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魔蝕の血~幻月~  作者: 倉元裕紀
第1章 覚醒
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 次に目が覚めた時は、だいぶ回復していた。体が鉛のように重いのは相変わらずだが、少なくとも、震えがくるようなことはなかった。

 ただ、それから数日の間、何も食べなかった。何も排泄しなかった。そういった概念自体を思い出せなかったほどだ。そのことにふと気付いた時、そういえば、そういうものもあったなという、他人事のような感想しかわかなかった。生きているという状態から、まだ数歩外にはみ出した状態らしいと、漠然と思った。

 そして、その間、可憐なる魔王がどうしていたかと言えば──

 はっきり言って、気に掛けてくれているという印象は、ほとんどなかった。そもそも、この部屋にいないことが多い。たまに来ては例の秘薬を注射して、しばらく椅子に腰掛けて本を読む。時折短い会話をすることもあるが、返事すらしないことも多い。半ば無視されている状態。研究者と実験動物のような無機質な関係。そういう感じだ。

 もしかしたら、そうなのかもしれないとも思う。

 何かの実験の素体にでもされるのだろうか。

 その為にここに連れてきたのか。

 あり得ない話じゃない。何せ、いくら見た目は可憐な少女でも、中身は魔王だ。人類を飼育交配させ、強い種を作り出しては競って戦わせて愉しんでいたという、忌まわしき種族の王。今はもうその栄華が去ったとはいえ、こうして生きているとなれば、陰でその手の実験を続けていてもおかしくない。

 ただ──

 それは、彼女が本物の魔王だった場合の話だ。

 今更だが、よくよく考えてみれば、その点についても疑問の余地はある。

 つまり、彼女は人間かもしれない。

 幻月の血を受け継いだ、魔性血統の持ち主ならば、あり得ない話じゃない。

 魔王の血統を持つ者は、他の魔物の血統に比べれば格段に少ないが、しかし、稀少というほどでもない。魔王をはじめとする【魔族種】の血統持ちは、覚醒する能力が幅広く、しかも強力でもあるので、いわばエリート的な扱いを受ける。そのため、男性でも女性でも、結婚相手には事欠かない。子孫の血統が有利になるからだ。魔族が基本的に人型で、容姿端麗な者が多いのも周知の事実であるため、人気は非常に高い。よって、元々は希少だったはずの【魔族種】の血統持ちも、次第に広まっていったと言われる。

 だから、幻月の血統を持つ少女がいること自体は、決して珍しいことじゃない。

 しかし──

 彼女ほどの濃い血統となると、また別の問題もある。

 今も、彼女を見つめていた。

 シドが横たわるベッドのすぐ傍で、幻月の映し身は、いつものように椅子に腰掛け、本を読みふけっている。喪装のような漆黒のドレス。しかし、ドレスにしては多少スカートが短く、薄いストッキングに覆われた形のいい膝がはっきり見えている。今まで見た誰の足よりも、ほっそりとした綺麗なラインを描いていた。

 視線を上げる。

 絵画の被写体を思わせるほど、ある種の整然さを醸し出す綺麗な体のライン。細く、可憐で、か弱い印象を抱かせるのは間違いないが、しかし、設計されたように均整のとれた体型からは、ある意味で全く逆の、絶対的な黄金比、理知的で完全な存在という雰囲気も感じる。確かに少女だが、それだけじゃない。どういうわけか、どこか背徳まで香る空気。色もそう。漆黒の服と純白の肌。その二面性が、彼女の纏う神秘的な光を一層際だたせ、手を触れたくなるような、逆に触れてはならないような、独特の距離感を感じさせる。

 さらに上を見る。

 薄く淡い色をした唇。

 同じく慎ましい鼻、眉、そして、顔の輪郭。

 その横を天の川のように流れ落ちる、柔らかな黄金の髪。

 しかし、その中で一際鮮烈な印象を放つのは、長い睫毛が僅かに陰りを与える、銀の瞳。

 彼女の顔が、いや、彼女自体が、ひとつの白い月という印象を否応なく与えてくるが、その中にあっても、彼女のその瞳は、やはり彼女の名に一番相応しいと納得せざるを得ない。

 幻月。

 幻月のアリステシア。

 そう。

 彼女は、似すぎている。

 血統というのは、当然、世代を経るにつれて段々と薄まっていく。それは魔王の血統も例外ではなく、仮に濃い幻月の血統がいたとしても、同程度の血統を見つけて子孫を残さなければ、その血筋も徐々に薄まっていく。よって、珍しい血統であればあるほど、有意な能力者を残すのは難しい。

 目の前の少女ほどとなると、尚更のこと。

 本当に瓜二つ。文献に載っている写真と、表現と、全く同じ。ここまでの血統が、今も人類に残っているとは考えにくい。

 だとしたら、やっぱり本人だろうか。

 それとも、誰か適当な女性でも捕まえて、大昔の忌まわしき方法を使って新たな血統を作り出したのか。

 或いは、まさか、自分で子供をつくったのだろうか。


「なかなか、想像力豊かなんだ」


 悪戯っぽい口調で、幻月は不意に告げた。

 思わず目を見張る。完全に、心が読まれていたとしか思えない、タイミングと内容だった。

 幻月の魔王は悠然と顔を上げ、少しだけ緩めた中途半端な表情で、じっとこちらを見据えた。

 文句なく可憐。

 しかし、底知れず危険。

 咄嗟に目を逸らす。

 見入られてはいけないと、体が反射的に警戒していた。


「そろそろ、頭が満足に働くくらいには元気になった?」


 優しいと表現するには、感情がやや足りない。そんな声。

 一瞬答えに迷う。

 しかし、結局口から出たのは、今までに何度も尋ねてきた問いかけだった。


「……どうして、助けた?」

 

 魔王の答えもいつも通りだった。つまらないという意思表示のつもりか、視線も下へと向いてしまう。


「助けたつもりなんてないけれど。どちらかというと、拾った、の方が正しいんじゃない?」

「何か、実験にでも使う気か?」

「使って欲しいの?」


 問い返されると黙るしかない。昨日も、これと全く同じ会話をした記憶があった。その時は、結局何も会話しないまま、彼女は出て行ってしまった。つまり、それくらい長時間、言うべき事が分からなかったのだ。

 だけど、今は、違った。

 少なくとも、分かっていた。何もすることがないせいで、嫌というほど考えることができたから。そのお陰で、既に理解できていたのだ。

 自分は、実験動物にされたいのか。

 イエスでも、ノーでもない。

 どうでもいい。

 どうでもよかった。

 ただ、願いがあるとしたら、ひとつだけだった。


「早く殺してくれないか?」


 そう。

 それだけ。

 あの時、あの屍の沼で思い知ったことは、もうはっきり思い出せている。

 自分は、生きていても死んでいても、まるで同じ。生きていても、死んでいても、何も残らない。何かしたところで、いいことなんてひとつもない。人生に絶望しかないことを、苦痛しかないことを、既に確認している。

 実験動物。

 上等だった。

 狂人魔王に紙屑みたいに殺される兵士A。実験の失敗作として捨てられるモルモットB。

 それくらいが分相応というもの。

 そして、それでもいいと、今ははっきり思っていた。そこまで諦めていた。

 そうなったら、もう、大した望みなんて抱きようもない。

 唯一願うとすればひとつだけ。

 死にたい。

 早く楽になりたい。

 それだけだ。

 そう思った瞬間、彼女の返事が聞こえた。


「勝手に死んだら?」


 こちらを一瞥すらしないでの、一言。

 動く間もなく悟る。

 そうか。

 そうだろうな。

 こいつが魔王だろうと、人間だろうと、もしかしたら毛虫だって、きっとそう言っただろう。

 俺に何か期待するような奴は、最初からどこにもいない。

 馬鹿だ。

 馬鹿な質問だった。

 いや。

 俺が質問すること自体が、無駄というものか。

 そうか。

 そうだな。

 もう、寝よう。

 ところが、彼女とは反対側に顔を向けて寝ころんだ直後、その言葉の続きが聞こえた。


「少なくとも、貴方が本気で自殺しようと思ったら、誰にも止められないと思う」


 意味が分からなかった。

 よく分からない台詞だ。

 寝よう。

 とにかく、寝よう。

 返事もせずに、目を閉じる。

 しかし、その日はなかなか寝付けなかった。それどころか、ようやく寝付けた後にも、頭の中でぐるぐると彼女の言葉が渦を巻き、目眩にも似た揺れがいつまでも続いていた。乗ったことはないが、まるで貨物船の中にいるみたいだと、なんとなく連想した。

 そのまま、家畜のように売られていけばいい。

 その方がよっぽど幸せだ。

 或いは、船が沈んでしまえばいい。

 その方がよっぽど楽だ。

 だけど、やはり神様にも見放されていたせいだろう。いつも通りというべきか、現実でも、夢の中でも、その願いが叶う気配は一切なかった。



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