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魔蝕の血~幻月~  作者: 倉元裕紀
プロローグ
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プロローグ



 薄い障気の向こう側に、灰色の丘が見える。

 ただ、その丘に生い茂る植物が本当に灰色なのかというと、それは分からない。その周りの空が、つまり空気が灰色なのかもしれないし、或いは、自分の眼球が、灰色の何かに侵蝕されてしまっているのかもしれない。

 それくらい、世界の全てが、その薄汚い色に染まっている。

 ぬかるんだ湿原のベッドで仰向けになりながら、心底そう思った。

 背中から冷たい泥の感触が伝わってくる。ただ、どこからが自分の体で、どこからが汚い沼地なのか、その境界が曖昧だった。もっとも、それはある意味で、現実を象徴しているのかもしれない。自分が、いや、人類全体が、既にそういう曖昧な存在に成り下がっているのだ。真っ白な奴も、真っ黒な奴でさえ、もういない。いるのは、まさに泥のような色の、中途半端で、安っぽい、腐ったような連中のみ。

 だから、こうやって、生き物はみんな、汚い土の一部に還っていく。

 自分だって、そう。

 今まさに、そう。

 死ぬ。

 俺は、ここで死ぬのだから。

 それにしても、この場所は墓場というフレーズに、余程取り憑かれてしまっているらしい。元々、ここは湿原ではなかった。かつてこの地で猛威を振るい、何千何万という人間の兵士を、笑いながら殺していったとされる魔王が放った死の炎が、ここを不毛の大地にした。通常生物はもちろん、一定の耐性がなければ、魔物ですらここに近付くことができない。そういう文献を、最近読んだばかりだ。

 ここには、何万もの人間の屍と、その何万倍もの数多の生き物の死骸が眠っている。

 その死を糧にして、この障気の沼地ができた。

 そんな場所で、自分もまた、死ぬ。

 ただ、それだけ。

 ある意味で、それも自然の成り行きと言える。顔も名前も知らないような、そんな何百年も前の紙切れみたいな人間達と、顔も名前もないような、ゴミ以下の生き物達と、自分は同列だったというだけのこと。そんなのと同程度の価値しかない命。その事実が今証明されている。彼らと同じ最期を迎えることで。


「馬鹿だ──」


 漏れる掠れた声。

 そうだ。

 本当に馬鹿みたいな人生だった。

 思えば、子供の頃から血統のことで散々馬鹿にされた。特に、同世代の女にはキモいだのウザいだの、散々言われ続けた。親や親戚からも、身の程を弁えて生きろと口をすっぱくして言われた。それら全て、はっきり面と向かって言われたわけだが、裏ではその何万倍も笑い物にされていたに違いない。女や大人ってのは、そういう陰険な生き物だからだ。

 その事に気付いて、そんな奴らを見返してやりたくて、故郷から飛び出した。

 目標は、ただひとつ。

 魔物を狩る者。

 地上最強の存在。

 即ち、魔狩(ハンター)になること。

 足元を見られる方じゃなく、見下す側に回ってやる。自分を笑い物にした連中を見返すには、それしかない。腕っ節はともかくとして、体力と根性には自信があった。それと、絶対に魔狩になってやるという強い気持ちだけは、誰にも負けない。その気持ちさえあれば、いつかはなれるはずだと、あの頃の自分は根拠もなく信じていた。

 ただ、どの街に行っても、血統のことを話せばと馬鹿にされるに決まっていた。だから、とにかく血統のことは隠した。それ自体は、誰でもやってる普通のことだ。ただし、それだと、他の魔狩達から信頼を得るのが難しくなる。血統は即ち能力であって、それを互いに知っていると知らないとでは、連携にも差が出るからだ。

 だから、とにかく、地道に信頼関係を築くしかなかった。

 酒場で働きながら、魔物について勉強し、体を鍛え、金も貯めた。その上で、店にやってくる魔狩達の酌に付き合い、少しずつ顔なじみになって、今どんな役割が必要か、どんな能力を持つ人間なら狩りに同行させて貰えるか、毎日のように聞き込んだ。その情報を元に、自分を変えていったつもりだ。

 ところが、その結果がこれだ。

 やっと仲間にしてくれたと思っていた連中は、この場所に着くなり、3人がかりで笑いながら滅多刺しにしてきた。

 結局、奴らが欲しかったのは、才能も経験もない新人なんかじゃなかった。

 そのひよっこが地道に働いて貯めた金で買った、装備品の方だったのだ。

 そして、今、そのひよっこの有様がこれ。

 武器も金も、着ていた服も、全て奪われた。

 代わりに貰ったのが、腕や、腹や、肩を貫通した傷口と、そこから血液と混じって浸入してくる汚泥だけ。

 あと、強いて言うなら──

 この後やってくるであろう、死。

 そう。

 これが全て。

 これで終わり。

 たったこれだけが、俺の人生。

 馬鹿だ。

 本当に、馬鹿な話だ。

 親の言ったとおり、平穏無事な道を選べばよかったということか。だけど、その結果待っているのは、一生周りの連中に馬鹿にされ続ける、クソみたいな人生だっただろう。しかも、それが嫌で夢を見た結果がこれだ。どちらにしても、用意されていた道に、輝ける瞬間はなかった。

 結局のところ、自分が生きていた意味があるとすれば──

 その絶望を、袋小路な人生を、確認しただけのこと。

 

「馬鹿だよなぁ……」


 もう、その言葉しか出なかった。

 それ以外に、何もない。

 何をしたところでもう遅い。いや、それどころか──

 生まれた時から、もう、無駄な人生というレールが敷かれていたのだから。


「ハ、ハ……」


 何故か、笑っていた。

 厚い雲が覆う灰色の空を、世界を眺めながら、笑っていた。

 もう、それしかない。

 笑うしかない。

 その視界がぼやけても、虚ろな眼窩に熱い何かが溜まっても、それを拭う力さえ、どこにも残っていない。

 ただ笑うだけ。

 泣きながら笑うだけ。

 馬鹿だ。

 そして惨めだ。

 これ以上ないくらい、惨めな人生。

 しかし、もうそんな最期を取り繕う力すら、どこにもない。

 あとは、そう──

 願うだけ。

 それだけ。

 ただし、もし神様が願いを聞き届けてくれるとしても、シドは、もう、この世界に一切の未練はない。

 それどころか、全く逆だ。

 早く殺して欲しい。

 こんな世界、もううんざりだ。

 だから、もし輪廻転生というやつがあっても──

 もう二度と、こんな世界に俺を呼ばないで欲しい。


「──ィツ……」


 何か聞こえた。

 声のようなものが──

 ただ、最初は空耳だろうと思った。もう、聴覚も正常とは言い難い有様だからだ。汚い泥が耳の中に詰まりかけているのかもしれない。脳をかき回すような音だけが、どんどん大きくなっていく。

 だが、ふと気付くと、ぼやけた視界の中に、いつの間にか、月のような白い丸が、ぼんやりと浮かんでいるのが見えた。

 もちろん、本物の月なわけがない。

 月しては近すぎる。そして、その下には首らしきラインが続いている。さらにその下にも、喪装のような真っ黒なシルエットが見える。

 もしかして、葬式の夢でも見てるのか。

 いや。

 こんな場所で死んだ奴に、誰も葬式なんてやってくれない。

 或いは、そう──

 例の追い剥ぎ共が、死体を確かめに来たのか。

 ただ、それにしては、この人影はやたら色白に見える。連中は紛いなりにも魔狩だったわけだから、そんな育ちの良さそうな容姿をした奴らはいなかったはずだ。

 ところが──


「懐かしい顔だわ」


 その流麗な声が克明に耳に飛び込んできた、その瞬間。

 腹部を切り裂くような強烈な痛みが、シドの意識を死の淵から呼び戻した。


「!?──があああぁぁぁっ!」


 泥と血が混じった濁音と共に、胃から逆流してきた血液が口から吐き出される。

 その臭い液体で視界まで赤に染まり、ぶり返した痛みで激しく咳き込むシドに、頭上から、再び声がかかる。


「あら、ごめんなさい。知り合いに似てたものだから、つい、ね。昔なじみが弱っているのを見ると、どうしてか、その傷口を踏んづけてやりたくならない?」

「がぁっ!」


 その言葉の間も、体が激しく痙攣するほど、腹部から裁断されるような痛みの波が、絶え間なく押し寄せてくる。

 僅かだが、腹部を圧迫するような、硬質な感覚が伝わってくる。

 まさか、本当に──

 本当に、俺を、踏んづけているのか。

 何だ、これは。

 何だ、こいつは。

 痛い。

 痛い。

 どうして。

 どうして。

 どうして、俺は。

 まだ生きている。

 何故、生きている。

 何故、殺してくれない。

 誰か。

 早く。

 誰でもいいから──

 しかし、その拷問のような時間は、意外に早く終わりを告げた。本当に、脈絡もなく、突然ぴたりと止んだのだ。

 弱々しく息と血と何かを吐き出していると、また上から例の声が聞こえる。


「貴方、生まれは?」


 何でそんなことを聞く、という質問をする気力なんて、もちろんない。

 そのまま黙っていると、今度は視界がいっぱいになるほど近く、その白い月がこちらをのぞき込んでくる。もちろん、顔立ちなんて分からない。視界が霞んで、もはや輪郭すら危ういくらいだ。ただ、白いということだけは分かる。背景が血に染まっているのに、その色合いだけが浮き上がるようにはっきり見えた。

 ──いや、違う。

 他にも伝わってくるものはあった。

 まず、綺麗。

 なんとなく、綺麗だった。

 可愛いとか、美人とか、そういうんじゃない。

 ただ綺麗。

 それは、そう。

 やっぱり、月。

 本当に、月のようだ。

 夜空に浮かぶ、淡い白色。

 神秘の色。

 白銀の輝き──

 その言葉が、脳裏にぼんやりと浮かんだ瞬間。

 死にかけた全身に、電流が走った気がした。

 まさか。

 まさか。

 いや。

 そんな馬鹿な。

 そんなはずは──

 だけど。

 自分の連想を信じあぐねていると、彼女の白い手が、不意にそっと、頬を優しく撫でてくる。

 そして、詩でも詠むような滑らかな口調で、その言葉が穏やかに告げられた。


「この世には苦痛しかない」


 まるで竪琴の音色のように、その言葉は半死の肉体へと染み入ってくる。

 納得している、或いは、受け入れているという自覚はなかったけれど、少なくとも抵抗する気は起きなかった。

 たた静かに、その言葉を聞くだけだ。


「生きるとは、つまりそういうことです。これから先、例え貴方が生き残ったとしても、一生苦しむことになる。どんなに徳の高い聖職者でも、どんなに悦楽を極めた悪人でも、それは同じこと。彼らはただ、生の苦痛から逃れたいだけ。そのために、神を作り、神を破り、さも自分が特別な境地に立っているように見せているけれど、結局のところ、それは虚勢に過ぎない。現実と同じように、振り返れば自分の影はそこにある。気付けば、そこから深淵の瞳が覗いている。そして、どんなに逃げても、その影は決して離れない。その運命を覆すことは誰にもできない」


 その言葉が本当かどうか、そんなことはどうでもよかった。

 ただ、ひとつだけ、感想を抱いただけだ。


「だけど、もしそれでも生きたいと、貴方が望むなら──」


 月の白い手が、そっと目蓋を閉じさせてくる。

 僅かに見えた、つり上がった彼女の口元を、こちらの心に残して。 

 それだけで、もう、確信していた。

 そう。

 そうだ。

 彼女は、そうだ。

 彼女は、人間じゃない。 


「──望むなら、私の名を」


 知っている。

 彼女の名を、俺は、いや、世界中の人間が、知っている。

 これは歴史の話だ。今から何百年も前、魔族と呼ばれる上位種族達に、人間の9割近くが飼育されていた。端的に言えば、奴隷だった。嘘みたいな規模の話だが、本当の歴史だ。しかし、一般的に考えられるようの、食用とか、労働とか、性的用途の奴隷じゃなかった。一部ではそういう使われ方もしたようだが、少なくとも、主目的はそうじゃなかった。

 闘技場。

 魔族達の間で、人を飼育し、交配させ、より強い個体を生み出し、戦わせてその成果を確かめるという、そういう娯楽が流行していた。それだけの為に、彼らはただ遊興の道具として利用するために、人間を囲っていたのだ。

 ただ、そのうち、彼らはその遊びに飽き始めた。そもそも、人間に大した戦闘能力がないことは、魔族にしてみれば百も承知な事実だ。たったひとりの魔族に、何百何千とかからなければ勝てない。そんな非力な種族だったのだから。

 しかし、彼らはやがてその状況を打開する、まさに悪魔のような技術を発明する。

 それが、人と魔物の交配。

 その交配というのが、具体的にどういう手段を用いられて行われたのか、今でもまだ分かっていない。実際に交配と呼ばれるような作業だったのかすら不明だ。ただ、分かっているのは、その母胎、いや、実験素体となったのは、全て女性だったということだけ。しかも、新たな血統が産まれる度、彼女達は例外なく廃棄処分されたと伝えられている。それが過酷な実験を受けた代償による死だったのか、或いは機密保持のための口封じだったのかは、現在も謎のままだ。

 そして、その結果男が産まれると、剣闘士として死ぬまで戦わされる。

 逆に女が産まれると、新たな血統を作る母胎として使い捨てられる。

 それが、繰り返される。

 何度も。

 何度も。

 何十年、何百年と。

 何万、何億回と。

 まさに、地獄。

 果てしない地獄。

 そんな地獄が、数百年も続いた。

 しかし、それでも、人は忍耐に忍耐を重ねて、遂に反逆した。

 皮肉にも、その力の根源となったのは、彼らが人間の中に植え付けた魔物の血。

 いわゆる魔性血統。

 魔族が目指した通り、その忌まわしき血は、見違えるほど人間の戦闘能力を上げた。多種多様な能力を先天的に持つようになり、発火や帯電による攻撃、酸や毒への耐性など、バリエーションも増えていった。闘技場もさぞ賑わっていたかもしれない。そのお陰と言っていいのか、反逆は破竹の勢いで進み、以前は数千数万という実力差があった魔王ですら、仕留められるようになった。

 かくして、現代。

 全部で49個体存在したとされる魔族の王達は、全て滅んだ。人の手によって、魔性血統の力で、その命は全て摘み取られた。

 人類の時代が再びやってきたのだ。

 だが、一部では、その事実に懐疑的な者もいた。もしかしたら、彼らは滅んだわけじゃなく、どこかで休眠しているだけではないかと言う研究者もいた。もちろん、だからどうしたという話で、多くの者は真面目に取り合わなかった。今更ひょっこり魔王が出てきたところで、後れをとるような人類じゃない。

 自分だって、そう思っていた。

 今日までは。

 今、この瞬間までは。

 だけど。

 この威圧感。

 超越した風格。

 そして、連想させる月。

 間違いない。

 彼女は。

 彼女の、名前は──


「──幻月の……」


 その時。

 左の頬を突き破った何かが、その言葉を強制的に中断させた。

 唇の端のすぐ横を貫いたそれは、口の中の肉を抉り、舌を削ぎ、さらに奥へと貫き、食道の脇に別の穴を空けて、ようやく止まった。もちろん、そこにたどり着くまでの間に、反吐が出るほどの血液が、本物の食道へ流れていく。

 もちろん、痛かった。

 苦しかったし、気持ち悪かった。

 しかし、どういうわけか、落ち着いていた。

 少なくとも、体はそうだ。

 まるで寝ているみたいに、微動だにしない。

 もしかしたら、今度こそ、自分は死んだのか。

 ここまできて、自分は死んだのか。

 せっかく、こんな。

 ここまで──

 嫌だった。

 後悔した。

 どうしてなのか、自分でもよく理解できなかったが。

 ところが、再び地の底に沈みかけた意識を、あの声が、あっさりと浮き上がらせる。


「私が貴方に、新たな生をあげる。そして、私の傍にいる栄光も与えましょう。その代わり、私は貴方の生を見せて貰う。貴方が生きて、苦しむ様を見せて貰うから」


 嬉しかった。

 どういうわけか、もちろん分からなかったが、自分が喜んでいることが分かった。

 涙が溢れるほどに。


「これは、その契約の証。そして、私から貴方に与える最初の祝福、最初の苦痛、つまり、生の証。そして、これからも──」


 月が陰るように、彼女の声が、次第に遠くなっていく。


「──生きている間、貴方をずっと苦しめ続けてあげるから」


 最後の言葉は、耳の中にこそ届いてはいたが、もはや脳には、その意味を解釈する能力が残っていなかった。

 ただ、その代わり、心の中で、彼女の名前をもう一度だけ呼ぶ。

 49の魔王の中でも、最も顔と名前が知れ渡っていると言われる、幻惑と魅了の支配者。絶対なる可憐さの象徴と言われる、彼女の名前を。

 幻月。

 幻月のアリステシア。



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