chapter1
「今日はこれから、どこへ?」
そう問われて、男は一瞬だけ視線を上げた。
タクシーの後部座席。昼下がりの東京を流れる車窓の光がフロントガラス越しに柔らかく差し込んでいる。
男はバケットハットを深く被り、サングラスにマスクまでしている。完全装備と言っていい格好だった。
「下北沢です」
少しこもった声で答えると、相原悠真はマスクを顎のあたりまで下げた。
カメラが自然な動きで寄る。露わになった輪郭には無駄がない。整いすぎていないのに、バランスがいい。鼻筋が通り、口元には余計な癖がない。
目元が隠れているのに、雰囲気がすでにイケメンさを物語っていた。
「ちょっと、練習を」
そう言いながら、まるで大したことじゃないと言わんばかりの顔をする
「練習?」
「はい。役作りで」
悠真はそう答えてから指先でサングラスの縁に触れた。
「……あ、ちょっと曇ってきちゃった」
そう言って苦笑するが、その視線はきっちりカメラを捉えている。
無意識ではない。どう映るかを、完全にわかった目線だった。
サングラスを外した途端に、輪郭の美しさがはっきりする。
線は細いのに弱さはなく、整いすぎていないのに、どこを切り取っても破綻がない。鼻と口のバランスが絶妙で、視線を集める理由が一瞬でわかる顔立ちだった。
今回の密着特番を担当するディレクターの三浦は、この瞬間を逃さない。女性ファンが待ち望んでいるであろう画を、無言のままカメラに収めていく。そして悠真自身も、今ここが見せどころであることをよくわかっていた。
「今度、世界配信のドラマがあるんです。バンドマン役で」
それは、特別な発表でも何でもない。現場の誰もが当たり前に受け取っていた。
「朝ドラに大河ドラマ、今度は世界配信ですか」
ディレクターが、思わず笑い混じりにそう返す。悠真もつられたように笑う。そしてサングラスをかけ直し、自然な動きで腕を組んだ。
「オファーは基本、来るもの拒まずなんで」
言い方は軽い。だが、その軽さは余裕の裏返しとも感じられた。
朝の連続ドラマに名を連ね、大河ドラマで存在感を示し、話題作の映画や全国放送のCMにも次々と起用される。いまや相原悠真という名前をメディアで見ない日はない。
その事実をあえて誇示する必要がないほど、彼はすでに芸能界での地位を確立していた。
「仕事の規模が大きいとか小さいとか、そういうのはあんまり考えてなくて。来た順に受けてるだけって感じですね」
まるで昼食の予定でも話すような口調だ。ディレクターが半ば呆れたように笑う。
「それをさらっと言えるのが、もう売れっ子なんですよ」
「そうですかね?」
悠真は肩をすくめる。
本気でそう思っているのか、わかっていてとぼけているのか。その境目が曖昧なのも、彼の魅力である。
車はやがて、下北沢の入り組んだ小道へと入っていく。
「あ、この辺で」
悠真がそう言うと、タクシーはゆっくりと停まった。支払いを済ませ、マスクを整えて外に出る。
スタジオが入っている雑居ビルまでは歩いて数分。昼下がりの下北沢には、音楽やファッションに夢を抱いた若者たちがちらほらと行き交っている。だが、一本裏に入ると空気が変わった。古い建物が肩を寄せ合うように並ぶ裏道。その奥にそびえ立つ雑居ビルの前には、人影はまったくない。
賑やかな街から切り離されたようなその静けさの中で、悠真は立ち止まり、ビルを見上げた。
「……ここで合ってるよな?」
スマホを取り出し、地図アプリで現在地を確認する。その様子を横で見ていたスタッフが思わず声を上げた。
「え?何度か来てる場所じゃないんですか」
「いや、初めてです」
即答だった。
「前に映画で一緒になったバンドマンがいて。その人が、ギター教えてる知り合いを紹介してくれたんですよ」
言いながら、悠真はビルの入口に視線をやる。
「それで俺、さっき言った配信ドラマでギタリスト役やるんですけど」
少しだけ言葉を切って、肩をすくめる。
「いくら音はあとから足すとはいえ、ちょっとでもリアリティ出したいじゃないですか。だから、少しくらい触っといたほうがいいかなって思って。自主練っす」
軽い口調だが、冗談ではないことは誰の目にも明らかだった。
こういうところなのだ、とスタッフは思う。
飄々としていて、何でも器用にこなしているように見えるのに、肝心なところでは決して手を抜かない。
自信満々な態度の裏に、きちんと地道な積み重ねがある。
だから応援したくなるし、ファンも離れない。
悠真はその視線に気づくこともなく、エントランスを抜けていく。スマホの地図アプリを頼りに、階段で地下一階へ。
古めかしいビルの地下はさらに薄暗かった。湿った空気と、わずかに残る機材の匂い。音が吸い込まれるような異様な静けさ。
完全に陽の世界の人間の悠真は、この場所では少しだけ浮いて見えた。
スタジオの受付カウンターには、誰もいなかった。
「あれ?」
悠真が足を止める。スタッフも周囲を見回し、顔を見合わせた。
受付ロビーの壁には、ところ狭しとチラシが貼られている。
どれも見覚えのないバンド名ばかりだ。聞いたことのないロゴ、荒々しいフォント、手書きの文字。それでも、紙の一枚一枚から音楽への熱量だけははっきりと伝わってくる。
悠真は無意識のうちに息を呑んだ。自分がこれまで立ってきた世界とは、まったく別の場所だ。
「……誰もいないですね」
「こういうのって、受付の人に声かけるんだよね?」
悠真はそう言いながら、カウンター越しに中を覗き込む。返事はない。
「予約はしてあるって言われたんだけどな……」
少し困ったように首を傾げ、スタッフのほうを見る。
「どうすればいいんですかね。俺、音楽スタジオとか来たことなくて……」
サングラスにマスクにキャップ。完全防備のはずなのに戸惑いは隠しきれていなかった。
助けを求めるような視線の動きと、ほんの少しだけ甘えたような口調。今のこれは、演技なのか。それとも、素なのか。スタッフにも判断がつかない。
ただひとつ確かなのは、こういう瞬間の無防備さが、また誰かの心を掴んでしまうということだった。
カウンターの奥から、掠れた低い声が飛んでくる。
「おう。悪い悪い。予約してある?」
間の抜けた声ではあるが、長く使い込まれたようなざらつきがあり、かすれているのに芯がある。話し声なのに、どこか音程の余韻を引きずるような不思議な響きだった。
「名前は?」
のそりと姿を現したのはキャップに黒縁メガネの男だった。顔立ち自体は悪くない。だが、全体から漂う空気が、少しだけ世間とずれている。目つきだけは妙に鋭かった。しかし、そこに生気はなく、焦点が合っているようで合っていない。人を射抜くというより、何かをすでに見切ってしまったような目だった。
四十代くらい。やせ型で、どこかだらしない立ち姿。着ているのは、どこかのバンド名らしきロゴが入ったパーカーだ。
悠真は言葉を失った。愛想はない。身なりも整っているとは言い難い。そもそも、接客という概念が希薄そうだ。
普通の商売ではまず見かけない態度に唖然とする。
「あ、えっと……」
悠真は一拍置いてから、思い出すように続ける。
「予約は、たぶん……タナカ、って名前で入ってると思います」
「タナカ?」
男が眉をわずかに動かす。
「はい。今日、ギター教えてもらう予定で」
自分でも少し心許なさそうな言い方になっているのがわかる。
男はふう、と短く息を吐くと、キャップを押し上げるようにしてメガネを外した。
眉間にしわを寄せ、目を細める。
取り出したのは、くたびれた大学ノートだった。表紙はよれ、角は丸まり、何度も開かれた跡がある。
まさかこれで予約管理してるのか?
男はそのノートとにらめっこするように、指でページをめくる。
「……えーっと、タナカ、タナカ……」
スタッフのひとりが、思わず小声で呟いた。
「アナログすぎません?」
その瞬間、悠真が肘で軽く小突く。
「ちょ、聞こえますって」
男は顔を上げずにぽろっと零した。
「兄ちゃんたち、悪いね。おじさん、老眼はじまっててさ」
悪びれた様子はない。むしろ開き直っている。
悠真は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「……いえ、大丈夫です。こちらこそ失礼なことを言ってすみません」
その声に、男はようやく顔を上げる。
「あ、いいっていいって」
くたびれた大学ノートをもう一度ぱらりとめくる。
「あった」
指でとん、と紙を叩いた。
「お。これだな。タナカ……」
少し間を置いて、頷く。
「Aスタジオだから、すぐそこ」
そう言って、親指で奥を示す。
「廊下突き当たって左。音、出てなきゃ入っていいよ」
「ありがとうございます」
悠真がそう告げ、軽く頭を下げて歩き出そうとしたそのときだった。
「──おい」
低く短い声がした。びくり、と二人の足が止まる。
男はメガネ越しに、じっとスタッフのほうを見ていた。視線が外れない。
「……それ」
顎で、カメラを指す。
「回してんの?」
「あ、はい……密着で……」
「密着?取材、許可してないよな。少なくともこのノートには書いてねぇ」
しゃがれた声がぴたりと落ちる。さっきまでの緩さはきれいに消えていた。
「このシーン、使わねえよな?」
どすの利いた低音に、冗談の余地はない。地下の静けさが、急に重く感じられる。
ただの気難しい受付ではないと二人は同時に悟った。
若いころ、この男はもっと鋭く、もっと容赦なく場を制圧する側にいたのだろう。今はすっかり隠しているが、その片鱗だけが不意に顔を出したのだ。
三浦が息を呑むのがわかった。悠真も無意識に背筋を正している。
「あ……えっと……」
一瞬、言葉に詰まる三浦。男カウンターから出て一歩近づいた。
「取材が入るなんて聞いてねえぞ」
低い声が淡々と続く。
「このシーンは絶対に使うなよ。第三者の映り込みには、許可が必要だ」
理屈は正しい。反論の余地はない。
「……おっしゃる通りです」
三浦は即座に頭を下げた。さっきまでの軽口は影も形もない。
「こちらの配慮が足りませんでした。この場面は、絶対に使いません」
男はじっとその様子を見つめ、数秒置いてから視線を外す。
「ならいい」
それだけ言って男はようやく引いてくれた。
完全に叱られた。悠真は黙ったままそのやり取りを見ていた。
最近のテレビの現場では滅多に感じない、本気で怒らせたらまずい空気。
この場所のルールは、自分たちが慣れ親しんだものとはまったく違うもののようだった。
そのまま二人は、そそくさとAスタジオへ向かった。
悠真は扉がきちんと閉まりきったのをしっかりと確認した。そして、堰を切ったように声を上げる。
「……いまの、なに!?あれ、社会人として成立していいんですか!?受付ですよね!?」
三浦は苦笑しながら、小さく肩をすくめた。
「いや……でも、今回は完全にこっちの非なんで」
「それはそうだけど!」
悠真は一歩前に出て、思わず身振りが大きくなる。その勢いのままマスクを外し、サングラスも外し、バケットハットを無造作に脱いだ。
指を差し込むようにして前髪をかき上げる。最近の役作りに合わせて少し伸ばした黒髪が、額から後ろへ流れ落ちた。
ラフな仕草なのに様になる。一昔前のチャラ男を思わせる軽さがありながら、どこか洗練されている。
隠していたものを外した途端、そこにいるのが今を時めく俳優なのだと、改めて思い知らされるような存在感だった。
「でもさ、ありえなくないっすか?あの感じ絶対、まともじゃねえよ」
言い切ったところで、ふっと我に返ったように息を吐く。
スタジオは思っていたよりも手狭だった。壁際に並ぶアンプとスピーカー。使い込まれた機材が、ぎちぎちに詰め込まれている。床には無造作に伸びるシールド。
悠真は丸椅子を見つけると、どかっと腰を下ろした。
背もたれもないそれに、半ばふんぞり返るような姿勢になる。
「……狭っ」
天井も低い。息をすると、音がそのまま壁にぶつかって返ってくる感じがした。
「俺、こういう場所来るの、マジで初めてなんすよ」
悠真はそう言って、きょろきょろと辺りを見回す。
「バンドマンって、こういうとこでいつも練習するんすよね。なんか……新鮮な感じ」
興味深そうにアンプを覗き込み、床のシールドを避けるように足を動かす。
そのとき、がちゃりと扉が開いた。
悠真とスタッフは、同時にそちらを振り返る。空気がわずかに張り詰めた。
入ってきたのは思っていたよりもずっと人のよさそうな男だった。
この男性も先ほどの受付の男と同じく四十代半ばくらいだろうか。背は高くない。気の弱そうな目元に、少し困ったような笑み。両手には、ギターケースが二つ。
あ、この人がタナカだ。なぜかそう直感できた。
「お待たせしてすみません」
男はぺこりと頭を下げる。
「田中です。駐車場、全然空いてなくて……この辺、ぐるぐる回っちゃって」
言い訳めいた言葉と一緒に、小さく笑う。さっき受付で感じた刺々しさとは、まるで別物の空気だった。
「あ、いえ、大丈夫です」
悠真が反射的に答える。
田中はほっとしたように肩の力を抜き、床にギターケースをそっと下ろした。
「……相原さん、ですよね?」
「はい。相原悠真です」
「わあ、本物だ。よろしくお願いします」
もう一度、深く頭を下げる。その様子を見て、悠真は内心で拍子抜けしていた。
前に共演した役者から、田中という人物は「若いころ相当ブイブイ言わせていたバンドマンで、しかもギタリストだ」と聞いていた。
だから、もっと気難しくて、鋭くて、近寄りがたい人物を想像していたのだ。
実際に現れたのは、気弱そうで腰の低い、どこにでもいそうな中年男性だった。
思わず、ほっと胸を撫で下ろす。
——少なくとも、この人は大丈夫そうだ。
むしろ、さっき受付にいた男のほうが、よほどやばい。
あの刺すような視線と、空気を一瞬で凍らせる声を思い出し、悠真は無意識に肩をすくめた。
あの男はまるで狙いを定めたスナイパーか裏稼業の暗殺者だ。どう見ても堅気の人間が出す気配じゃない。
「もしかして」
田中が少し言いにくそうに切り出す。
「さっき、受付で何か言われました?取材がどうこうって……」
その言葉に、三浦が小さく息を呑んだ。
「あ、すみません。自分が、事前にきちんと連絡していなかったのにスタジオでカメラを回し始めてしまって」
言い訳めいた調子ではない。完全に、非を認める声だった。
「これ、相原さんの密着で……地上波のドキュメント番組の収録でして」
そう付け足すと、田中は一度だけ頷いた。
「ええそれは事前に聞いていましたし自分は大丈夫です。あの……さっき受付にいた人、久遠さんっていうんですけど」
その名前に、悠真の眉がわずかに動く。
「久遠さんには、こちらから事情を伝えておきましたので。共用スペースでは撮らない、このスタジオ内だけはOKということで」
三浦と悠真は、思わず顔を見合わせる。
「ありがとうございます!」
二人の声が、きれいに重なった。
田中は、少し照れたように笑った。
「いえいえ。あの人、話せばわかるので」
話せばわかる?
その言い方がなぜか引っかかって、悠真は小さく首を傾げた。
「あの……」
少し間を置いてから、田中に声をかける。
「さっきの受付の人、久遠さんって……田中さんとお知り合いなんですか?」
「あ、うん」
田中は曖昧に頷いた。
「そうですね。昔からよくお世話になった方で……」
そこで言葉を濁す。それ以上は続けなかった。
含みのある言い方だったが、悠真は深くは追及しない。
きっと、あの人も若いころはバンドをやっていて、田中とはその頃からの付き合いなのだろう。長く音楽の世界にいる人間同士の、少し距離感の変わった関係。そんなところだ。
さっきの異様な雰囲気も、その名残みたいなものかもしれない。
悠真はそう結論づけ、特に気に留めることなく気持ちを切り替えた。
そうして、田中が持ってきてくれたギターを使ったレッスンが始まった。
とはいえ、悠真にとってギターに触れるのはほとんど初めてに近い。
構えを教えてもらうところから始まった。田中が見本を見せ、それを真似してギターを持つ。
そっくりそのままやっているはずなのに、ネックの角度も、ストラップの長さもちぐはぐで意外と難しい。
「うーん……」
田中が困ったように笑う。
「もう少し、力を抜いて。ギターは敵じゃないので」
「敵じゃないんすね……」
言いながらも、指はぎこちなく弦の上をさまよう。
鳴った音は、コードとも呼びがたい、間の抜けた響きだった。
張りつめるどころか、腰砕けで、情けないほど頼りない音。
「……一回、休憩にしましょうか」
田中がそう言って、時計を見る。
助かった、と悠真は心の底から思った。
ギターを壁に戻し、肩を回しながらスタジオを出る。重い扉の向こうは相変わらず静かなロビーだった。
そしてカウンターにあの男がいた。
久遠という名前の男は椅子に腰掛け、メガネをかけてノートに何かを書き込んでいる。ペン先だけが、静かな音を立てて動いていた。
悠真が出てきたことに気づくと、男は顔を上げる。
視線が合う。次の瞬間、久遠はゆったりと立ち上がった。まるで、こちらが出てくるのを待っていたかのような動作だった。
久遠は立ち上がると、何も言わずにバックヤードのほうへ入っていった。
数秒後、扉の向こうで何かを探すような物音がする。
やがて戻ってきた久遠の手には、ペットボトルが二本あった。
「……悪かったな」
短くそう言って、一本を悠真に差し出す。
「え?」
思わず声が漏れる。
「えっと、ありがとうございます」
受け取ると指先にひんやりした感触が伝わってきた。
「もう一本は、あのカメラマンに」
久遠が顎で奥を示す。
「あ、はい……ありがとうございます」
悠真はそう答えながら、思わず久遠の顔を見る。
視線は合わない。でも気にしていないわけではなさそうだった。
「最近、常識のない奴が、無許可で配信始めてさ。人の顔も、場所も、平気で映して……それでトラブルになったんだ」
それ以上は語らない。詳細を説明する気もなさそうだった。
悠真はようやく腑に落ちた気がした。さっきの鋭さも、あの物言いも、単なる不機嫌や威圧ではなかったのだ。
「ああ。だから、ああいう感じだったんですね」
久遠はちらりとこちらを見る。
「悪いと思ってる」
ぶっきらぼうだが、嘘ではない声音だった。
「……ちゃんとした仕事だったんだろ」
「いえ」
悠真は首を振る。
「こっちこそ、断りもせずにカメラ回しちゃって……すみませんでした。仕事だからって、何してもいいわけじゃないですよね」
そう言って、ペットボトルを握り直す。
「さっきは正直びっくりしましたけど……ちゃんと理由があっての態度だってわかって安心しました」
久遠は何も言わなかった。目線を落として短く息を吐く。
「……ああ」
それだけだった。
肯定とも否定ともつかない曖昧な返事。
けれど、さっきまで張りつめていた空気は確かに緩んでいた。
「密着が入るってことは相当、有名な芸能人なんだ?」
久遠が何気ない調子で口を開く。探るというより、確認に近い問い方だった。
その一言を聞いて、悠真は言葉に詰まった。有名かどうかと聞かれると途端に返答に困る。
自分では芸能界でいま一番脂がのっている時期だという自覚があったからだ。それをそのまま口にするほどの図太さもなければ、完全に否定できるほど謙虚でもない。
「あ、えっと……」
視線を泳がせて曖昧に笑う。
「一応……朝ドラとか、大河ドラマとか今年いろいろ出てて」
控えめな言い方ではあるが、否定する気もない。
自分がそれなりに知られた存在だという自覚は、ちゃんとある。
だからこそ遠慮しすぎるのも違う気がした。
久遠は、それを聞いて一度だけ頷いた。
「……じゃあ、相当忙しいだろ」
さらりと、次の問いが飛んでくる。
「一クールの間に、ドラマ何本出てる」
あまりに具体的で、悠真は一瞬だけ目を瞬かせた。
「え……」
少し考えてから、正直に答える。
「それは大変だな。休みはあるのか?」
淡々とした問い方だったが、単なる世間話ではないのがわかる声音だった。
悠真は思わず苦笑する。
「一応……あるには、ありますけど」
苦笑しながらそう答えると、久遠は少しだけ間を置いた。
「今日のこれは仕事か?」
短い問いだった。けれど、曖昧に流す余地はなかった。
ギャラが出るかどうか、契約があるかどうか、そういう話ではない。
やらされているものか自分で選んだものかを確かめるような聞き方だった。
悠真は一瞬、言葉に詰まる。それから首を振った。
「……いえ」
今度ははっきりと。
「これは俺が勝手に来たやつです」
久遠は、その答えを聞いて小さく息を吐いた。
「そんな貴重な日に無理して来るもんじゃないだろ」
低く抑えた声だった。責める響きはない。ただ事実を確認するような調子。
言い切りだった。
悠真は一瞬、言葉を失う。
叱られたわけでも、突き放されたわけでもないのに、胸の奥を正面から掴まれた気がした。
「でも……」
反射的に口を開きかけて、言葉が続かない。
休みを返上してでもレッスンを入れれば、「偉いね」「意識高いね」と褒められることばかりだった。それを止められることも、ましてや無理をするなと言われることも、ほとんどなかった。
貴重な日だと、誰かに言われたのは初めてだったから、悠真はどう返してよいのかわからない。
悠真は思わず久遠の顔を見た。
さっきまで、ただ怖いだけの人だと思っていた。
無愛想で、近寄りがたくて、正論を武器に人を切るタイプの大人だと。
けれど今は少し違って見える。
地下の薄暗いロビーで、久遠の横顔だけが妙にくっきりと浮かび上がっていた。余計なものが削ぎ落とされたような輪郭。年を重ねたぶん角は取れているはずなのに、骨格の強さだけは隠しようがない。
若いころは、さぞ目立っただろう。そんな想像が頭をよぎる。鋭い目つきは相変わらずだが、不思議と冷たさはない。むしろ、その奥に、長く人前に立ってきた者特有の静かな余裕が見え隠れしている。
この人、怖いだけじゃないのかも。
視線を外すのが惜しくて、悠真はしばらくその横顔を見つめてしまった。 やがて、スタジオの扉が再び開く音がした。
「休憩、終わりでーす」
田中の声に、空気が現実へと引き戻される。
悠真は一度だけ久遠から視線を外し、ペットボトルの蓋を閉めた。胸の奥に残るざらつきを、無理やり飲み込むような仕草だった。
スタジオに戻ると、三浦がすでにカメラを構えている。ファインダー越しに悠真を見るなり、首を傾げた。
「……あれ?なんか、すごいやる気じゃないですか」
さっきまで自信を喪失していた男とは思えない顔だった。背筋が伸び、ギターを構える手にも、どこか覚悟めいた力が入っている。
「はい」
悠真は、少しだけ間を置いて答える。
「ギター、頑張る理由見つけたっていうか」
「……理由?」
三浦は思わず聞き返すが、悠真はそれ以上は言わない。ただ曖昧に笑って、弦に指を置いた。
三浦はカメラ越しにその横顔を見つめ、一瞬だけ嫌な予感に襲われる。
だが、職業意識がそれを押し流し、何も言わずにRECランプを灯し続ける。
その数メートル先、熱い防音扉の向こう、ロビーの奥では、久遠が何事もなかったように再びノートを開いていた。
ペン先が紙を走る音だけが静かに響いている。
この密着が、どこへ向かい始めているのかは、まだ誰も気づいていなかった。
――― Scene End
売れっ子俳優の密着ドキュメンタリー。
……――のはずだった。
カメラが追いかけたのは、役作りの裏側と無愛想な元バンドマンとの、予想外の距離。
これは仕事として始まった密着が恋を含んでしまう話。
20代年下売れっ子俳優×隠居中の40代伝説的バンドマンの
コメディ寄り、だけど少し大人のBLです。




