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何もしない日が1週間続くと、さすがに限界的なものがあった。ただし、実際に1週間保ったのかは分からない。ただ単に、7回以上眠ったということ。太陽どころか、窓ひとつない部屋なので、昼夜の感覚はとっくの昔に消え失せている。
今日も、彼女はこの部屋唯一の扉を開けて、薬袋と注射器片手にやってくる。相変わらずの黒ずくめなファッション。たまに着けてくるリボン飾りのカチューシャが、違いと言えば違いだ。
しかし、今日は少しだけ別の変化があった。こちらが体を起こしていたのが意外だったのか、少しだけ立ち止まって、目を見開いたのだ。ただ単に、ずっと横たわっていると体が痛いから起きていただけなのだが、表情の変化に乏しい彼女にしては珍しい。そして、その仕草が酷く少女じみていて、可愛らしかった。
「もう起きても平気?」
いつも通りベッド脇の椅子に腰掛け、こちらの右腕をとりながら、彼女は尋ねてくる。その手は水枕のように冷たく心地よい。
最初こそいつものように大人しくしていたが、今日は、答える代わりに質問を返した。
「なあ、質問していいか?」
「もう質問してると思うけど」
「あんた、ここで何してるんだ?」
気のせいか、注射器を刺そうとする彼女の口元が、少しだけ弛んだ気がした。その邪な気配に心臓が跳ねる。
「そんなこと聞いてどうするの?」
「いや、どうするってことはないけど……」
「そうね。ちょっと意地悪だったかしら」
すると、彼女は視線を上げて、こちらをじっと見据えた。
嘲笑していると表現するには可憐すぎる、微笑んでいると表現するには邪気が強すぎる。そんな、心臓と背中に別の震えが同時に立つような、ぞっとする妖しい表情。
やっぱり、何か、違う。
こいつは人間じゃない、魔王だという確信が、また少し大きくなった。
「別に、貴方に何か期待しているわけじゃない」
ところが、彼女はそう言うなり、あっさりと視線を手元に落とす。
そして、慣れた手付きでゆっくりと針を突き刺し、透けた黄色の液体を、血管の中に少しずつ注入していく。
「前にも言ったと思うけど、私は貴方を助けたわけじゃない。たまたま見かけて、面白そうだったから、連れて帰って世話しているだけ。そうね……、人間が怪我をした小鳥を連れて帰るのと、同じ感覚じゃないかしら。あれも、たまたま見かけて可愛かったから連れて帰るだけでしょう? 自分は完全な善意で助けたと信じている人だって、ネズミとか蛇とか蛙とか、そういう外見が好みじゃない生き物だと見捨てていくわけだし」
今までで、一番長い台詞だったかもしれない。少なくとも、意味がはっきり分かった言葉の中では一番長かった。
ただ、それはそれとして、別の問題があった。
「……だったら、俺はどうすればいい?」
結局、一番聞きたいのはそれだ。
元々、大して生きたいわけじゃなかった。この世に未練なんか、これっぽっちもない。あのまま死んでいても、成仏できていた自信があるくらいだ。
だから、勝手に拾われて、助けられて、お礼は何も要らないというのが一番困る。奴隷や下僕にするために助けてやったと宣言された方が、まだ嬉しい。実験の素体にされるとか、魔物の餌にされた方が、余程救いがあった。なのに、役目が何もないとは、どういうことか。
ここでも、用なしか。
要らない人間か。
人間にも散々そう扱われてきたが、まさか魔王にまで面と向かって言われる日が来るとは思わなかった。この調子だと、物言わぬ魔物や動物にも、植物や虫のような連中にさえ、陰でそう囁かれているのかもしれないと思えてくる。こうやって生きているのが、その証拠か。あの時、屍になりかけた自分の体に、蛆虫の1匹もわいてこなかったのはそういうことか。そんな屑みたいな連中にさえ、ありがたられないような存在だったわけだ。
そうか。
そうだろうな。
きっと、そうだ。
驚くほど無抵抗に、思考がその想像を肯定している。
それでいい。
どうせ、自分なんて──
「好きにしたら?」
深淵の底に沈んでいた思考に、突然波紋を立てたのが、流星のような彼女の声だった。
虚ろな瞳で彼女を見やる。既に、彼女は注射器を脇に置いて、いつも通り足を組み、膝の上の本を読みふけっていた。
腹が立った。
好きにしたら?
好きにしたから、どうなるって言うんだ。
好きにしても、どうにもならないから、こんな、こんな──
無神経に降ってきた彼女の声が、心の底に溜まっていた薄汚い泥を巻き上げ、暗い感情をわき上がらせていく。
ところが、彼女の流星は一度きりじゃなかった。
「やってみたいこととか、ないの?」
「……へ?」
さすがに、びっくりした。
今、何と言った?
やってみたいこと?
これじゃあ、まるで、人生相談じゃないか。
人類を散々モルモットにしてきた魔王の口から、まさかそんな言葉が出るとは、夢にも思わなかった。
ところが、彼女は意外にも真面目に聞いていたらしい。珍しく本から視線を上げ、その月光のような銀色の視線を、こちらに向けてくる。
「貴方、そもそもあそこで何をしてたの?」
「え、あ、いや……」
急に聞かれて、否応なく戸惑う。今までこっちのことに何一つ興味がない風だったのに、いったいどうしたというのか。
しかし、彼女の可憐な顔で真っ直ぐ見つめられると、もはや、答えないという選択肢はなかった。
「えっと、まあ……、その、なんて言うか、要するに、追い剥ぎに遭っただけなんだけど」
「それは知ってる。貴方、下着しか穿いてなかったしね」
「う……」
急に気恥ずかしくなって目を逸らす。中身はどうあれ、外見は至上最強とも言われる超絶美少女だ。そんな可憐な子に、身包みを剥がされた直後という、これ以上ないくらいみっともない場面を見られたかと思うと、多少なりともショックだった。
しかし、彼女の方は表情ひとつ変えなかった。
「だけど、あんな年中毒ガスが噴き出してるような危険な場所、命知らずの行商だって避けて通るんじゃない? そんな所に何の用事があって行ってたわけ?」
「あ、いや、俺、魔狩だから」
「魔狩って?」
まさかそんなことも知らんのかいと呆れそうになったが、彼女は一度瞳を瞬かせている間に、勝手に解答にたどり着いたようだった。
「ああ……、魔物を狩る人間のことね。狩った魔物からいろいろ採取して、それを売って生計を立てていたってこと?」
「いや、まあ……、ようやくそうなろうとしてたところで、ああなったんだけどな」
あまり思い出したくもない過去だが、不思議と言葉は淀みなく出て行った。
思えば、誰かに自分の過去を話すことなんて、久しぶりだ。
すると、彼女は口元だけ不敵に上げて、あっさりと告げてきた。
「じゃあ、続き、してみたら?」
「へ?」
「魔狩ってのになりたかったんでしょう? 今からでも、続きをしてみたら?」
それは、ある意味で、非常に魔王らしい言葉だったかもしれない。
きっと、彼女は何でもなれると思っているのだろう。願いさえすれば、どんなことでも成し遂げられると思っている。そんな成功とは全く無縁の、惨めでちっぽけな人間がいるとも知らないで。
不思議だった。
今度は腹も立たない。
それどころか、呆れたを通り越して、顔から表情が消えるのが分かった。さすがに意外だったのか、魔王の銀の瞳が、僅かに見開かれるのが分かる。
「どうかした?」
彼女が尋ねてくる。
どうやら、本気で分からないらしい。
そうか。
そうだろうな。
いい気味だ。
頭の中で勝手にほくそ笑んで、無言のまま、彼女と反対側に寝転がる。そして、何かを見限るようにきつく目蓋を閉じた。
くだらない。
本当にくだらない話をしてしまった。
そういえば、こんな奴と話をしても無駄だと、とっくの昔に分かっていたはずなのに。
馬鹿だ。
本当に馬鹿だった。
もう止めよう。
このまま何もせずに死のう。
ところが、その時。
「ああ……」
少し前に聞いたのと同じ、何かに納得したような幻月の声が聞こえてくる。今回も、何か勝手に理解したらしい。
いや。
今回は、さすがに無理だろう。
こんな奴に分かるわけがない。
俺とこいつじゃ、違いすぎる。
変な話だが、その予想にどこか安堵している自分がいた。いくら魔王だろうと、立ち入ることのできない領域が自分の中にあると、そう思ったのかもしれない。この聖域だけは、誰にも踏み込めない。俺にしか、俺のような落ちこぼれにしか分かるはずがない。そう思うと、不思議と誇らしかった。より正確には、それくらいしか心のより所がなかったのだ。
しかし、彼女は。
いや、この幻月の魔王が、発した言葉からは──
「周りみたいに、万事順調にいかなかったのが不満?」
まるで巨人の足音のように、その聖域すらあっさり揺るがすような危険な気配がした。
いや、間違いない。
こいつなら、何も気にせず土足で踏み込んでくるだろう。指で弾くような容易さで、こちらが後生大事にしているものをあっさり覗き込んで、散々嘲って、暇つぶしのように壊していくに決まってる。
こちらの気も知らないで。
それがこちらの拠り所だと、そんなことも知らないで。
ただでさえ、何も持ってないような人間から、こいつらは、どうして、どうして──
心の奥底に再び沈もうとしていた暗い感情が、再び泥を巻き立てるのが分かる。
何が分かる。
お前に。
お前に。
お前みたいな奴に。
俺の、何が──
「それ以前に、そんな簡単になれるものだと思ってたの?」
その無神経な言葉で、完璧にキレた。
「──うるせえんだよ!」
重い体のどこにそんな力が残っていたのかは分からない。
しかし、体は獅子のように跳ね上がり、幻月の魔王に飛びかかっていた。
僅かに微笑んだ銀の双眸が悠然と待ち受ける。
その表情を見て、返り討ちにされることを本能的に悟った。そもそも、彼女を殺すどころか、傷つけられるような武器はどこにもない。だが、今の自分にとって、そんなことはどうでもいいことだった。
ただ、こいつをブン殴りたい。
この世界一可憐と言われる澄まし顔を、滅茶苦茶にしてやりたい。
それだけ。
それだけ。
伸ばした右腕が彼女の首元に触れる。
椅子が倒れて転がる軽い音と、ガラスが割れるような高い破砕音が響き渡ったのは、その直後のことだった。