに幻月が首を傾げる。


「いいの?」

「ああ」


 ベッドに仰向けに寝転がって、灰色の天井を見ながら少し微笑む。


「正直なところ、馬鹿みたいな話だとは思ってる。そんな力づくみたいな方法で、血統が変わるとかさ。ただ……」

「ただ?」

「あんたがやってみたいんだろう?」


 顔を横に向けて、椅子に座ったままの幻月を見る。

 彼女の綺麗な銀の瞳が、驚きで見開かれた。

 可愛らしい。

 そして、綺麗だ。

 本当に。

 本当に月みたいな──

 そんな彼女に、また微笑んでやる。


「あんたは礼なんて要らないって言うだろうけど、俺はやっぱり、あんたに恩義ってやつを感じてる。だから、そのあんたが喜ぶことなら、手伝ってやりたいっていうか……。よく分かんねえけど、多分、これが男の性ってやつなんだろ」


 彼女の返事はなかった。

 その表情は、無愛想な人形のように動かない。

 しばらくその綺麗な顔を見つめてから、再び天井を見た。

 静寂。

 清冽な空気。

 それだけがあった。

 これで死ぬかもしれないという実感はなかった。いや、ここで死んだからといって、だからどうなんだとしか思えなかった。いつだって、人間は死ぬかもしれないのだ。ナイフか毒か、或いは病気か寿命に、人は必ず殺される。ここで彼女の興味に付き合って死ぬことの、どこが不幸だろうか。ここで彼女に背を向けて生きるより、余程いい。

 目を閉じる。

 この世で一番の激痛と言われる、魔性金属の拒絶反応。

 面白い。

 上等だ。

 何せ、俺は月に近付こうとしているのだから。どこかのヌルいお伽話みたいに、ふらっと飛んでいけるわけがない。

 その道中で、とてつもない風圧で吹き飛ばされながら、容赦ない日光に焼かれながら、それでも必死に手を伸ばす。

 だからこそいい。

 だからこそ、目指す価値があるというもの。

 やがて、彼女が椅子から立ち上がる気配がした。

 こちらの右腕をとって、例の手錠をはめる。そのまま頭上に持ち上げさせてきたので、彼女が何のためにそれを用意したのかが分かった。この体をベッドに繋ぎ止めるためだ。つまり、繋いでいないとベッドから転がり落ちてしまうほど、暴れ苦しむということだろう。

 ただ、そこでつい笑ってしまった。


「まさか、ベッドの上でこんな格好をさせられる日が来るなんてな」


 もちろん自分では見えないが、ベッド上に手錠で大の字に拘束されるなんて、なかなかないシチュエーションだ。

 そこでようやく、久し振りな彼女の返事があった。声の高さは普段通りだが、いつもより少しだけ抑え気味だったかもしれない。


「貴方、もしかしてそういう趣味?」

「まさか」

「じゃあ、拘束する方が好き?」


 目を開けると、口元だけ微笑んだ彼女がこちらの顔を横から覗き込んでいる。垂れ下がった前髪の影響か、風呂上がりのような雰囲気を感じて、少しだけ鼓動が速まる。

 少し考えるふりをして、心臓を落ち着ける間をとってから答えた。


「……だな。どちらかと言えば」

「だったら、もし貴方が生き残ったら、好きに縛らせてあげましょうか?」


 悪戯っぽい表情でそう告げるなり、長い黄金の髪を払う。少女のようなあどけない顔から飛び出したとんでもない発言に、今度は容易く度肝を抜かれたが、すぐに笑いながら首を振ってごまかした。


「いや、いいよ。それだと、また借りになっちまうだろ?」

「あら。そんなことないと思うけれど。そちらは命を懸けるわけだし、こちらがそれくらいしても、十分釣り合うんじゃない?」

「それでもやめとく。正直、あんたに縄を掛けるなんて、ぞっとしないね」


 今度は、どういうわけか彼女の笑みが消えた。相変わらず彼女のペースに振り回されっぱなしだ。

 ただ、今度はよく意味が掴めない。

 すると、その表情のまま、彼女は不意に呟く。


「……もし貴方が生き残ったら、アリシアって呼んで貰うから」

「へ?」

「あんたっていう代名詞、あまり品が良くないと思わない?」


 そう告げるなり、拗ねるように顔を背けてから、彼女は離れてしまった。

 もしかしたら、本気で拗ねたのかもしれない。

 いや、しかし──

 魔王って、拗ねるんだろうか。

 謎だ。

 彼女は無言のまま、こちらの左足首をベッドに繋ぎ、次に右足といった順番で、時計回りに拘束作業を進めていく。

 結局、こちらもその間、何も言わずに黙っていた。心臓の鼓動も静かなものだ。

 準備万端というところか。

 どこにも不足はない。

 しかし、彼女が最後に右手首を繋ぎ終えると、またこちらを覗き込んで、尋ねてくる。

 今度は、少し笑っていた。

 可憐な少女の微笑み。

 やっぱり、その表情が一番綺麗だ。


「貴方はどうする?」

「え?」

「もし生き残ったら、血統が変わるわけでしょう? 生まれ変わった貴方は、何て呼ばれたい?」

「ああ……、なるほどな」


 新しい名前か。そういえば、古い名前もあるわけだが、彼女には名乗っていなかった。向こうも聞いてこなかったし、そもそも、ここには自分と彼女しかいなかったので、名前なんて必要なかったからだ。

 しかし、生まれ変わったところで、結局のところ──


「あんたが呼びやすい名前でいいや」


 彼女があからさま不満顔になる。珍しい表情だが、悪くはない。

 もちろん、何故そんな顔をしたのか、すぐに分かった。


「まだ契約期間前だろ? 生き残ったら、ちゃんと約束通り、アリシアって呼ぶって。だけど、今はまだ無効だ」

「もう……」


 また拗ねたように視線を逸らす。なんだか、今日の彼女は本当に珍しい。外見通りの子供みたいだ。

 思えば、そう──

 彼女は最初から、何もかも分かっているように知的で、冷静な大人だった。今の自分があるのも、そんな大人な彼女が、ただ当たり前のことを、当たり前のように諭してくれたお陰に他ならない。

 死にかけて、目覚めたらここにいて。

 その傍に彼女がいて。

 本当に夢みたいな話だ。

 或いは。

 もしかしたら、夢なのだろうか。

 ここで醒めてしまうのか。

 そんな予感が頭を過ぎる。

 いや。

 だからどうした。

 別にいい。

 それでもいい。

 これから先、待っているのが現実だろうが、夢だろうが。

 人間だろうが、魔王だろうが。

 或いは、死であったとしても。

 自分がすべきことは変わらない。

 自分がすべきことが、そんな要素に影響を受けることはない。

 何故なら、自分が自分であることは変わらないのだから。

 そして、それに気付いたのも。

 今目の前にいる、人形のような、月のような、可憐な彼女のお陰。


「分かった」


 諦めたように息を吐いて、彼女は優しく微笑む。目の縁が三日月のような弧を描き、こちらまでも優しくなれそうな表情だった。


「じゃあ、格好いい名前、考えておいてあげるから、楽しみにしてて」

「ああ」


 目を閉じる。

 月が陰るように。

 息を細長く吐き出し、気持ちを落ち着ける。

 後は、待つだけだ。

 待つだけ。

 やがて。

 左腕に鋭い痛みが走る。

 そして──


「いってらっしゃい」













「ああああああああああああああああああ!!」


 薄暗い一室に、その断末魔がいつまでも続いた。



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