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異世界転生パン職人の美味しい開拓記~最高の食パンを焼いたら没落令嬢ともふもふが家族になりました~  作者: 黒崎隼人


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第4話「夜闇にうごめく影と金色の守護者」

 王都の中心部にそびえ立つ、分厚い石壁に囲まれた巨大な商館。

 その最上階にある窓のない部屋には、重苦しく澱んだ空気が満ちていた。

 いくつもの高価な蜜蝋燭が燃え、円卓を囲む商人たちの脂ぎった顔を赤々と照らし出している。

 彼らは皆、王都の食糧流通を長年にわたって支配してきた巨大商業ギルドの重鎮たちだった。


「あの忌々しい食パン商会とやら、ついに南区にまで赤い看板を掲げたそうだ」


 恰幅の良い男が、指にはめた宝石の指輪を卓に打ち付けながら低く唸る。


「たかが小娘と田舎者の職人が始めた小さな店だと、高を括っていたのが間違いだった」

「我々が卸している硬パンの売り上げは、ここ一ヶ月で信じられないほど落ち込んでいる」

「あのふかふかとした異常な柔らかさを持つ白いパンに、王都の民は完全に心を奪われているのだ」

「塩や砂糖、それに薪の供給元に圧力をかけて兵糧攻めにしたはずだろう」

「それが、あのセリアという小娘が、ギルドを通さない独自の流通網をどこからか構築しやがった」


 男たちの声には、計算外の事態に対する明確な焦りと、既得権益を脅かされることへのどす黒い怒りが滲んでいた。


「ならば、根源を断つしかないだろう」


 上座に座る、顔の半分に古い傷跡を持つ男が静かに口を開く。

 その冷酷な響きに、部屋の空気が一段と冷え込んだ。


「あの職人が使っている、異常に品質の良い小麦だ。王都から少し離れた荒地を不法に開拓して、自分の手で育てていると聞いている」

「刈り入れの時期は近い」


 傷跡の男は、卓の上のワイングラスを手に取り、中の赤い液体を揺らした。


「すべて灰にしてしまえば、あの白いパンを焼くことは二度とできない」


 男たちの顔に、卑劣で暗い笑みが広がっていく。

 商売の競争ではなく、暴力による完全な排除。

 それが、長年王都の闇を支配してきたギルドのやり方だった。




 同じ頃、王都から離れた静かな小麦畑。

 夜空には澄み切った星々が瞬き、銀色の冷たい月明かりが大地を青白く照らし出している。

 豊かに実った黄金色の穂が夜風に揺れ、幾重にも重なる波のような音を立てていた。

 トールは畑の脇に建てた小さな小屋の前に座り、静かに夜気を吸い込む。

 肺の奥まで届く冷たい空気の中には、土の豊かな匂いと、植物の青々とした命の香りが満ちていた。

 明日の朝には、またあの小さな店で生地をこね、窯の火と向き合う時間が待っている。

 人々の驚く顔と、美味しいとこぼれる笑顔を思い出すだけで、トールの胸の奥は温かい熱で満たされた。

 足元では、アルルがふさふさの尻尾を丸め、心地よさそうに寝息を立てている。

 豊かな毛並みがトールの足に触れ、そこから伝わる穏やかな体温が夜の寒さを和らげてくれた。


『この平穏な時間が、ずっと続けばいい』


 トールは優しくアルルの頭を撫で、小屋に戻ろうと立ち上がった。

 その瞬間だった。

 アルルの閉じていた黒い瞳が、カッと見開かれる。

 ピンと立った耳が畑の奥の暗がりへと向けられ、全身の筋肉がバネのように引き絞られた。


「グルルルル……」


 アルルの喉の奥から、普段の愛らしい鳴き声とは全く異なる、地を這うような低い唸り声が漏れる。

 それは間違いなく、外敵を威嚇する獣の警告だった。


「どうした、アルル」


 トールの問いかけと同時に、風の向きが変わった。

 小麦の甘い香りをかき消すように、鼻をつく異臭が漂ってくる。

 酷く濁り、焦げたような不快な匂い。

 松脂と粗悪な獣脂を混ぜ合わせたような、鼻の奥にへばりつく悪臭。

 それは明らかに、人の手によって持ち込まれた油の匂いだった。

 トールの視力が、月明かりの下で畑の境界にうごめく複数の黒い影を捉えた。

 黒い外套に身を包んだ男たちが、音を殺して畑に侵入しようとしている。

 彼らの手には、先端に油の染み込んだ布を巻きつけた木の枝が握られていた。

 一人の男が火打ち石を叩き、小さな火花が布に燃え移る。

 赤黒い炎が、静かな夜の空気をチリチリと焦がした。

 男たちの目的は明白だった。

 この畑を、苦労して育て上げた最高の小麦を、すべて焼き払おうとしているのだ。


『させない』


 トールが一歩踏み出そうとした瞬間、横を疾風が駆け抜けた。

 アルルだ。

 もふもふの愛らしい姿はそこにはない。

 全身の毛を逆立て、黄金色の微かな光を帯びた巨獣の姿がそこにあった。

 魔獣としての本来の力を解放したアルルは、瞬きする間もなく男たちの目の前へと跳躍する。

 凄まじい脚力によって蹴り上げられた土塊が、散弾のように男たちを襲う。


「な、なんだこの化け物は」


 男の一人が松明を振り回すが、アルルはそれを軽々と避け、太い前脚で男の胸ぐらをなぎ払った。

 鈍い音が響き、男の体が数メートル後方へと吹き飛ばされる。

 アルルは一切吠えない。

 ただ無言で、圧倒的な速度と力で侵入者たちを蹂躙していく。

 鋭い牙が月明かりに煌めき、黄金の残像が夜の闇を切り裂いた。

 その姿はまさに、畑を守る気高き守護者だった。

 松明を落とし、地を這って逃げようとする男たちの前に、今度はトールが静かに立ち塞がる。

 トールの瞳には怒りではなく、職人としての冷徹な意志が宿っていた。

 彼の指先から微かな光が漏れ、地面に落ちて燃え広がろうとしていた松明の炎を一瞬で凍りつかせる。

 温度を奪う、トールのささやかな生活魔法の応用だった。

 炎は音もなく消え去り、後には冷たい煙だけが残される。


「二度と、僕の麦に近づくな」


 トールの低く静かな声は、夜風に乗って男たちの耳に確かに届いた。

 恐怖に顔を引きつらせた男たちは、互いを押し退けるようにして暗闇の彼方へと逃げ去っていく。

 彼らの足音が完全に聞こえなくなるまで、トールはその場に立ち尽くしていた。

 やがて、アルルの纏っていた黄金の光が消え、元の少し大きめの柴犬のような姿へと戻る。

 トールは膝をつき、息を切らすアルルの体を力強く抱きしめた。


「ありがとう、アルル。君がいなかったら、すべて灰にされていたかもしれない」


 アルルはトールの頬を舐め、安心させるように喉を鳴らす。

 トールは立ち上がり、無事だった黄金の麦畑を見渡した。

 ギルドの悪意は、ついに直接的な暴力となって牙を剥いてきた。

 しかし、トールの心に恐怖はない。

 あるのは、自分の手で生み出したパンを、そしてそれを待ってくれている人々の笑顔を守り抜くという、揺るぎない決意だけだった。

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