番外編「小さな背中と甘いお節介」
王都の路地裏には、冷たい北風が吹き溜まる日陰の場所がいくつも存在する。
食パン商会の各店舗から漂う甘い香りが街を包み込むようになっても、その恩恵に預かれない者たちは確かにいた。
ある冬の冷え込んだ朝。
本店へ向かう道すがら、アルルが突然足を止めて鼻を鳴らした。
黒く濡れた鼻先を微かに震わせ、狭い路地の奥へと鋭い視線を向ける。
「どうしたんだ、アルル」
トールが声をかけると、アルルは短い鳴き声を上げて路地の暗がりへと歩き出した。
その後を追うと、木箱の陰にうずくまる小さな影があった。
ぼろぼろの薄着に身を包み、膝を抱えて震えている10歳ほどの少年だ。
少年の顔は汚れ、かじかんだ手には泥にまみれた数枚の銅貨が握りしめられている。
「こんなに冷える日に、ここで何をしているの」
背後から追いついたセリアが、ドレスの裾が汚れることも厭わずに少年の目線までひざまずき、優しく声をかける。
少年は怯えたように肩を揺らし、握りしめた銅貨を隠すように胸に押し当てた。
「……パン、買いに来たんだ。でも、このお金じゃ、あの白いパンは買えないって」
少年の掠れた声が、冷たい空気に溶けていく。
話を聞くと、少年は病気で寝たきりの母親と二人暮らしだという。
硬いパンを水でふやかしても喉を通らなくなった母親のために、街で噂になっている柔らかい食パンを食べさせたいと、何日もかけて小銭を拾い集めたらしい。
しかし、集めた銅貨では一番安い端切れのパンすら買うことができず、店の前で途方に暮れていたのだ。
セリアの瞳が微かに揺れ、トールを振り返る。
トールは静かに頷き、少年の冷え切った手を優しく包み込んだ。
「お店の中に入ろう。温かいお茶があるから」
トールの穏やかな声に背中を押され、少年はおずおずと本店の厨房へと足を踏み入れた。
稼働し始めたばかりの石窯から放たれる熱気が、少年の凍えた体をゆっくりと解かしていく。
「君のお母さんに、最高のパンを焼いてあげる」
トールはそう言うと、通常の食パンよりもさらに水分量を増やし、乳の脂肪分を多めに配合した特別な生地を作り始めた。
病気の人でも咀嚼を必要とせず、舌の上で溶けるように喉を通り抜ける極限の柔らかさを追求した配合だ。
少年は目を丸くして、トールの手元を見つめている。
水と粉が混ざり合い、滑らかな生地へと変わっていく過程が、魔法のように見えたのだろう。
アルルが少年の足元に寄り添い、ふさふさの毛並みを擦り付けて冷えた足を温めている。
やがて、窯から芳醇なバターの香りが漏れ出し、厨房の空気を甘く染め上げた。
焼き上がったばかりの四角いパンからは、白い湯気がもうもうと立ち上っている。
トールは分厚く切り出した一枚に、蜂蜜をたっぷりと塗って少年に差し出した。
「これは君の分だ。味見してみて」
少年は震える手でパンを受け取り、そっと口に運ぶ。
次の瞬間、少年の大きな瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
噛む必要すらない柔らかさと、蜂蜜の上品な甘さが、飢えた腹と冷え切った心を芯から温めていく。
「おいしい……こんなにおいしいもの、食べたことない」
少年は声を上げて泣きながら、夢中でパンを頬張った。
セリアがそっと少年の背中を撫で、温かい布で汚れた顔を拭っていく。
「残りのパンは、お母さんに持って帰ってあげて。それから、明日からは裏口に来なさい。パンの耳の形を整える手伝いをしてくれたら、毎日お給料としてパンを渡すわ」
セリアの提案に、少年は顔を上げて力強く頷いた。
握りしめていた泥だらけの銅貨をカウンターに置き、少年は深いお辞儀をしてから、温かい紙袋を抱えて走っていく。
その小さな背中を見送る二人の顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「また、商会に新しい従業員が増えましたね」
トールが優しく言うと、セリアは悪くないという表情で肩をすくめる。
「ただのお節介よ。でも、こういうお節介を焼けるくらいには、私たちは大きくなったのね」
アルルが同意するように一度だけ吠え、厨房には再び小麦の香ばしい匂いが満ちていった。
冷たい王都の冬を温める、ささやかな奇跡の連鎖は、路地裏の隅々にまで確実に広がっていくのだった。




