それが、君の新しい名だよ
結界にぶつかる小石の音が止んだところで、わたしはゆっくりと顔を上げた。
光が消えた後には、大きく抉れた爆発のあとだけが残っていた。城壁も、石柱も、立っているものは何もない。ただ、わたしの隠れていた城壁を除けば。
伯爵様の姿はおろか、「彼」の姿もどこにもない。
まさか、彼もあの爆発に巻き込まれて・・・?
「やりすぎた。調整が必要だな」
「!?」
すぐ後ろでぼそぼそと話す声が聞こえた。
慌てて後ろを振り返る。
そこには、腕を組んで直立している、黒いフードを羽織った少年が立っていた。
よかった!
「・・・無事、だったんですね」
混乱しているわたしには、ただそれしか言うことができなかった。
「まあね」
わたしの心配などよそに、彼はこともなげにそう答えた。でも、彼のその冷静な態度が、わたしの頭を少しだけ冷やしてくれた。
「伯爵様は、どうなったのですか!?」
「消滅したよ。跡形もなく」
彼はそう言うと、わたしに向かって手をかざす。すると、わたしの周囲を覆っていた、青白く光る膜のようなものが消えた。
「ありがとうございます、守ってくださって」
「どういたしまして」
彼の返答はそっけないものだった。しかし、これまで感じていた威圧感のようなものはなくなっていた。ほんの少し前まで、あれほどの激闘を繰り広げていた人物とは思えない。
再び、彼はわたしに手のひらを向ける。そのまま、しばらく彼は動かなくなった。
「何をして・・・」
「やっぱり」
「え?」
またしても彼は、わたしの質問を遮った。
「君はもう魔法を使えない」
わたしは唖然として彼を見上げる。
「・・・それは、どういうことですか?」
「ゲートが壊れたんだ」
ゲート。
彼はさっきもそう言った。
「何のことですか?」
「何って?」
「ゲートのことです」
すると、彼は考える素振りを見せた。
「そうか、自覚はないんだな」
やっぱり分からない。
でも、ここまで話してきて、わたしは彼と話すコツが少し分かってきた。彼には、回りくどい言い方は通じないのだ。
「・・・わたしは、魔法を使えなくなったのですか?」
「そうだよ」
彼の答えはそっけない。
しかし、初めてまともに会話が通じた気がした。
「二度と魔法が使えないというのは、本当なのでしょうか」
「ゲートが治らなければ」
「その、ゲートというものを治す方法はありますか?」
「ある・・いや、ない」
彼の体が揺れるのが見えた。
すぐに、わたしの質問の仕方がよくないことを悟った。
彼の言葉は断片的ではあったけど、決してそれは拒絶ではない。うまく質問しさえすれば、彼はわたしの欲しい情報を教えてくれる。少なくとも、彼にはその意志があるように感じられた。
でも、そのためには、わたしのほうが適切に質問をする必要がある。
いったい、どう聞いたらいいのか・・・
「・・・それは?」
思案している間に、目の前の石床に青白く光る円形の模様が描かれていた。細かな模様が、整然と配置されている。規則正しく並んだ模様の配列は、神秘的な美しさを感じさせるものがあった。
「転送魔法陣だ」
「転送魔法!?」
転送魔法といえば、伝説の魔法のひとつだ。賢者様が、遠く離れた街の間を移動するときに使ったと言われている。
しかし、あくまで伝説の魔法であって、本当にそんな魔法があるなどとは、今の王国では信じられていない。
「試してみるか?」
彼が、すっとわたしに向かって手を差し出す。ほとんど無意識のうちに、わたしはその手を取っていた。
彼は、おぼつかない足取りのわたしを、ゆっくりと魔法陣の中へと誘った。
「解放」
パチンと指を鳴らす音が聞こえた。
「!?」
一瞬で視界が切り替わる。
「うそ・・・」
わたしのはるか眼下には、月明かりに照らされる男爵家の屋敷・・・わたしの住んでいた家が見えていた。
「・・・」
頭がくらくらした。
今の今まで、伯爵領にいたはずなのに、一瞬で男爵領に戻るなんて。
本当に転送魔法なの?
それとも、あの屋敷が幻覚??
・・・ああ、意味わかんない!!
わたしのこれまでの魔法の常識は、粉々になって吹き飛んでしまった。
「・・・え?」
そのとき、ふわりと体の上に柔らかなものが降ってくるのを感じた。
反射的にそれを掴む。
「あげるよ」
それは、大きな黒い毛皮のマントだった。手触りからだけでも、それがとても上等な毛皮であることは分かる。
「あっ!」
同時に、今の自分が、肌が透ける薄いレースの寝衣しか身につけていないことに気がつくいた。
慌てて両手でマントを掴む。
しかし、彼はわたしを見てはいなかった。彼の視線は、空の彼方にあるようだった。
「日の出まで休めば、歩いて帰れるだろう」
「・・・帰る?」
わたしは空を見上げた。すでに東の空は、うっすらと赤みがかっていた。そう遠くなく夜が明けるのは間違いない。
それに、あの屋敷が幻覚でないのなら、この場所はわたしもよく知っている場所だ。魔獣を倒しにいく時に、よく通る道のひとつだった。
ここから屋敷までの間には、魔獣が出ることはほとんどない。彼の言うように、ここから歩いて帰ることは、わたしにとって造作もないことだ。
「これもあげるよ」
彼はさらに、どこからともなく革の靴を出してきた。わたしは、促されるままにその靴を履く。
「ぴったり・・・!どうして、こんな・・・」
「僕にできるのは、ここまでだ」
またしても彼は、わたしの言葉を遮った。それどころか、そのままこの場を立ち去ろうとしていた。
彼はわたしの横を通り過ぎると、そのまま森の中へと進んでいく。
「待ってください!」
わたしの声に、彼は足をとめた。
「命を助けていただき、ありがとうございました。それに、こんな立派な毛皮や靴まで・・・」
彼は振り向かなかった。
「あなたは命の恩人です。どうか、お礼をさせてください。わたしのできることなら、何でも・・・」
「礼には及ばない。ただの気まぐれだから」
「でも、私の気持ちが収まりません。是非、お礼をさせてください」
すると、彼はゆっくりと振り返った。
黒いフードが、風でふわりとなびく。
「・・・」
彼は答えない。
それは僅かな時間だった。
しかし、わたしは額に汗がにじむのを感じた。
彼はただそこに立っているだけなのに、威圧感が途方もない。伯爵様との戦闘中に感じていた、あの強烈な覇気が復活している。
彼を怒らせるようなことは、言っていないはずなのに・・
ピリピリとした空気が流れる。
耐えきれず、視線を逸らせようとしたその時、彼は口をひらいた。
「じゃあ、今日のことは忘れてくれないかな」
「・・・そんなことで、いいのですか?」
「君は何も見なかった」
「でも・・・」
そこまで言って、わたしは慌てて口を閉じる。
彼の表情は、帽子の鍔に隠れてほとんど見えない。だから、彼が何を考えているのかは全く分からない。でも、ただひとつ、分かっていることがある。
彼に逆らってはいけない。
自分の本能がそう言っている。
「承知しました。今日のことは誰にも申しません。ただ・・・」
わたしは大きく息を吸う。
「・・・許されるのでしたら、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
声を絞り出すようにして、そう言い切った。
「いいよ」
拍子抜けするほどに、彼の言葉は端的なものだった。
「わたしはもう、前のように魔法を使うことはできないのですか?」
わたしは、それだけ言うと目を伏せた。
森の静けさが体に染み入る。自然と握る手に力が入った。
今のわたしは魔法が使えない。それは間違いない。
彼が戦っている間にも、何度か魔法を使ってみようとした。しかし、わずかな氷の破片すら、出現させることができなかった。
彼は、それが魔封じの魔道具のせいだと言った。でも、魔道具を外しても魔法は使えない。
なぜか?
わたしは、どうしてもそれが知りたかった。
「できないね」
「なぜ、それがお分かりになるのでしょうか」
「ゲートが自然には治らないから」
質問と答えがかみ合っていない。
・・・そうか、こういう聞き方ではダメなんだ。
わたしは質問の方法を変えた。
「ゲートというのは、魔法と関係あるものですか?」
「あるよ」
「ゲートが壊れると魔法が使えないのですね?」
「そうだね」
ああ、やっぱり。
少しだけ、彼と会話するコツが分かった気がする。
「治す方法はあるのでしょうか」
「うん」
「本当ですか!それを教えていただくことはできますか!?」
すると、彼は突然わたしに背を向けた。その直後、彼の威圧感が途方もなく増加するのを感じた。
「質問、ひとつじゃないね?」
「も、申し訳ありません!」
・・・しまった!
今度こそ、彼を怒らせた。
彼を本気で怒らせてしまった。
わたしは、全力で頭を地面に擦りつける。
体の震えが止まらない。
確かにわたしは、ひとつ伺いたいと言った。だというのに、つい調子にのっていくつも質問してしまった。きっと、彼はわたしのことを許さない。
彼の影が、遺跡の石畳の上で、わずかに動くのが見えた。
「・・・っ!!」
固く目を閉じる。
額から落ちる汗が、石畳に広がっていく。
彼の威圧感は、あの伯爵様とはくらべものにならない。
伯爵様のそれが「威圧」だったとすれば、彼のそれは「絶望」だ。
圧倒的な力の差。
絶対的な死。
わたしは、全ての終わりを覚悟した。
「治す方法はあるよ」
「・・・え?」
それは、あまりにも予想外の反応だった。
わたしは、思わず顔を上げる。すると、どういうわけか彼の威圧感はすっかり消え去っていた。
頭を押さえつけていた、抗うことのできない強大な力が、一瞬でなくなったように感じた。
わたしは、どうにか気力を取り戻すことができた。
「お、教えてください!治す方法を!」
再び、額を地面に擦りつける。
「わたしには魔法しかないんです!魔法が使えないわたしには、何の価値もありません。その、ゲートというものを治す方法があるのでしたら、どうかわたしに教えてください!」
不意に、涙が溢れだした。
「わたしは貴族として魔法の腕を磨くことに身をささげてきました。魔法の探求は、貴族として生まれた者の義務であり、存在価値そのものです。嫁ぎ先の伯爵家でも、探求は続けて良い・・・むしろ、続けるべきだと言われました。魔法の腕を磨くことは、伯爵家の利益になる。だから、大いに歓迎されるはずだと、お父様もおっしゃっていました。魔法をもっと勉強して、魔法使いと、貴族として・・・いえ、一人の人間として認められたかった」
体が震える。
「わたしの魔法の腕が上がると、お父様はいつも褒めてくださいました。わたしは、それが嬉しくて・・・。でも、それはわたしの思い込みだったんです。わたしは、お父様にとっても、伯爵様にとっても、ただの『魔力』としての価値しかなかったのです。わたしは、わたしは・・・」
「そんなこと、言われてもね・・・」
突き放すように彼がいう。
・・・当然だ。
彼から見たわたしは、虫ケラのようなものだろう。彼はすでにわたしを救ってくれた。これ以上、彼がわたしの話を聞く義理などない。
でも、これは最後のチャンスだ。
ここで引き下がれば、わたしの人生は本当に終わってしまう。
「何でもいたします!どんなことでも、たとえ・・・」
・・・死を命じられたとしても。
わたしはその言葉を飲み込んだ。
ゆがむ視界の中で、彼の首がわずかに動く。
「辛い修行が続くよ?」
「どんな修行にでも耐えて見せます!」
「二度と家に帰れないよ?」
「・・・覚悟の上です」
すると、彼は袖の中から、何かを取り出した。
それは、黒光りする革でできた物だった。銀色の小さなメダルがついているが、それ以外に目立った装飾はない。一見すると、ただの質素なアクセサリーに見える。
しかし、その首輪には紫色の靄がまとわりついていた。そして紫色の靄は、わたしを震撼させるに十分なほどの、おぞましい邪気を放っていたのだ。
そんなものが、ただの装飾品であるはずがない。
「それは・・・」
「隷属の首輪だよ」
彼はそれを、わたしの目の前に差し出した。
「付ける覚悟があるかい?」
コグリ
自分が息を飲む音が聞こえた。
・・・隷属の首輪。
それを付けた者は、主人の命令に逆らうことができない。
逆らおうとすると首輪が閉まって死ぬ。犯罪を侵した者が、罰として奴隷の身分に落とされるときに、その首輪を付けさせられる。
男爵領でも、強盗や放火といった、重い罪を侵した人間が付けさせられる場面を見たことがある。彼らがその後、どうなったのか。耳を覆いたくなるような後日談を、わたしはいくつも聞いていた。
つまり彼は、言葉だけではなく、身をもってわたしの覚悟を示せと言っているのだ。わたしが、彼に身も心も捧げる覚悟があるのかと。
「・・・」
ゆっくりと首輪へと手を伸ばす。
「・・・っ!」
禍々しい靄が、指先から腕へと登ってこようとするのを見て、わたしは反射的に身を引いた。
「おとなしく帰るんだな」
彼が立ち去ろうとする。
「待ってください!」
ふたたび隷属の首輪に腕を伸ばす。そして、今度はそれを拾い上げた。
全身から耐え難い嫌悪感が沸き出す。わたしは、歯を食いしばった。
そのまま首輪を自分の首へと押し当てる。
「あ、あああ、ああああっ!!」
首輪から紫色の靄が吹き出し、全身を包み込んでいく。隷属魔法の禍々しい衝動に体が痙攣する。
「・・・」
突如として、衝動が収まった。
不思議と心が落ち着いている。
自然と、わたしは頭を下げていた。
「君の覚悟、見せてもらったよ」
そのとき初めて、彼は深くかぶっていたフードを跳ね上げた。
若い男の人だった。もしかすると、わたしと年齢はほとんど変わらないかもしれない。
彼の黒い瞳に、月明かりが映り込んでいるのが見えた。
「僕の名は久慈桐寿玄だ」
「・・・クジキリ・シュゲン様」
「君の名は?」
その問いに、わたしは一瞬、口を開きかける。しかし、すぐにあることを思い出した。隷属魔法を受けた者が答えるべき言葉を。
「・・・わたしの名はございません」
「・・・」
彼は答えなかった。
いや、彼は知っているからこそ、わたしの言葉を待っているのだ。
「隷属魔法を受けた者は、ご主人様より新たな名を授かり、その名によってのみ、隷属者に命令を下すことができる。そう聞いております」
わたしは彼を見上げる。
「ご主人様、わたしに新しい名前をお与えください」
風が吹いた。
彼の真っ黒な美しい髪の毛が夜空になびく。
「・・・ふうん、流石だね」
そのとき、彼が少し笑ったように見えた。
「リン」
リン。
「それが、君の新しい名だよ」
「良き名前を、ありがとうございます。ご主人様」
「ご主人様はやめてくれ」
「承知しました。では、シュゲン様」
すると、シュゲン様は一瞬わたしの顔を見つめたが、すぐにくるりと振り返って、森の中へと進み始めた。
わたしは、無言のまま彼の後を追う。
彼が向かう先がどこなのか、わたしには分からない。
しかし、彼のいる場所こそが、わたしのいるべき場所なのだ。