chapter2
三浦は編集室の椅子に深く腰を沈めて、モニターを睨んでいた。薄暗い部屋にタイムラインの光だけが浮かび上がっている。
夏放送予定の、人気俳優・相原悠真の密着ドキュメンタリー特番。今いちばん勢いのある俳優の密着ということもあって、局内の期待値は高い。
朝ドラ、大河、映画、CM。名を聞かない日はない若手俳優に長時間密着するのだから、数字が取れないはずがない企画だ。
だからこそ、絶対に外せないというプレッシャーがある。三浦は無意識に奥歯を噛みしめた。
この一本に、制作者としての評価や次の仕事の行方がかなりの割合で懸かっている。
タイムラインをスクロールする。
タクシーの中、下北沢の街並み、スタジオの外観。そして、スタジオの受付ロビーでの問題のシーン。
三浦は一度、再生を止めた。
久遠から「このシーンは使うな」と強く釘を刺された場面だ。
許可は取っていない。だから、使えない。使わない。それはテレビマンとしても守らなければならない部分なので、絶対にカットする。
けれど、どうしてもあの久遠という浮世離れした男のことが気になってしまい、試しに再生する。
張り詰めた空気。言葉が交わされる前の、一瞬の沈黙。悠真が背筋を正す、その微妙な間。
完全なる放送事故だ。
もしこれがバラエティー番組だったなら、間違いなく神回になる。
テロップが踊り、スタジオは爆笑し、SNSはお祭り騒ぎ。もしかするとネットミームになるかもしれない。
三浦は一度タイムラインを閉じ、少しだけ逡巡したあと、フォルダを開いた。番組本編とは無関係の、個人用のストレージ。ファイル名を極力無難にして、そのシーンだけをそっと保存する。
お蔵入りだ。表に出ることはない。
けれど、いつか何かの形で使えるかもしれない。そんな予感だけが、妙に確かな手応えとして残っていた。
編集作業を続けながらも、密着取材も引き続き行われている。
悠真はまさに圧倒的だった。撮影、打ち合わせ、移動。現場を変えながらも集中力を切らさず、求められる顔を瞬時に作る。スタッフの期待を裏切らない仕事ぶりだ。
モニター越しに見ている三浦には、わずかな綻びも見えていた。
カメラが回っている間は問題ない。受け答えも動きも完璧だ。けれど、スタッフが散り、誰の視線も届かなくなった瞬間に、肩の力が抜ける。短く息を吐くその顔が、一瞬だけ暗くなる。照明の外で見せる、スイッチが切れたときの表情だった。
目の下には、はっきりとした影が落ちている。メイクでは隠しきれない疲労の跡。
控室のテーブルに並ぶ紙コップは、いつの間にかコーヒーばかりになっていた。
──相当、疲れてる。
三浦はそう確信していた。
それでも予定していた撮影は、奇跡的に少し早く巻いた。
夕方前。今日はもう、帰宅できる。
「今日はここまでで大丈夫です」
そう告げると、悠真はほっとしたように息を吐いた。
タクシーに乗り込み、いつものように後部座席へ。
窓の外はまだ明るい。街は仕事帰りの喧騒にはほど遠く、空にも昼の名残が残っている。
三浦は当然のように、次の行き先を確認する。
「今日は早く帰れますね」
「ですね。いやあ、ここのところ撮ってるシーンがどれも重いのばっかりだったから、すごい達成感。いまならすぐベッドで寝れる」
「おお……」
三浦は思わず声を漏らしかけ、すぐに咳払いで誤魔化した。
「じゃあ、このままご自宅に?」
何気ない確認のようでいて、内心は少しだけ前のめりだった。
人気俳優の自宅。生活感のある部屋。
白を基調にした、余計なもののない空間だろうか。仕事の合間にとりあえず腰を下ろすだけのソファと、壁際に積まれた台本。クローゼットには、衣装と違ってくだけたスタイルの私服が無造作に掛かっていて、床には読みかけの本や雑誌が転がっているかもしれない。
キッチンは使われているのか、いないのか。コンビニの袋がざったに散らばっていたり、ミネラルウォーターやコーヒーのストックがあったり。冷蔵庫の中はきっと食べ物が一切入っていない。自炊はしないと前に言っていたからそれは間違いない。
完璧なスターの顔とは違う、誰にも見せないプライベート空間での表情が撮れたら、番組としてはこれ以上ない一枚になる。
事務所の許可はすでに出ている。条件もクリアしている。演出も、段取りも、頭の中ではもう組めていた。
撮れたら間違いなくおいしいシーンだ。
期待が顔に出ないように、ほんの少しだけ呼吸を整えながら、三浦はカメラの位置を意識的に整える。
「いや」
即答だった。
「このあとは下北沢に向かいます」
三浦は耳を疑った。
「……え?帰らないんですか?」
番組で一番の撮れ高を期待していただけに、三浦は構えていたカメラを落としそうになった。
悠真は窓の外に視線を向けたまま軽く肩をすくめた。
「その前に、ギターの練習したくて」
「ということはこの後、田中さんと約束してるんですか?」
「してないっす」
あまりにもあっさりした答えだった。
「今日は俺が自分で予約しました。完全に一人っす」
三浦は思わず、眉を上げる。
「……完全に、ですか」
「はい」
言い切りだった。
「あの、俺の部屋、防音じゃないんですよ。だからあそこでギター弾くと普通に怒られるんです。前に誰かが同じようなことして注意喚起の手紙が郵便受けに入ってました」
どこか他人事のように言いながら、悠真は肩をすくめる。
「じゃあ、ギターは?」
三浦が問い返すと同時に、カメラがさりげなく動いた。
後部座席の足元。シートの横。トランク側に続く隙間。
念のため、ぐるりと一周。
悠真の荷物はひとつだけ。座席の脇に置かれた、若者に人気のハイブランドのリュック。中身はパンパンではない。台本や私物が少し入っている程度だろう。
ギターケースはどこにも見当たらない。
「持ってないです」
「……え?」
「田中さんが、スタジオあるやつ使っていいって言ってくれてて」
あまりにも自然な口調だった。
「ずいぶんと気合入ってますね」
三浦は軽い調子でそう言った。からかい半分、確認半分。
「そうそう」
悠真は少しだけ身を起こし、妙に勢いよく頷く。
「俺、かなり気合入ってます。だって世界配信っすよ?」
言葉が、ほんの少し早い。
「下手なことできないでしょ。国内だけならまだしも、海外にも流れるわけだし」
必要以上に理屈を重ねるような口調だった。自分に言い聞かせているようにも聞こえる。
三浦はカメラ越しに、その横顔を捉えながら思う。
──気合、ねぇ。
確かにそれは間違っていないだろう。でも。それだけが理由なのかどうか三浦には判断がつかなかった。
悠真は窓の外に視線を逃がしたまま続ける。
「ちゃんとやっとかないと、後で自分が一番後悔するじゃないですか」
それは役者として、あまりにも真っ当な言葉だった。
だから三浦は、それ以上踏み込まない。
タクシーは夕方の光を反射しながら、下北沢へ向かって走り続けた。
タクシーは下北沢で停まった。
「あ、この辺で大丈夫です」
支払いを済ませ、悠真は先に外へ出る。
まだ夕方の光が残っている。駅前の喧騒を少し外れただけで、空気ががらりと変わった。
三浦はカメラを回しながら後を追う。
雑居ビルの前で、悠真は迷いなく足を止めた。ためらいがない。場所を確認する仕草も、スマホを覗く動作もない。
エントランスを抜け、地下へ続く階段へ。その足取りは軽い。
──あれ?ずいぶんと機嫌がいいな。
三浦は、無意識にそう思っていた。
仕事終わりで疲れているはずだ。さっきまで「今ならすぐベッドで寝れる」と言っていた男の歩き方ではない。
階段を下りる背中が、少し弾んで見える。
──ギターが、そんなに楽しかったのか?
ほんの短時間では、コードもろくに押さえられなかったはずだ。
三浦は答えの出ない疑問を胸にしまい込み、カメラを構え直す。
今は、考察より記録が大事だ。地下に近づくにつれ、音が吸われるように静かになっていく。
悠真は、立ち止まることなく階段を下りきった。三浦はその後ろ姿をフレームの中央に捉えながら後を追った。
スタジオの受付ロビーに、男がいた。
前に見た、あの怖い顔の男だ。
今日は黒いハットに、黒いシャツ。前回のだらしないパーカー姿とは違って、どこかきちんとした印象を受ける。
ラフというより、少しだけフォーマル寄りだと、三浦は感じた。
同じ人物のはずなのに、着ているものが違うだけで印象が変わる。相変わらず近寄りがたい気配はあるが、今日は妙に落ち着いて見える。
──幹部クラスだ。
三浦の脳裏に、場違いな例えが浮かぶ。
路地裏の事務所で、無言で座っているヤクザの幹部。怒鳴らなくても、動かなくても、そこにいるだけで場を支配する類の人間。
この男には、そういうすごみがあった。視線を上げなくても、声を出さなくても、空気が張りつめる。
スタジオの受付というより、ここだけ別の世界が切り取られたようだった。
悠真は久遠のことを司会に収めた状態でぴたりと足を止めていた。
カウンターまで、あと数歩なのに。
久遠は人が来たことに気づくと、ちらりとこちらを見た。
ほんの一瞬だけ、視線が交わる。
けれど、何も言わない。すぐに視線が手元に戻る。
カウンターの向こうで、彼が何をしているのかはわからない。
ノートなのか、書類なのか。指先だけが、静かに動いているのが見える。
相変わらず接客態度は悪い。こういうとき、受付スタッフは愛想よく挨拶するなり、予約名をきいたりするものだろうが、久遠にはその姿勢がまったくないのだ。
「……悠真さん?」
三浦が呼びかけて、悠真はようやく現実世界に意識を戻した。
「あっ、すみません」
短くそう言って、頭を下げる。けれど、さっきまでの軽快な足取りはどこへやら、動きが明らかにぎこちない。
一歩、前に出る。
そこで止まる。
少し間を置いて、もう一歩。
動きがちぐはぐだ。
まるで、動作の指示が頭の中で一拍ずつ遅れて届いているみたいだった。
肩の力が抜けきらず、腕もぎこちなく下がったまま。自然に歩くということを忘れてしまったような足運びで、悠真はカウンターへ近づく。
「あ、あの……こんにちは」
「……ん」
久遠は顔も上げずに応じた。
「あの……先ほど電話で予約した、相原です」
「Aスタジオ」
そっけない、乱暴な一言。想像通りのいい方に、三浦は笑いがこみ上げそうになるのをぐっとこらえた。
普通なら、客とスタッフの会話はここで終わる。
言われた通りスタジオへ向かうだけだ。
けれど悠真はその場から動かなかった。
カウンターの前に立ったまま、何か言いたげに口を開き、閉じる。
そして、なぜかサングラスに手をかけて外す。続いて、マスクもとる。
──なんで今?
わざわざ顔を出す必要はないはずだ。
悠真自身も、それに気づいていないようだった。無意識に、素の状態になっている。
「あの……」
言葉を探すように、少しだけ声が落ちる。
久遠の動きがぴたりと止まった。
ゆっくりと、顔が上がる。
初めて真正面から視線が合う。
目が、据わっている。
三浦の背筋を、ぞくりとしたものが走った。久遠の感情が読めない。
このままカウンターの内側からピストルでも取り出して、何事もなかったように撃ってくるんじゃないか、とさえ三浦は思った。
荒唐無稽な想像だとわかっているのに、身体が先に反応する。カメラを持つ手にその感情が伝わり、わずかに揺れる。
ファインダー越しに映る悠真の顔を見て、三浦はさらに息を詰める。
瞳孔が、開ききっている。
照明を反射して、黒目が異様なほど大きい。
瞬きも忘れたように、久遠を見つめたまま微動だにしない。
──これは、なんだ?俺はいったい何を見せられてるんだ?
三浦は自分の中に生まれた感情をうまく言葉にできなかった。
恐怖というほど単純ではない。かといって、ただの緊張とも違う。
仕事柄、役者の顔は嫌というほど見てきた。
演技の集中、役に入る前の静けさ、カメラを意識した作られた視線。
どれとも違う。
今は撮影中とはいえ、芝居のシーンじゃない。
あくまで密着ドキュメントだから、台本も演出もあるわけがない。
悠真はカメラの存在すら忘れている顔だ。
三浦の胸の奥が、じわりとざわつく。撮り手としての勘が、小さく警鐘を鳴らしていた。
見てはいけないものを、見ている気がする。
人が誰かに向けて、本能的に反応してしまう瞬間。それを、偶然フレームに収めてしまったような感覚。
だから、カメラを引くことも、切ることもできなかった。この映像はドキュメンタリー番組内には絶対に使うことはできないが、この映像がなにかしらの決定的瞬間になるかもしれないと三浦は直感的に思っていた。
しばしの沈黙の後、悠真が口を開く。
「あの……久遠さん。今日のお洋服、とっても素敵です。あ、いや、この前のラフな格好も俺はすごく好きなんですけど、こういうのも、なんか雰囲気が違っていいなあって」
言いながら、悠真は自分でも何を言っているのかわからなくなっているようだった。
言葉が少し早く、どこか上滑りしている。
──世間話?今、この空気で?
三浦は思わず喉を鳴らす。
正直、怖い。
この場に立ち会っていること自体が、すでに危険な気がする。
──頼むから……早くAスタジオに行こう。
頭の中で、三浦は何度も念じていた。
受付ロビーという開けた空間のはずなのに、妙に息が詰まる。
壁も天井も低く感じる。逃げ場がない。
久遠が何か言う前に、この場を切り上げて、さっさと地下に入りたい。
それだけなのに、それがやけに遠い。
──ここでドスでも出てきたらどうする。
現実味のない想像が頭をよぎる。冗談のつもりだったはずなのに、背中に冷たいものが走った。
三浦は無意識のうちに、視線をわずかにずらす。
地上へ続く階段。今いる位置から、何歩で辿り着けるか。久遠のカウンターを回り込む必要はあるか。悠真を引っ張って逃げるとしたら、どちらの腕を掴むべきか。
頭の中で、最短ルートを計算し始めている自分に気づいて、さすがに笑えなくなる。
それでも、カメラだけは切らなかった。
もし自分に何かあったら、この映像が決定的な証拠になる。
そう思うと、ファインダーから目を離せない。
逃げたいのに、記録者であることをやめられない。その矛盾が、三浦の手元を震わせていた。
カメラは回り続けている。
静かに張りつめた、取り返しのつかない数秒間を、余すことなく記録している。
ロビーの空調音が、やけに大きく聞こえる。
誰も動かない。誰も言葉を挟まない。
久遠は、しばらく何も言わなかった。悠真の言葉を咀嚼しているのか、それとも単に間を置いているだけなのか、三浦には判断がつかない。
──何かが来る。
三浦が身構えたそのとき、ようやく久遠が反応した。
「……今日、仕事で人に会う用事があった」
低く、淡々とした声だった。
三浦は拍子抜けする。思っていた展開と、まるで違う。
久遠は視線を落としたまま、続ける。
「だから、少しだけちゃんとした格好をしてる」
それだけだった。説明とも言えない、短い補足。
張りつめていたロビーの空気が、微妙に性質を変える。
刺々しさが薄れ、かわりに、触れてはいけない膜のようなものが張られた感覚。
緊張が消えたわけではない。ただ、形を変えただけだ。
悠真もその変化を感じ取ったようだった。
「……そうなんですね」
声が、柔らぐ。そして、返事が返ってきたこと自体が嬉しかったのか、少しだけ目を輝かせる。
「お仕事って……ここ以外にも、されてるんですか?」
問いは、無邪気に近かった。けれど踏み込みすぎた。
久遠の視線が鋭く跳ね上がる。真正面から圧が向けられる。
「ここは、ただの手伝いだ」
低い声は、これ以上はこの話題を広げるつもりはないと一瞬でわかるものだった。
久遠は、悠真ではなく、空間そのものを切り捨てるように続けた。
「もういいだろ。今日は予約が詰まってるから時間の延長はできない。使うなら、早くスタジオに入れ」
過去に触れるな。それ以上、踏み込むな。そう告げる境界線が、はっきり引かれた。
三浦は即座に反応する。
「ほら、そう言ってますし」
できるだけ軽く、場を流すように。
「行きましょう!せっかくのオフなんだから、時間を有効に使わないと!」
カメラを構えながら、悠真の背中を言葉で押す。
そしてそんな三浦の発言に、久遠の動きが一瞬だけ止まった。
顔は上げなかったし、視線も動かない。
オフ、という単語に反応したのか。それとも、せっかくのという言い回しが引っかかったのか。
久遠の肩が上下する。息をひとつ、短く吐いたのがわかった。
それだけだ。振り向きもしないし、何も言わない。
三浦は背中に視線を感じた気がして、ぞくりとする。カメラを構える手に、無意識に力が入った。
残念ながら悠真はそんなわずかな変化に全く気づいていなかった。
三浦は、Aスタジオの隅でカメラを構え続けていた。
悠真は床に座り込み、スマホを譜面台代わりにしている。画面には動画サイトの〈初心者向け・ギター講座〉。
再生、停止、巻き戻し。同じ数秒を何度も繰り返しながら、ぎこちなく指を動かしていた。
音はまだまだへなちょこだ。
弦を押さえる指に迷いがあり、コードチェンジはもたつく。リズムも少し走る。
けれど三浦は思わず息を詰めた。
ギターを抱える姿はやけに絵になる。背筋は伸びすぎず、力は入っていない。肩の力を抜いたまま、自然に楽器を身体の一部のように扱っている。
照明の下、少し俯いた横顔。黒髪が額に落ち、伏せた睫毛の影が頬に落ちる。
まだ何者でもない音なのに、弾いている姿だけは、もうミュージシャンのそれだった。
不器用で、どこか影があって、それでも妙に目を引く。
演奏より先に、画になるタイプだ。
「……顔がよすぎる」
小さく呟いたその瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
プロデューサーの名前がディスプレイに映し出される。
三浦は一度だけ悠真を確認する。イヤホンを片耳だけ外し、真剣な顔で動画とギターを見比べている。今は話しかけても気づかないだろう。
「ちょっと外します」
そう小声で告げて、カメラを下ろすとスタジオを出た。
受付ロビーは相変わらず静かだ。通話に出ながら、壁際に寄る。
「はい、三浦です……え?あ、はい、今ちょうど撮ってまして……」
短いやり取りだった。
編集スケジュールの確認と、例の特番の放送枠の話。悪くない反応だ。むしろ、上はかなり前のめりらしい。
「はい、わかりました。ではまた」
通話を切り、息を吐く。悠真のいるスタジオへ戻るべく一歩、足を踏み出したところで、受付の殺し屋から呼び止められた。
「……おい、あんた」
三浦は反射的に立ち止まる。
カウンターの内側から久遠がこちらを見ていた。
いつの間に顔を上げたのかは、わからない。視線は一直線に三浦を射抜いている。
「少し、いいか」
腹の底に落ちるほどの低い声が聞こえてきて、三浦の思考が、完全に停止する。
逃げ場はない。
──殺される。
三浦の頭の中で、その結論が一瞬で確定する。
ここは地下で人目は少ない。そして、防音完備。
条件が揃いすぎている。
さっきまで冗談半分で考えていた「ドス」の文字が、急に現実味を帯びて迫ってくる。
いや、ドスとは限らない。拳銃かもしれない。もっと静かな方法もある。
心臓が、嫌な速さで跳ねる。
──ああ、これ、ニュースになるやつだ。
〈密着取材中のディレクター、消息不明〉
〈関係者の証言によると、最後に目撃されたのは都内某スタジオ地下〉
番組、放送どころじゃない。自分は編集室にも戻れない。
──こんなときにカメラを持ってないの、致命的じゃないか?
さっきまで「証拠になる」と信じていたものは、今この瞬間、手元にない。
映像は残らない。音声もない。完全犯罪だ。
三浦は喉が鳴るのを必死に抑えながら、ようやく口を開いた。
「……は、はい」
声が明らかに裏返る。自分でも驚くほど、素直な返事だった。
逃げる、という選択肢は最初から脳内に存在しない。足は鉛のように重い。
久遠はそれ以上何も言わず、ただ顎で示す。
来い。言葉にしなくても、そう言っているようだった。
三浦は一歩、また一歩とカウンターに近づく。心の中で、必死に言い訳を並べ立てる。
──使ってません。
──放送しません。
──勝手に撮ったのは認めます。
──本当にすみません。
どれが正解なのかわからない。
久遠は、そんな三浦の内心など意に介さず、低い声で言った。
「……さっきの」
来た。
三浦は覚悟を決める。
目を閉じなかった自分を、少しだけ褒めてやりたい。
「さっきの、オフって言葉……」
久遠は視線を上げないまま、続ける。
「あの若いの。今日は、休日なのか」
「……え?」
思わず間の抜けた声が出る。
「さっき、あんたが言ってただろ。せっかくのオフって」
淡々とした口調だった。
三浦は一瞬、言葉を選ぶ。
「ああ……えっと」
頭の中で、さっきのタクシーの会話を素早くなぞる。
「相原さん、今日は朝から撮影の仕事だったんです。ただ、思いのほか早く終わったみたいで。それで、ここに電話して予約を入れたって言ってました」
言い切ると、なぜか少し緊張が走る。
久遠はしばらく黙っていた。
「……仕事の日、ってことか」
独り言のように、低く呟く。
「それ、オフじゃねえな」
三浦は、その言葉の意味を測りかねて黙っている。
「早く終わっただけで、一日が丸ごと休みになるわけじゃない」
久遠はカウンターの向こうでノートを開くと、ようやくペンを動かした。カリ、と乾いた音がロビーに響く。
「あいつは、そういうの区別しない顔してるな」
責める調子ではなかった。むしろ、妙に静かで、少しだけ疲れた声音だった。
三浦は、その横顔を見ながら、背中に残っていた緊張が、少しずつ形を変えていくのを感じる。
──殺されるわけじゃなさそうだ。いや、まだ油断はできないけど。
久遠はペンを走らせたまま静かに続けた。
「相当忙しそうだが……休めているのか」
独り言のようでいて、問いだった。
「若くて体力があるからって、無理は続かねえ。そういうのは、ある日急に来る。昨日まで動いてたのに、ってな」
ペン先が、そこで止まる。
「練習するのはいい。だが、無理はさせるべきじゃない」
三浦は一瞬、言葉を失った。
──あれ?これ、もしかして。
「……相原さんのこと、心配してます?」
探るというより、確かめる調子で口にする。
久遠はぴたりと動きを止めたまま、しばらく何も言わなかった。
それから、わずかに鼻で息を鳴らす。
「老人の戯言だ」
短く、切り捨てるように言う。
「老害が、若いのに向かってうるさく野次を飛ばしてるだけだ」
三浦は、その言葉をそのまま受け取らなかった。これは否定ではない。
「……わかりました」
そう言って、小さく頷く。
「本人には、伝えておきます」
久遠はそれに答えなかった。
もう一度ペンを動かし、ノートに視線を落とす。
それ以上、この話題を続けるつもりはないという態度だった。
三浦は一歩下がり、ロビーを後にする。
スタジオへ戻る途中、三浦は思う。
あの受付の男は、相原悠真のことを本気で心配している。
それは、番組としてどう映るかという目線でもなければ、今どれだけ注目を集めている存在かという計算でもなかった。ましてや、才能や肩書きを値踏みするような関心ではない。
若い男が自分の限界を自覚しないまま走り続けていることが気にかかっている。
ただそれだけのこと。
売れている俳優かどうかも、どれほど名前が知られているかも、久遠にとっては大した問題じゃない。
無理をしている。休み方を知らない。
それが見えたから、声をかけただけだ。
それに気づいた瞬間、三浦の中で、久遠という男の輪郭が少しだけ変わった。
怖いだけの存在ではない。だが、決して優しいとも言い切れない。
そして、だからこそ厄介で、悠真はそんな久遠が物珍しく感じているのだろう。
この密着は思っていたよりずっと面倒で、思っていたよりずっと面白いものになるかもしれない。
三浦はそんなことを考えながら、何も知らない顔でギターに向かう悠真のもとへ戻っていった。




