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夢を見た。
ただ、はっきりとした何かを見たわけじゃない。いくつか断片のような、背景のようなイメージを頭の中に残していっただけ。それらを繋ぎ合わせようと、重ね合わせようとした途端、水に浮かんだ紙切れのようにボロボロになってしまう。だから、そのふやけた造形をそっと見ているしかできない。そして、後は、そう──、もうどうにもならないと諦めて、この手でグシャグシャに丸めて、捨てるだけだけだ。
それと同じ様な葛藤と、打算を経て、目が覚めた。
見えたのは、灰色の光沢を放つ天井。
聞こえたのは、張りつめた気配。
清冽な匂い。綿を舐めたような乾いた味。
そして、空白の思考の後、周囲を確認すべく顔を動かそうとした途端──
左の頬から、強烈な痛みが駆け抜けた。
さらに、咄嗟に頬を押さえようとしたが、そこで愕然とする。自分の腕が、いや、それどころか体全体が、ほとんど言うことを聞かなかったからだ。
ただ病人のように、老人のように、ボロボロと震えるだけ。
少しだけ身を捩って、痛みを堪えるのが精一杯だった。
「気分はどう?」
その声は、流星のようだった。
たった一言聞いただけで、思い出せなかった夢の光景が、明瞭に再構成されていくのが分かる。
屍の湿原。
汚い泥。
血の味。
そして、幻月の──
「アリス、テ……」
そこまでしか声が出なかった。無事出て行った声も、枯れかけた井戸みたいな音だ。
だけど、顔は動いてくれた。彼女の声が聞こえたのは、身を捩った方向とちょうど反対側。どうやら、自分はベッドの上にいるらしい。ほんの少しだけ弾力のあるマットが、くたりと倒れた顔を受け止めてくれる。
だが、そこでようやく、初めて視界に捉えることができた彼女は──
驚きだ。
本当に驚きだ。
本物。
本物の彼女だ。
人形のように、或いは無垢な少女そのものの、慎ましく可憐な顔。
銀河が降りてきたようなと喩えられる、星々の輝きに匹敵するほど目映い、長く流麗なブロンドの髪。
逆に彼女の肌は、淡く幻想的な白い光に包まれていて、本当に月がそこにあると錯覚できそうなくらい、神秘的で超然的な雰囲気を彼女に与えている。
そして、瞳。
その色はまさに彼女の名に相応しい、向こうが透けて見えそうなほど薄く儚い、銀色。
全体として、月。
月姫とも呼ばれる可憐な風貌。
間違いなかった。
「……本物、か?」
直前になけなしの唾を飲み込んだお陰か、多少はましになった喉が最初に発したのが、その問いかけだった。
幻月の魔王は、椅子に腰掛けてこちらを見下ろしているらしい。口元を少しだけ上げて、勿体ないくらいあっさりと、その答えを返した。高級そうな彼女の黒い服の襟元が、僅かに揺れた気がした。
「それこそ、月と同じ」
「……え?」
「あれが本物かどうか、貴方に確かめる術があるの?」
まさに月でも眺めている時のような、ぼんやりとした思考が、その言葉をゆっくりと昇華していく。しかし、何か結論を出そうという気にはなれなかった。彼女を見ているだけで、それで十分だと思えてしまったからだ。それもやっぱり、月を観賞している時の心境そのものだったのかもしれない。
「あ、そうそう」
幻月は思い出したように瞳を瞬かせると、右手をこちらの頭上の方向に伸ばして、何かを摘み上げる。その何かはすぐに見えて、銀の袋に入った薬品らしき物と、注射器のセットだった。
「これ打っといてあげたから。とりあえず、今日明日で死ぬってことはないんじゃない?」
「何だ? それ……」
「貴方達が秘薬と呼んでいる物。具体的に言えば、ジェム系の魔物の体液を調合して作った栄養剤の一種。普通の栄養剤よりも数十倍強力だけど、特定の血統にしか効果がない。だから、本来なら本人に確かめてから打つのがいいんでしょうけれど、今回はそれも無理そうだったから、勝手に見繕って打たせて貰ったから」
「打った……? あんたが、か?」
「ええ」
つまらない質問だと言わんばかりの態度で、そっけなく彼女は下を向く。ふと気づくと、どうも読書の最中だったらしい。柔らかそうな黒いスカートの上に、手帳みたいな小さな古書を載せた手が置かれていた。
「寝たら?」
視線は本に落としたままで、彼女は言った。
どういうわけか、月が陰った場面が、頭の中に浮かぶ。
「……ああ」
息を吐くように返事をしてから、天井を見て、再び長い溜息をつく。
言うとおりだ。
今は、疲れた。
とにかく、眠ろう。
目を瞑る。
意識が途切れるまで、あっという間だった。