第3話「広がる笑顔と暖簾分け」
食パン商会が開店して一ヶ月が経過した。
裏路地の小さな店は連日夜明け前から長蛇の列ができ、トールがどれほど窯を稼働させても生産が追いつかない事態に陥っていた。
店の裏口では、疲労困憊のトールが木箱に腰掛け、力なくため息をこぼしている。
「これ以上は、僕一人の腕と窯の数じゃ限界です」
トールの足元では、切り落とされた食パンの耳を満足げに頬張るアルルが、幸せそうに尻尾を振っていた。
もふもふの毛並みがトールの足にこすりつけられ、その温もりがわずかな癒やしを与えてくれる。
セリアは分厚い帳簿から顔を上げ、真剣な眼差しでトールを見つめた。
「ええ、分かっているわ。だからこそ、次の段階に進む時が来たのよ」
セリアの指先が、王都の地図に記されたいくつかの印をなぞる。
「私たちが直接パンを焼くのではなく、信頼できる人たちに技術と看板を貸し出すの。暖簾分け、あるいはフランチャイズとでも呼ぶべき仕組みよ」
セリアの提案に、トールは目を見張った。
「他の人に、このパンの焼き方を教えるということですか」
「そうよ。私たちが厳選した最高の小麦と酵母を卸し、あなたは焼き方の指導に専念する。品質の管理は私が徹底的に行うわ。そうすれば、王都中の人に焼きたての食パンを届けることができる」
セリアの声には、貴族の令嬢としての矜持と、経営者としての野心が満ちていた。
トールは自分の両手を見つめる。
彼一人で生み出せる笑顔には限界がある。
しかし、技術を共有すれば、その笑顔は何倍にも膨れ上がるはずだった。
「分かりました。やりましょう」
数日後、食パン商会の厨房には、セリアの厳しい面接を通過した最初の店舗オーナー候補である若い夫婦が立っていた。
「生地の声を聞くんです。膨らみたがっているのか、休ませてほしいのか、指先で感じ取ってください」
トールは夫婦の手に自分の手を重ね、生地をこねる微妙な力加減を伝えていく。
温度管理の魔法が使えない彼らのために、トールは気温と湿度から発酵時間を逆算する緻密な計算式を考案していた。
失敗を繰り返し、何度も焦げたパンの山を築きながらも、夫婦は必死にトールの技術を吸収していく。
「諦めないでください。美味しいパンを届けたいという気持ちがあれば、必ず手は応えてくれます」
トールの励ましを受け、夫婦の顔は次第に職人のそれへと変わっていった。
やがて、夫婦の焼いたパンがトールの合格基準を満たす日が訪れた。
見事な黄金色に焼き上がり、中央からふたつに割ると、甘い蒸気とともに純白の生地が顔を出す。
「お見事です。これなら、どこに出しても恥ずかしくない食パンです」
トールが笑顔で頷くと、夫婦は感動のあまり涙を流した。
こうして、王都の東区に食パン商会のフランチャイズ第一号店が華々しくオープンした。
開店と同時に押し寄せる人波を遠くから見つめながら、セリアは満足げに腕を組む。
「これで、東区の人々も温かい朝食を迎えられるわね」
「はい。でも、まだまだ教えなければならない人がたくさんいますよ」
トールは微笑みながら、次に控えているオーナー候補たちのリストに目を通す。
食パン商会の赤い看板は、瞬く間に王都の各区へと広がりを見せていった。
街のどこを歩いていても、朝になれば甘く香ばしい食パンの匂いが漂ってくる。
人々は硬いパンをスープに浸す生活を卒業し、ふわふわの食パンにバターを塗る喜びを知った。
しかし、その急激な変化を快く思わない者たちがいることを、トールとセリアはまだ知る由もなかった。
王都の中心部にある豪華な商館の奥深くで、既存のパン市場を牛耳る巨大商業ギルドの幹部たちが、食パン商会の赤い看板を忌々しげに睨みつけている。
温かい笑顔と甘い香りの裏側で、冷たい悪意の影が静かに、そして確実に動き始めようとしていた。




