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第2部(全部で3部構成です)

                     第2部



                   第1章  老人


 季節は少しもどってまだ梅雨のころの話。

梅雨の雨が降った夜に、老人は夢を見た。それはとても楽しい夢だったが、老人は目をさますなり

「レストランへ行くぞ」

と言いだした。

 この老人の名は南郷勇一なんごうゆういち。何十もの大企業の持ち主で、日本の代表的な経済団体すべてのトップであり、世界中の大富豪とつながりのあるこの老人はなにごともあくまで自分ひとりで決断した。わがままというわけではなかったが、意思が強く、おしゃべりが大嫌いで自分からすすんで人とつながろうとしなかったので、大実力者のこの老人が心の奥底でいったい何を考えているのかは誰にもわからなかった。

 だから、雨上がりのこの朝も、いつもなら行きもしないレストランに急に行きたいと言いだした理由などもちろん誰にもわからなかった。

 豪華な寝室を出るなり豪華な車で乗りつけた高級レストランで老人はこう注文する。

「世界一おいしい極めつけのデザートをたのむ」

 さすがは超高級レストラン、お金持ちのわがままなど慣れたもので、この注文にもひるむことなく、ほどなく一皿のデザートがうやうやしく運ばれてきた。

 老人はひとくち食べるとこう言った。

「ちがうなあ・・・ちがうんじゃ! こんな味じゃなかった!」

 超高級ラストランは急に大さわぎになった。コック長やら総支配人やらが次々とんできて、涙まじりの声で老人にこううったえた。

「どこの国の大統領も王様も首相も芸術家も映画スターも皆さまこのデザートこそが世界で一番おいしいとおっしゃいますよ。それどころか他の料理に比べてもこれのほうが上だって。もしこれが一番でないのなら何が一番おいしいデザートなんでございますか、お客さま!」

 老人は静かに答える。

「ふうむ、あれは何じゃったかなあ、けさのアレ・・・そうじゃそうじゃ、思い出したわい。トマトじゃな」

「へ? トマト、でございますか?」

「そうさ、虹の浜辺の畑でとれるトマトじゃよ。夜の航海のあとのあの味ときたら、あんなおいしいものは今まで食べたことがないなあ」


 レストラン中が静まりかえりあきれたが、そんなことを気にする老人ではない。平然と車に乗りこみ自宅へ帰りながら、昨晩の夢の冒険を、虹の橋から海におっこちてあやうく遭難しかけた末にほおばったあのトマトの味を、目を細めてなつかしがった。

 老人は東京に住んでいる。強さと豊かさの象徴とでも言わんばかりに立ち並ぶ高層ビル群。その中でもひときわ目立つのっぽビルの最上階。ここがこの老人の自宅だった。そしてここで一日中仕事をしているのだった。

「奥さんが亡くなってもう何年にもなるし、息子さん夫婦や孫たちも遠くに住んでいるし、会長の楽しみといえば仕事だけだしな」

「仕事、仕事、仕事、それが会長さんのすべてなのさ」

「だけど会長さんの仕事なしでは日本の社会はまわらんし、いやそれどころか世界経済だってとどこおっちまうぜ」

 まわりの人々はこの老人のことを会長と呼び、ひたすら頼りにし、またおそれていた。会長は日々日本の行く末をみすえ、ひいては世界の明日をその深い経験と広い視野と冷徹なまでの分析力で考えに考えぬいていらっしゃる、と誰もが信じて疑わなかった。

 ところが当の老人ときたらこの数週間というもの、まったく別のことに気をとられていたのだ。別のこととは「夢」のことだった。

 いつからだろう、雨が降る夜になると老人はいっぷう変わった夢を見るようになっていた。その夢の中で老人はいつも小学生くらいの男の子で、いろいろなピンチに見舞われるのだが、どんな危機になっても頼りになるたくましくてやさしいマモルという名の青年に助けてもらう。夢の中の自分の名前はユー君で、ユー君はいつもその青年のことを「マモルおにいさん」と呼んでいる。ユー君である自分はマモルおにいさんとふたりでありとあらゆる場所に行き、ありとあらゆる痛快で楽しい冒険を繰り広げるのだ。それはもうドキドキワクワクの連続で愉快なこと限りなしだった。だが、しかし、ユー君には納得できないことがひとつだけあった。

 ユー君はいつも何ひとつ知らない無知なこども。

この点だけがどうにも納得できないことだった。

 誰もがおそれうやまう日本経済の帝王として知られる自分ではないか。いくら夢の中とはいえ、どうしてこういつもいつも無知なのか。百歩ゆずってもし何か知らないことが自分にあったとしても、それはきっと知っていたところできびしい実社会では何の役にも立たぬくだらない事がらに決まっている。だって自分は経験と知恵の宝庫と言われている人間なのだから。この知識で数々のきびしい戦いを勝ち抜いてきた人間なのだから。

 ところがどうしたことだろう。夢の中でマモルおにいさんから教わるその何もかもが、ユー君にとっては生まれて初めて聞くような新鮮なことばかりなのだ。いや、夢の中だけでそう感じるんじゃない。夢からさめたあとでじっくり思い返してみるときでさえ「おにいさんの教え」はこの老人にとってとても意義深い有益なものに感じられるのだ。これはどういうことなのか?

 負けずぎらいの老人は夢がさめたあとに必ず一度はこうつぶやいてみる。

「ふん、くだらん。今日もいろいろ言われたが、しょせんは夢の中のたわごと、気にするようなことはないじゃないか」

 こうしていったんは自分のプライドが勝ったように思うのだが、やがてすぐにまたこう思いなおす。

「だが待てよ・・・もしも彼のほうが正しいとしたら、マモルおにいさんの言うことのほうが真理だとしたら?」

 老人の心はいつもすぐにぐらつく。

「いいや、おかしいおかしいおかしい! だってそうじゃろ。もし彼の言うことが世の真理ならば、なぜわしはこの歳になるまでそんな大事なことを知らずにきちまったんじゃ! そんな大事なことを知らんくせにどうしてここまで成功できたんじゃ! どう考えてもおかしいじゃろが!」

 老人はベッドの中で頭をかかえる。

「ああ、この夢を見るたびに、わしは自分がほんとうは何も知らぬ愚か者なんだという気になってくる。が、そんなことはバカげとる! だってそうじゃろ。わしがほんとに無知な子どもなら今までこれほどうまくやってこられたわけがない。現在のわしの地位こそがわしが無知ではないことの確固たる証明ではないか! でも、それでも・・・」

 老人は顔をあげ、なつかしそうに夢の中のあの人を思い出す。

「マモルおにいさん・・・おにいさんの言葉にはどこか特別な響きがあるんだよなあ・・・ なにが特別な響きだ! 自分をごまかすな、南郷勇一よ! おまえはもうわかっとるじゃろ、あの人の言うことこそがほんとうなんだって!」

 老人の目にはうっすらと涙がうかぶ。

「そうじゃよ勇一、自分をいつわる必要がどこにある? 自分に正直になれ、勇気をもて! あの人がいろいろ教えてくれるとき、おまえはいつも心の底から感動しているじゃないか。その言葉を心に刻みこんでいつまでも忘れたくないと願っているじゃないか。夢からさめてもあの人の言葉をずっとかみしめていたくなるじゃないか。たとえあの人の考えがわしのと異なっているとしても、心の底からすてきだと、そう思っているじゃないか」

 老人はいつもここでベッドから出る。

「そうだ、そこが問題なんだ。あの人の考えはわしのとはまるで違っておるし、聞いたその瞬間には反発だってしたくなる。ところが結局わしはその考えに憧れてしまうんじゃ。なぜだ、なぜなんだ? なぜわしは憧れてしまう? 自分が持ってないものだからか? だとしたら、わしはいったい何を求めているというのか? わしは何でも持っておるじゃないか、いつも計画を成功させてきたじゃないか。それともなにか? わしは現状に不満なのか? わしのこの人生は成功なんかではなくて、わしはどこかで道をまちがえてしまったと意識の奥底では考えているというのか? バカな! バカバカしい! 皆がほめたたえるわしの実績が無意味だったなんて、あほらしいにもほどがあるわい、ふん!」

 ここで老人はいつも窓から周囲のビル群を眼下にみおろし、自分の胸いっぱいに自信の空気を吸い込んでみる。

「この景色を見ろ! みんなわしにふれ伏しておる。わしこそ成功者なんじゃ!」

 ところがその自信いっぱいの胸はすぐに風船のようにしぼんでしまう。

「だが待てよ、ほんとうにそう言いきれるのか? いいか、もしも、もしもだよ、あのマモルとかいう青年の言うことこそが人生の真理であるならば、わしの人生は、わしの成功なんて・・・」

 堂々めぐりの問いかけをくりかえしながら老人は窓を見る。すると目の前の景色はどんどんと味気ないものに変わっていく。こんな高いビルのてっぺんにいる自分がこっけいにすら思えてきてしまうのだ。

「おにいさん・・・ああ、マモルおにいさんに会いたいな・・・」。

 夢を見れば見るほど、窓から見えるこの壮大だったはずのながめはどんどんつまらないものに思えていき、それに反して老人の心は少しまた少しとこれまで感じたことのないうるおいに満たされていくようだった。そして自分に起きたこの感覚の変化に老人は異様な興奮をおぼえるのだった。

「夢博物館か、あれはよかったな、ほんとうに」

 この夢からさめたとき、老人の顔は涙でぐっしょりぬれていた。そのときの幸せな感触を老人はよくおぼえていた。

「わしも世界中の美術館を見てきたつもりじゃったが、あの夢博物館ほどふしぎに美しい所はどこにもなかった。いやいや、美しいだけじゃなかったな、悪夢の部屋には腰を抜かしたわい。ほんとに怖かった。あんまりびびって子どものころにみた一番怖い夢を思い出したくらいじゃ、ふふふ」

 あの夢を思い出すと、老人はついほほえんでしまう。

「そうだよ、マモルおにいさんはほんとカッコよかった! ぼくの腕を強引にひっぱって助けてくれて、あんなに頼もしい人はほかにいないんだから、ふふ」

 あれ、今わしは自分のことを「ぼく」なんて言ったか? こいつは愉快だ!と老人は思わず声をたてて笑ってしまう。

 最初は夢の中で自分がいつも無力なガキんちょであることが腹立たしい限りだったが、そのうちにそれがどんどんクセになるというか、自分が子どもであることがだんだん楽しくなってきていた。それにそのほうが、あのマモルおにいさんのカッコよさがぐっと引き立つのだから最高だ。

「はやく次の夢が見たい。次の雨はいつだ? 次の一週間は晴天が続く良い気候だと? ふざけるな、いっそ人工降雨機を積んだ飛行機を大量に飛ばしてやるか!」

 ときにはこんなことも本気で考えたことがあるほど老人は次の夢が待ち遠しかった。

「天気にあらがってもしかたない。そうだ、誰かに夢のことを話して気晴らしにするか」

 こちらの考えのほうは実行してみた老人だが、なぜかしら誰もが変な顔つきをするばかりでまともな返事をしてくれなかった。

「それは何かのなぞなぞですかな? わたしを試してらっしゃるので?」

とけげんそうな顔つきで言う人や、

「そりゃあいい冗談ですなあ、ワッハッハ」

と笑いとばす人、あるいは

「ほうほう、そうですか」

とはじめはまじめに聞くふりをして腹の中では(こいつもとうとうボケが始まったな、しめしめ、今度こそこっちがだましてやるぞ)と考えていそうなニヤニヤ笑いをする人ばかり。真剣に夢の話を聞いてくれる人はひとりも出てこなかった。ただのひとりも!

 もともと無駄口が嫌いな老人だったが、自分の体験談が誰にも相手にされないことでますます無口になってしまい、とうとうひとにまったく心を見せないようになってしまった。

 そんな夢の話をしていても仕事のほうはいつも以上に鋭くテキパキとこなしていたので周囲の人々は老人の変化には何も気づかなかった。つまり人々は「会長の仕事」だけに興味があり、老人の心なんかまるでどうでもよかった。だが老人本人にしてみればそれはもうたいへんな変化なのだ。

 もしも老人の心の中が見える人がいたら、きっとこんな情景が見えただろう。

 老人は歩いている。誰もいない大きなビル群の中を。するとふいに風がおこり嵐がきてビル群は次々と崩壊していく。逃げるのも間に合わずがれきの下敷きになった老人は、かろうじて腕をつきだしもがき、叫ぶ。ビルの残骸から突き出たその両腕は何かを必死につかもうとしているが何もつかめない。それでもその両手はあきらめず何かをつかもうともがき続けているのだ。

 現実での老人はただひたすら待っている。次の雨の日を、次の夢を。

「雨の夜がくればあの夢が見える。見たいなあ・・・」

 朝の天気予報で晴れと聞けばがっくりと肩を落とし、もしポツリとでも雨粒が落ちようものなら小踊りしながら家路を急ぐ。もしその夜に重要なレセプションや会議やパーティーがあったら、そんなものは軒並みキャンセルしてパジャマに着替えて早々と床につくのだ。そして長く静かな夜がすぎたあとに、老人はおだやかに目をさます。その目にいっぱいの涙をうかべながら。



               第2章  わずかな



 こんな生活をくりかえしているうちに老人にも夏がやってきた。

 しかし今年ほど夏をいまいましいと感じたことはなかった。だって梅雨が、あのすばらしかった雨の季節が、毎日のように夢を運んできてくれたシーズンが終わってしまったのだから。

 それにこの老人には夏休みという楽しみもなかった。とにかく仕事で猛烈に忙しいのだ。さすがに若い頃のように毎日飛行機に乗るような激しさではなかったけれども、それでも週の半分は飛行機に乗るビジネスマンだ。だからその日も北海道で開かれる貿易のための国際会議で議長をやるために八月の真夏の空を飛んでいた。

 だがどういうわけだろう、その日はどうも何かがいつもとちがっていた。最近では夢の中だけでしかワクワクしない老人だったが、この日は朝からどうも胸がソワソワするのだ。それも嫌な感じではなく、なにか期待というか、どこかドキドキするような、ちょっとうれしさをともなうようなソワソワだった。おかげでその日の会議の準備はさっぱり手につかない。会議まであと二時間だというのに。

 さすがにこれはちとまずい、そう感じた老人は気分転換をしようと思った。しかし狭い機内のこと、何をしていいかわからない。ゲームでもできればいいのだが、そういう趣味はまったくなかった。そこでしかたがないのでまずはトイレにでも行くかと考えた。

 ファーストクラスのトイレへ行ってみると、運が悪い、あいにくトイレはふさがっていた。しかたないと軽く肩をすくめ席にもどろうとしたそのときだ。体中を電流がかけぬけた。そうとしか言いようのないショックだった。だってあの歌が聞こえてきたのだ! トイレの中から!




♪  イナイイナイ番地の  レイン坊

   きょうはどこまで   虹かけるう  ♪




 歌はすぐに終わって聞こえなくなった。

「しまった! どっちから聞こえたのじゃ?」

 トイレはふたつあったのだ。歌があんまり短くてどちらのトイレから聞こえたのかまるでわからない。

「たしかにあの歌じゃった!」

 南郷勇一氏の眼光の鋭さは有名である。その鋭い眼光にさらされた者は誰もがブルブルとふるえだす。ただでさえ鋭いその眼光をいつもの倍も鋭くして南郷老人はふたつのトイレを交互ににらみつけた。もしも誰かがその光景を目撃したならば、そのうちトイレのドアから火が出て燃え出すんじゃないかと心配したにちがいない。

「あれは夢の中で聞いた歌だ。空耳なんかであるもんか。たのむ、もう一度きかせてくれ!」




♪  イナイイナイ番地の  レイン坊おおおお~~  ♪




「こっちか!」

 南郷氏は右のトイレの前に仁王立ちとなった。

 歌はまだ続いている。南郷氏はあいかわらずドアを注視している。だが、その目からは鋭さは消え、それどころかやさしい、何かをなつかしみ遠くをながめるような眼差し(まなざし)に変わっている。マモルおにいさんと初めて出会った砂漠のオアシス、美しかった夢博物館、ふたりで捜査したトリケラトプス事件、そして世界一おいしいデザートを食べたあの虹の浜辺。そんな夢の思い出が南郷氏の脳内をかけめぐる。

 ハッと我にかえった南郷氏は、そのとき急にわき出てきた自分の感情におどろいた。

「ど、どうしたんだ? この気持ちはなんじゃ? 怖い、なんだ、どうした、怖いぞ。え?」

 たしかに南郷氏はじりじりとして誰かがトイレから出てくるのを待っていた。だが、もし、それがマモル青年でなかったら? ぜんぜんわけのわからん人物だったら? そんなことになったらショックに耐えられるのか。今までの夢の世界がいっぺんにつぶれて消え去ってしまったら自分はいったいどうなってしまうのか。それが怖かった。

 このとき南郷老人はいやというほど思い知らされた。いつの間にかあの夢たちが、マモルおにいさんとの思い出が自分にとってかけがえのない一番大切なものになっているということを。もしそれが今なくなってしまったら・・・

「なんだ、乱気流か? なぜこんなに飛行機がゆれている? あ、ちがう、わしのひざがガクガクふるえているのか。おそれている? このわしが、怖くて怖くてしかたがない? この南郷勇一ともあろうものが?」

 長い間、南郷氏は怖いという感情をすっかり忘れてしまっていた。過去において南郷氏に敵対した者はすべて彼の前に敗れさった。南郷勇一は常に勝者であり続けた。それが今は怖くて怖くて子どものようにひざをガクガクさせている。

「このバカモノめ、しっかりせんか。今すべきことをするんじゃ、さあ」

 今なすべきこと、それはもちろん歌っているひとの正体を確かめることだ。

「おにいさん?」

 やっとの思いで出した声だが、それはもう蚊の鳴くような小さな音だった。そんな声はやはり届かなかったらしく歌は続いていた。南郷老人は観念したように目をつむり深呼吸して思いっきり言ってみた。

「おにいさん!」

 だがもうそれで限界だった。南郷老人にはもはやなんの勇気も残っていなかった。

(ああもう、席にもどろう。そして着陸するまで目も耳もふさいでいよう。そうだよ、そうすればなんの幻滅もない。そしてわしはまた夢でマモルおにいさんと会える。夢は夢でそっとしておくこと、それが一番いい)

 老人はそう決めた。

 ふうっとため息をつき、少し悲しげにほほえみ、そうしてからせめてもの見納めにと、トイレのほうを見て、そして回れ右のために足を動かそうとした。

あきらめの決心から席へもどるための動作にうつるまでの、このほんとにわずかなが南郷氏の一生を変えることになった。このわずかなすきにトイレのドアが開いてしまったのだ。

 そして、そこには小学生くらいの男の子が立っていた。




                第3章  迷い



「そんなバカな!」

 驚愕と失望とがものすごい勢いで同時に押し寄せてきて南郷勇一老人は思わず口に出して言った。しまったと思い、とにかく口を閉じる。

(ありえん、ありえんぞ、こんなの! マモルおにいさんでないにしろ、おとなが出てくるのならまだわかる。しかし小学生とは! あ、そうか、待てよ、あの歌はヨットの水先案内人も知っておるな。ということはあの少年なのか?)

 あまりの混乱に南郷氏は腕組みをして考えこんでしまった。と、そのすきに少年はダッと駆け出してしまった。南郷氏はあせった。

「ま、待ちたまえ、きみ! たのむ、待ってくれんか、お願いだ!」

 その声があまりにも必死なので少年は立ちどまった。ふりむいた少年の目を見たとき南郷老人はハッとせずにはいられなかった。なぜなら老人はその目をよく知っていたからだ。

(この目・・・青い空の、白く輝く夏の入道雲の、金色こんじきの風の、エメラルドグリーンの澄んだ大海原の・・・あの夢でいっしょに行ったなつかしい景色が全部つまっているこの目は)

 一歩、また一歩と少年に近づきながら老人は激しく胸を高鳴らせる。

(会ったことのない見ず知らずのこの少年。しかしこの目だけはまちがいない。忘れようにも忘れられないマモルおにいさんの目)

 老人は少年の目の前まで来ていた。

(よし、ここは一番かけてみよう。勇気を出せ、勇一!)

 勇一の賭けとは、この子の前であの歌を歌ってみせることだった。

(いいか勇一、歌詞をまちがえるなよ。いち、に、さん)



♪ イナイイナイ番地の レイン坊

  きょうはどこまで 虹かける


  だるまさんがころん団地の レイン坊

  じぶんのなみだで     虹かけるうう  ♪



 歌い終わった勇一はおもむろにメガネを取り、少年の目をのぞきこむように背をかがめた。それに魅入られたように少年もまた勇一の目をみつめた。

(ああ、やはりマモルおにいさんの目だ。ね、そうでしょう? マモルおにいさんの目なんでしょう? そうだよね、ねえ、そうでしょう?)

 勇一は待った。相手が何かを言ってくれるのを。相手が、そうだよ、と言ってうなずいてくれるのを。それはどんなに永い時間だったろう。月が、太陽が、宇宙のすべての星々が自分と相手を取り巻いてぐるぐると渦巻き、まるで永遠の時を刻んでいるかのようだった。

「ユーくん? ユー君なの?」

 時が止まった。

「ねえ、ほんとにユー君だよね? ユー君!」

 あまりのうれしさに勇一は両手を広げてマモルを抱きしめようとした。

「会長! だいじょうぶですか、会長!」

 ふいに現れた黒いスーツの男たち三、四人が勇一とマモルの間に割って入った。男たちは口々にさわぎながら勇一を取り囲む。

「どうなさったのです、会長! ご気分がすぐれないのですか。ドクターを呼びますか、会長。ともかくお席のほうへ、さあ、どうぞ手をとってください」

 それは勇一の秘書たちだった。勇一の両手を広げたポーズを気分が悪くて倒れる寸前とでもカン違いしたのか、それともマモルの存在を怪しんだのか、とにかくボディーガードも兼ねる彼らの腕力はすさまじく、さしもの帝王勇一もあっという間に席に連れ戻されてしまった。マモルとの会話もそれっきりとなった。

 勇一は激怒した。しかしすぐに思い返した。重要人物警護の訓練どおりに行動した彼らを叱るのはかわいそうだし、そもそも状況の説明など出来るわけもなかった。夢の中の恩人に会ったから話しているのだ。その言い訳が誰に通用するだろう。

 そこで勇一は着陸までおとなしくすることにした。そして空港に着くなり彼らにこう指示したのだ。

「よく聞くんだ。これから空港の到着ロビーで重要な人と会談するから絶対にじゃませんようにな。いいね」

 飛行機が着くなり、どの乗客よりも先に勇一は到着ゲートの出口まで来てマモルが来るのを待った。あの飛行機の客は全員がここを通るからだ。

 五分、十分、十五分。イライラした足どりで出口の前を行ったり来たりしていた南郷氏の前にマモルが姿を現した。若い両親と小さな妹に囲まれて歩くマモルもまたおちつかないようすだ。

「あ」

 マモルはすぐに南郷氏の視線に気づいた。そして南郷氏が驚いたことに、マモルは何のためらいもなく老人のところへかけ寄ってきたのだ。いきなり走りだしたわが子にびっくりした両親は幼いルミをひっぱってあとをお追ったので、気がつくとマモルの家族四人が南郷氏を囲む形になっていた。当然ボディガードたちは色めきたったが南郷氏の静止の合図でそこにとどまった。

「どうしたのよマモル、急に走ったりして。どなたなの、このかた?」

 だがマモルはちゃんと答えない。お母さんのこの問いが耳に入っているのかいないのか、「あー、えーとね」などと言いながら一心不乱に南郷氏の顔をのぞきこんでいる。その顔にはありありと感動の色がうかんでいた。

(しかし、いかんな、この状況は。家族が怪しんでおる。ここはわしがなんとかこの場をとりつくろわないと)

 とっさに勇一がこう考えたのはよかったが、それからの行動はまったくダメダメだった。

「これはこれは、マモルおにいさんのご両親さまですね。はじめまして」

 しまった、と思ったときは遅かった。なにが「マモルおにいさん」か。これはまずいぞ。そう思ったときにはマモルの両親からもうつっこみが入った。

「おにいさん、ですって? あのう、マモルのお知り合いですか? でもなんで、マモルがおにいさんなんでしょうか? いったい、どういう?」

 勇一はあせった。

「お、おにいさんというのはですな、えーと、ほら、よく言うじゃありませんか。そこのお嬢ちゃん、妹さんなんでしょう? 妹さんはマモル君のことをおにいさんて呼ぶでしょう? それでついわしもですね、おにいさんと、ワハハハ、いや、だから、その、つまり・・・」

 知らないおじいさんに自分の名前を呼ばれたルミはこわがってお母さんにしがみつく。勇一の口はさらに暴走する。

「わしはね、いや失礼、わたくしは勇一です。あ、いや、南郷です。つまりその、南郷勇一と申す者でございます。本日は、その、お日柄もよく、ではなくてですね」

 あまりにも有名な南郷勇一という名前と同じくらい有名なその顔を見て、マモルの両親は「ああ、そう言えばどこかで見たことあると思ったよ」という顔をした。とくにお父さんのほうは急に目がさめたようなようすだった。

「やはり南郷会長でしたか。わたくしはマモルの父ですが、あなたの銀行で働いている者です」

 もうだめだ、そう感じた勇一はついに下を向いてしまった。

(わしとしたことが、なんというぶざまな姿だ。どうすればいい?)

 そんなピンチの中、あれ、と勇一は思った。

(これはまるで夢の中でいつも出くわす災難みたいだなあ)

 そのときだ。マモルが登場した。まるでいつもの夢のように絶妙のタイミングで。

「ねえ、お父さん。お父さんは南郷さんの住所、わかるんでしょう?」

 まさに助け船! 勇一はハッとして顔をあげた。

「南郷会長の住所かい? えー、そりゃわかると思うけど」

 まさかの質問におどろいているお父さんをしりめに、マモルはお気に入りの三色ボールペンを取り出し、機内でゲットした雑誌のページを小さく破るとその紙にさらさらと何かを書いた。そして勇一に言った。

「はい、これ、ぼくの住所だよ」

 勇一はこのメモを受け取ると、うれしさが体の奥底からこみあげてきて、その場で小躍りしたいほどだった。

(これこそ一番ほしいものだよ! ああ、この冷静さ、この機転! これこそマモルおにいさんだ。夢の中とおんなじだ!)

 勇一は老眼鏡をはずして頭の上にあげ、両手でメモをつかんで顔に押しつけ、むさぼるように読んだ。

(郵便番号、東京都、おお、東京なんだな、ありがたい! で、電話番号まであるぞ!)

 あんまり興奮したので勇一はマモルにお礼を言うのも忘れていた。

「マモルおにいさん、ありが・・・あれ?」

 もうだいぶ離れたところでマモルが手をふっていた。そのうちマモルは家族と話しだし、そのまま人ごみの中へと消えてゆく。取り残されたように勇一はその場につっ立ち、秘書たちが近づいてきたのも気がつかないまま、メモをぎゅっと握りしめていた。

 その後、大会場で国際会議の議長を英語でこなし万雷の拍手を浴びたはずだが、その印象もぼんやりとしか勇一はおぼえていない。会議後のパーティーも終わり、ホテルの自室にひきあげ、ようやくひとりになった部屋のソファにすわったとき、ハッと勇一は我にかえった。

 背広の内ポケットから取り出したしわくちゃになったメモを机の上でていねいに広げると、勇一はやっと自分の人生にもどってきた。

「そうだ、まず電話してみるか!」

 スマホを取り出し番号を打ち込んでやっと気がつく。

「おちつけ勇一、なにやってんだ。これは自宅の番号だろ。あの家族は今この北海道を旅行中だぞ。家には誰もいないんだ。そう言えばいつ東京へ帰るんだろう。ああもう、勇一のバカバカバカ! なんでそんな予定も聞かなかった?

きょうのおまえはほんと情けないぞ。これじゃあ夢の中のユー君とおんなじではないか」

 とりあえずスマホに「マモルおにいさん」の名前で電話番号を登録してから勇一はどっかりとソファに身を沈めた。今日の事を少し整理してみようと勇一は頭をフル回転して今日の一部始終を脳内上映し始める。

「それにしてもマモルおにいさんがあんなに年下で、こっちがこんな年寄りとはなあ。待ってくれよ、こんな年の差があって電話でうまく話が合うかな?」

 こう思い始めたとたんにイヤな考えが次から次へと浮かんでくる。

「だいたいそもそもだ、夢でしか見たことのない人物が現実世界に実在するなんてこと、おまえほんとに信じているのか?」

 自分で思っておきながら、こんなことを考えて勇一はゾッとした。

「いやいや何を言う。あの目を見たろう! あれはたしかにまもるおにいさんの目だっただろう! わしはあの目を知っておる、知り尽くしておる。あれこそマモルおにいさんの目、夢でいつも見る、マモル、おにいさんの・・・」

 くじけそうな自分をはげまそうとしたのに勇一は自分自身の言葉にまた自信がゆらいでいく。

「夢の中で。おにいさん・・・か。うーん、おにいさんが小学生かあ、ちくしょう。なんで子どもなんだ? せめて高校生くらいだったらピンとくるのに、小学生だなんて。マモルおにいさんは世界随一の冒険家なんだぞ? 人生経験豊かな人格者なんだぞ? それがどうして小学生なんだ! どう考えてもおかしいだろう! だいいち夢でしか見たことがない人を、どうしてあの人にまちがいない、絶対にあの人だ、なんて言えるのか。そんなふうに断言してしまっていいのか? ああ、あれはほんとにわしのマモルおにいさんなんだろうか?」

 勇一老人は迷いだしていた。



                第4章  訪問



 北海道旅行も終わり、夏は真っ盛りだ。朝のまぶしい日差しがマモルの家の食堂にいる家族全員を照らして夏の日の始まりを告げていた。

「あ、お母さん。パンもう一枚!」

「まあ、楽しそうね、マモル」

「え、お母さんだってハミングばっかりしてるじゃん。ごきげんだね」

「そうかしら、ふふ」

「ルミも、ルミも! はみんぐ、はみんぐ!」

 そしてそこにはお父さんもいて、みんなを楽しそうにながめている。ほんとうに楽しかった北海道の家族旅行。あれを境にマモルの家の朝ごはんは二つの点でガラリと変わった。忙しくていつも早くに家を出ていたお父さんが急にゆっくりと朝ごはんをみんなと食べるようになったこと。もうひとつはごはんのメニューがずっとボリュームあるものになって朝ごはんの時間が長くなったことだ。

「じゃあそろそろいいか、マモル?」

 お父さんがきりだした。

「南郷会長との出会いなんだが」

「ユー君だよ、ユー君」

「おっとそうだった。つい会社のくせで会長って言ってしまうよ。ごめん」

 朝ごはんの時間が長くなったのはメニューのせいだけではなかった。空港でのマモルと南郷氏の出会いの話が毎日出るせいでもあった。

「ルミもね、ルミもね、あのおじいちゃん好き!」

 こんなふうに脱線も多いのでどうしても話が長くなるのだ。そして話のあいだずっとみんなの顔には笑みが絶えなかった。

 お母さんは最初こう思った。

「お父さんたら、南郷さんがたまたま会社のお偉いさんだからあんなに何度もマモルに聞くのね」

 しかし、この考えが見当違いだと気づいたのはすぐだった。なぜかと言えばお父さんがマモルにこの話をするときは

「でさ、マモルはあの時どう感じたの? マモルがそれに気づいたのはどうして? 飛行機の中でレイン坊の歌を思い出したきっかけは?」

というぐあいに、お父さんが聞くのは南郷会長のことなんかではなくマモルのことばかりだったからだ。つまりお父さんはマモルのことが知りたくてしかたないのだ、そうお母さんは気がついた。

「そういえばそうだったわ。彼は夏休みの前からマモルの夢に興味を持っていた。どうしてマモルの夢のことをそんなに知りたがるのかしら? 学校のこととかではなくて、夢のことなのに。でも、それってなんだかロマンチック」

 こんなふうに思うお母さんは、夢の謎を懸命にさぐろうとするお父さんの姿に魅かれて、なんだか胸がドキドキしてしまうのだった。

 末っ子のルミはルミで、家族みんなが熱に浮かされたように話しこむのにつられて小さな胸をワクワクさせている。ルミの夏休みもまだまだこれからだ。

「さてマモル。ずばり、南郷さんはほんとうに夢に出てくるユー君だと思うかい?」

 これが毎朝のクライマックス、この話題の核心をつく質問だ。お父さんが毎朝こう聞くのも、マモルの答えかたのせいだった。

 マモルはいつもだいだいこう答える。

「だからさあ、ぼくにもよくわからないんだ。でもね、これだけははっきりしてるんだ。あのおじいさんの目はほんとにユー君の目に似ているんだよ。あの目を思い浮かべただけで、しぜんとユー君の姿がうかんでくるんだ。だからもう一度あの目をよく見ればきっとはっきりと全部わかると思うんだ」

 ここでお父さんはあごに手をやったり、あるいは腕組みなんかして何度もうなずく。そうしながら腕時計を見て、あと何分ここにいられるかをはかるのだ。

 しかし、この日は電話が鳴った。

 家族全員がハッとして電話のほうをいっせいにふりかえった。朝こんなに早く電話があるなんてめずらしいからだ。

「はい、もしもし」

 お母さんが電話に出た。そして急に取り乱した。

「え! はい? まあ、はい! わ、わかりました。あの、すいません、主人に話していただけますか。はい、ええ、ただいま」

 お母さんは受話器を押さえながらお父さんを呼んだ。

「あなた、たいへんよ! 南郷さんから!」

 お父さんはバネじかけの人形か何かみたいに椅子からはねあがって電話にとびついた。

「はい、すみません。え? ほんとに? ああ、別に何も。はい、もちろんです! はい、ええ、お願いします! では」

 お父さんのおでこからは汗がふき出ていた。

「あなた」

「ああ、南郷会長がこれからここへ来るそうだ。車でお父さんを銀行まで送ってくれると言うんだ。それから・・・」

 お父さんはマモルを見た。

「マモルもいっしょに来てほしいそうだ」

 今度はマモルが椅子の上でピョンと小さくとびあがった。

「どういうことなのかしら、ねえ、あなた?」

「いやあ、どういうことって、うーん、会長も北海道でのことを気にしてるってことだろうなあ、きっと。マモルどうする? 来てみるかい?」

 マモルの脳みそは完全に思考停止、ただドクドクという心臓の音だけが体の中で響いている。


 ピーン  ポーン


 玄関のチャイムが鳴った。全員が玄関に走った。

 ドアをあけると、あのおじいさんが立っていた。お父さんもお母さんも何かをしきりと話しているがマモルの耳にはまるで入ってこなかった。

(そうだ、目を見なきゃ。もう一度目を見て確かめるんだ!)

 ところがおじいさんは銀色のメガネをしていて、おまけに夏の太陽の光がここまで入ってきてメガネに反射するものだから、おじいさんの目はまったく見えなかった。

 マモルが観察しようとしていたあいだにおじいさんはマモルに何か言ったらしいが、すぐにくるりと背を向けて玄関から出ていってしまったのでマモルは何もできなかった。

「さ、マモル。行こうか」

 お父さんの声にうながされてマモルは家を出て、そのまま大きな車に乗りこんだ。

 黒い車の大きなドアがドカンと閉まった音だけがずっとマモルの耳に残っていた。 




                第5章  思い出のアルバム



 車の中でおとなたちはおとなの話をしていた。だからマモルには話の中身がわからない。わかったのは次のやりとりだけだった。

「でも会長、お忙しいでしょうに会社の送っていただくなんてほんとによろしいのですか?」

「忙しいって? ふむ、けさのテレビは見てないのかね?」

「はあ、いえ、見ておりません。最近は朝食のときにテレビは見ないようにしてますので」

「ほお、それはたいへんよい習慣じゃね。実はね、けさ早くにわしは休養宣言をしたんじゃがテレビがさっそくそれをニュースにしてね。南郷グループの総帥が当分仕事を休むというんでマスコミがだいぶ騒がしいが、わしはヒマになったんじゃよ」

「マジで! あ、いや、ほんとに仕事を中断なさるので? たしか東南アジア向けの新経済システムへの大規模援助プロジェクトは今がヤマ場なのでは?」

「ああ、あれはもう今日の月例トップ会議でちゃんと・・・」

 また聞き取れなくなったのでマモルはしかたなく体を伸ばしてみた。精一杯両足を伸ばしてみたがどこにも届かないほど車は広かった。いろいろな装置もついていたが、あの飛行機のトイレみたいにはしゃぐ気にはなれなかった。

(なぜぼくは呼ばれたんだろう?)

 そのことが気になってしょうがなかったからだ。

 がくん、と車がとまった。

「マモル、着いたよ。マモル」

 お父さんが車から降りながら言った。マモルも急いで車の外へ出た。南郷会長も降りていて、三人で大きなビルの中へ入っていく。

「じゃあマモル、お父さんはもう行くね。会長さんがおまえをまた家まで送ってくださるそうだから、ここでバイバイだよ。では会長、よろしくお願いいたします」

 そう言ったきりお父さんはエレベーターのほうへ行ってしまった。マモルはとつぜん悟った。

(ぼくはひとりだ! こんな知らない場所にひとりでほうりだされた!)

 マモルの全神経がアラートモードになる。目、耳、鼻そして皮膚感覚。使えるだけのものを使って情報を集めるためにマモルはフル回転した。

 なんて大きいビルだ。ここは一階なんだろう? それなのにこの天井の高さはなんだ、これじゃあ小学校の校舎全体がまるごとすっぽり入っちまう。それにあのエレベーター、いったいいくつあるんだ、入っていく人たちがまるでミツバチか何かみたいに見える。うっ、このにおいは、そうか、すぐ横にある受付にいるおねえさんの化粧だな、お母さんのに似てるもの。ではこのカチャカチャいってる金属音はなに? ああ、たくさん並んでいるこの長椅子にいる人たちが開け閉めしてるアタッシュケースの鍵の音かあ。待てよ、冷たい空気の流れを感じるな、エアコンだ。おっと、掃除ロボットがこんなにいっぱい床を動いているぞ、よく人にぶつからないな。あの警察みたいな服の人は警備員さんだよな。警備といえば監視カメラもこんなにたくさん。カメラのコードはどこにつながっているのかな、なんだかこの壁の向こうに全てを制御するでっかいコンピュータがあるみたいな、そんな圧迫感があるよ。

 こうしてマモルの態勢は万全となった。

 そんなマモルの様子をずっと見守っていたのか、マモルが「さあ来い」といいう気持ちになったころ、南郷氏がやっと声をかけてきた。

「ああ、きみ、お父さんに聞いているかな? この上の方の階にわしの部屋があるんじゃよ。えと、その、よければ少し寄っていかんかね、だめ?」

 勝手に戦闘態勢に入って「どっからでもかかってこい!」という気になっていたマモルは何かの挑戦を受ける戦士のようにりりしく「はい」とうなずいた。

 受付のすぐ後ろが南郷氏専用のエレベーターになっていた。ふたりだけでそこへ乗り込みドアが閉まると何もしないのにそれはスーと静かにあがっていった。そしてドアが開くとそこはもう部屋の中だった。

(いきなり部屋の中に入るエレベーターなんて初めてだ)

 しかもその部屋の様子もマモルをちょっと驚かせた。オフィスへ着くと思ったのになんだかどこかの家の部屋みたいで、よく見ると奥のほうには畳の場所まであったからだ。

 大きな書き物机に大きな本棚。本棚には無数の本。大きな壁かけテレビ。その奥に広がる半円形の大きな窓と大都会のパノラマ。どうやらこの階すべてがこの一部屋になっているようで、そう思うとマモルはついぶるっと身ぶるいした。

「おお、失礼した。寒いかね? 冷房が強すぎる?」

 そんなことはなかった。マモルがぶるっとふるえたのは、このビル、そしてこの部屋すべてがマモルにとってあまりにもなじみのない世界だったからだ。

「こっちへ行こう。こちらは日当たりもよいし。ここはただのオフィスじゃないよ。わしの住居でもあるんだ。だからくつろいでくれたまえ、さあ」

 どことなくぎこちない動きで南郷氏はマモルを応接テーブルへ誘った。しゃれたそのテーブルの上には紅茶とイチゴのショートケーキが二人分おいてある。

「好きなほうへすわっておくれ」

 やわらかいソファにすわるとケーキがよく見えた。とてもかわいらしいケーキだ。それはこのビルに入ってからマモルが初めてかわいいと思えたものだった。

「ではわしはこっちへ。どっこいしょっと。ええと、それで例の話、あ、いや、まずケーキだね、ケーキ」

 かわいいケーキの前で落ち着かない南郷氏のいかつい顔。まるで笑顔を見せないその武骨さの真ん前にちょこんと置いてあるかわいらしいケーキの組み合わせがあんまり不釣り合いだったので「くす」と思わずマモルは笑ってしまった。

 南郷氏の顔が急に輝いた。そしてメガネをはみ出すくらいに目を大きくあけたので、これならはっきりと目を見ることができるぞとマモルは身をのりだして南郷氏の顔をのぞきこんだ。ところが南郷氏が顔を赤らめ、さっと窓のほうへ視線をはずしてしまったのでマモルはがっかりしてソファの背にもたれた。

 マモルは北海道のあの日以来この時が来るのをずっと待っていた。なのに、いざこうなってみると何を話していいのかわからない。しかもユー君だと思った目の前の人も何も話しかけてくれないし。そのうちこのおじいさんがほんとにユー君なのかだんだん心細くなってきた。心ではたしかにそうだと信じているのに、目の前の姿だけで判断しようとする自分の頭脳のほうがそうだと認めたがらない、そんなちぐはぐな気持ち。

(でも・・・でも、もしこれがユー君ならば、助けてあげなくてはいけないのはぼくのほうじゃないか! いつものように!)

 そう思ったとたん、何も言わずただもじもじしている目の前の人がいつものユー君らしく思えてきた。

 そこで勇気が出たマモルは始めた。

「あの、あのね」

 南郷氏はすぐさまマモルの顔を食い入るように見つめた。

「ぼくね、あのう、なんていうのかな、そうそう、ぼくね、初めて自分の友だちの家に遊びに行くときね、いつもきまってやることがあるんだ」

 おじいさんは、うんうんとすごい勢いでうなずきながらマモルの言葉の続きを待っている。

「それはね、その子のアルバムを見せてもらうことなんだ。写真のアルバムね。その子が赤ちゃんのときからの写真をふたりしていっしょに見るんだ。これってすっごくおもしろいよ。だって、その子のお父さんお母さんや兄弟やほかの友だちも出てくるし、その子が今までどこに行って何を見たのかがいっぺんにわかるんだもの。なんだかその子の思い出の中にとびこんだみたいで、その子とはずっと昔から仲良しだった、そんな気になれちゃうんだもの、最高だよ。だからねえ、いっしょにアルバム見ようよ、思い出のアルバム!」

南郷氏の笑顔が消えた。

「アルバムは・・・思い出のアルバムは」

 南郷氏の声はどんどん小さくなる。

「アルバムは・・・ない」

「ここにはないの? じゃあ家においてあるんだね?」

「いや・・・その、実は、長いあいだ写真の整理をしてないんだよ。だからアルバムもないんだ。それに、アルバムに貼るような写真だって持っていたかどうかすら・・・」

 ふたりは押し黙ってしまった。マモルも南郷氏もじっと下を向いたままだった。

 長い時間のあと、マモルがぼそりと言った。

「ぼく、家に帰りたいです・・・」



                第6章  ルミちゃん



 以前、いつだったかマモルはお母さんに友だちのことでお母さんに相談したことがある。その日マモルはちょっとケンカしちゃって、でもうまく仲直りできなくて困っていたからだ。

 そうしたらお母さんは

「その子も男の子なの? だったら男は男同士、ハラをわって堂々と話しあえばいいのよ! ドンといけ、マモル」

と、なんだかとっても威勢のいいひとことをくりだしてそれで片づけられてしまったことがあった。そうなると今回も「ユー君だって男でしょ?」と言われそうだ。

 ならばお父さんはどうか。なんといっても頼もしいお父さん。うーん、でも今回はちょっとちがうかなあとマモルは思う。南郷さんはお父さんの会社の偉い人だし、どうもそのへんがひっかかる。

 それなら友だちに相談するのはどうだ。だけど新しいクラスの子はだめだ。まだあんまりよく知らないし。かといって前のクラスの仲良しとは春からぜんぜん会ってないし、それに久しぶりに会えても一から説明するのはすっごく大変だし、これもピンとこない。

 残るは妹のルミだけど、うーん。

ああ、こんな時に、とマモルは思う。こんな時にもしも自分に年上の兄弟がいたらきっといい相談相手になってくれただろうに。こんなのはないものねだりにすぎないとわかってる。でも、それくらい今のマモルは自分の悩みを打ち明ける相談相手に飢えていた。

 ところでマモルが相談したい悩みとはいったい何だっただろう。それはせっかくユー君と現実世界で会えたと喜んだのもつかのま、今またその確信がゆらいでしまったことだ。

 飛行機で出会ったあの目はたしかにユー君の目だった。それなのに銀行で会った南郷さんの目はまちがいなくユー君の目だったか? それが問題なのだ。確信だったものがゆらぐ。どうしてこんなことになってしまったのか。銀行では分厚いメガネにさえぎられて目をよく見ることができなかったから? じゃあもう一度会ってメガネを取ってと頼んで目をのぞきこめばそれで解決? いや、どうもそんなことじゃない気がする。だけど確かめたい、どうしても確かめなければいけないんだ。でも何を確かめるの?

「ああもう、なんだかわかんなくなってきちゃったよ!」

 いや、そうだ、確かめたいのは目なんかじゃない、心だ、中身なんだよ。南郷さんが夢の中のユー君なのか、そんなことがほんとにあるのか、ぼくらはすでにもう夢の中で出会っていたのか、だとしたら南郷さんもぼくのことを探検家のマモルとして考えているのか、そういう全部を確かめたいんだ、とマモルは思った。だけど、どうやって?

「うわあ、なんだよ、どうやったらわかるかなんて、それこそわかんないよ!

だめだ、頭がパニック!」

 マモルは二階の自分の部屋のたたみのうえに思いっきりひっくりかえった。もちろんそんなことをしても気分はぜんぜんよくならなかった。

「おにいちゃーん、おにいちゃーん」

 妹のルミが部屋に入ってきた。ここはルミの部屋でもあるのだ。

「ねえ、ヤギさんごっこしよー」

「えー、いま忙しいんだよ。あーとーで」

「うそ! おにいちゃんゴロゴロねてるもん。いそがしくないもん。おべんきょうじゃなきゃ、おにいちゃんにあそんでもらいなさいってお母さんいったもん」

「だからあ、いま考えごと、あ、いけね、泣きそうだ」

 ルミは両手を目にあてて今にも泣きそうな感じになっている。

「わかったわかった、いいよルミ。じゃヤギさんごっこやろう?」

「きょうはおにいちゃんが黒ヤギさんで、ルミが白ヤギさんだよ。そいでね、これがおてがみなの」

 ルミはすぐに遊びに入った。どうやら泣きまねにひっかかったらしい。

「はあ。ええと、黒ヤギってお手紙はこぶほうだっけ」

「そう。おにいちゃん、おてがみちょうだい」

 ルミがやりたがっているのはヤギさんの童謡をまねした遊びだ。二頭のヤギがお互いに手紙を出すが、そのたびにヤギたちは手紙を食べてしまうので手紙の内容がわからない。だから「さっきのお手紙 ご用事なあに?」とたずねる手紙を出すが、相手がまたその手紙を食べてしまい……という無限ループを味わうためのエンドレスな遊戯だ。

「はい、お手紙」

 ルミは手紙を受け取るとモグモグモグと食べるふりをする。

「あ、いけない、おてがみたべちゃった。ごようじ何だったのかしら。ちょっと待っててね」

 ルミはクレヨンで紙に何かを書く。それを二つ折りにしてからマモルに渡す。

「はーい、白ヤギさんからおてがみでーす」

 ルミが渡した紙をマモルが開いてみると、そこにはゴチャゴチャした模様があった。ルミはまだ文字が書けないのだ。

「あ、おにいちゃんよんじゃだめえ! 白ヤギさんはよまずにたべた、なの!」

 ルミにつっこまれてマモルはペロッと舌を出す。

「ごめんごめん。はい、食べますよ。モグモグモグ、ほら食べちゃった。あ、いけなーい。ご用事なんだったのかな。すぐにお手紙出してきかなくっちゃ。

それ、お手紙お手紙、と」

 今度はマモルがクレヨンで紙に書く。ルミちゃんへ、と書いたところでマモルは大声を出した。

「これだあ! そうか、手紙だよ、手紙。知りたいんなら、聞きたいんなら、手紙を書けばいいじゃないか!」

 黒ヤギさんも白ヤギさんも口でやりとりしているあいだはラチがあかない。だから手紙を出す。でもその手紙を食べちゃう。ヤギだから。

「でもぼくらはヤギじゃない。読む前に食べやしない、きっと読む。はは、あたりまえじゃないか!」

 迷いの無限ループが断ち切れた興奮に、マモルはこぶしを握りしめて立ち上がった。

「あん、立っちゃだめえ。黒ヤギさんはすぐにごへんじかくのー」

 マモルはルミを見た。小さくてかわいくて、それでもってすばらしいヒントをくれたかけがえのない妹のことをやさしく見つめた。

「うん、ご返事かくよ。すぐ書く。ルミ、ありがとう!」

 ルミはほめられたのがうれしくてニコニコした。マモルはすぐにご返事を書き、遊びを続けた。ルミが遊びつかれて昼寝するまで兄と妹はお手紙を出し合った。

 ようやくルミが昼寝を始めたとき、マモルは勉強机にとびついた。

「手紙だと読むときに相手が目の前にいない。だからいいんだ。ご用事だけがストレートに相手に伝わるんだ」

 夢の中では青年と少年のふたりが現実世界では小学生と老人。この見た目が邪魔して聞きたいこと言いたいことが伝わらない。でも手紙なら見た目を忘れて会話ができる。

「そうだよ。初めて会うおじいちゃんと子どもでは何から話していいかわからないもの。でも手紙なら初めから話したいことを書ける。そして読みながらきっと夢の中での相手の姿を思い浮かべることができるはず。うん、できるよ、できるとも!」

 マモルは長い長い手紙を書き始めた。




                  第7章  心のつばさ




     マモルから南郷勇一氏への手紙


 こんにちは。

 暑い日が続きますが元気ですか? ぼくは元気です。

 でも、ほんとうはあまり元気ではありません。それはぼくの心がちょっぴり悲しいからです。きょうやっと会えたのに、ぜんぜんお話しできなかったから悲しいのです。

 ねえ、ほんとはユー君でしょう?

 おじいさんはほんとはおじいさんじゃなくて、いつも夢の中でぼくといっしょだったユー君なんでしょう? ぼくは北海道へ行く飛行機の中でおじいさんの目を見ました。ユー君と同じ目だったよ。だからぼくはもうおじいさんなんて呼ばないことにします。だってきみはユー君なんだ!

 ユー君、ぼくは信じています。きみがユー君だということを信じています。ユー君もぼくと同じ夢を見ていますか? きっと見ているんだよね? もしユー君も夢を見ていてその夢の中にぼくが出てきているなら教えてください。ユー君の夢の中でぼくはどんな姿をしていますか?

 ああ、ユー君(きょうは銀行でこう呼べなかったけど、手紙の中だと平気ですね!)ぼくらの見た夢のことを手紙で話してみませんか? それと、ユー君もぼくのことを夢の中と同じ名前で呼んでください。

 正直いうとぼくは手紙をあまり書いたことがありません。友だちに出す年賀状くらいかな。こんな長い手紙を書くなんて初めてです。だから書き方もよくわかりません。いろいろへんなところやまちがっていたらごめんなさい。でもよかったら返事をくれませんか。ユー君の手紙をまっています。

          藤山小学校五年一組      九重 守より



     ※       ※      ※    




       南郷勇一氏からマモルへの返事の手紙


拝復 お手紙たしかに受け取りました。誠に有難くお礼申し上げます。お手紙大変嬉しく幾度も幾度も読み返しておりました。そしてようやく勇気をふるい、ここにご返事差し上げることと致しました。

あなた様のご推察の通り私も夢をみております。そして私の夢にも確かにあなた様も現れます。夢の中においては私が少年の姿であり、あなた様は堂々たる体格の青年となって立ち現れるのであります。

そうです。私こそ少年勇一であります。

今春に入ってから私はさまざまな不可思議きわまるあまたの夢を見るようになり、その夢の中において私はきまって幼き少年の姿であり、その無知なるがゆえに毎度困難におちいり申したるところをマモルと名乗るたくましき好青年に救っていただく次第です。夢の件につきましてはお話し申し上げたきところ多々ございますけれども本日はとりあえずお手紙拝受のことご返事申し上げるにとどめますゆえ、なにとぞどうかあなた様におかれましても私めに次なるお手紙をお書き下さいますよう伏してお願い申し上げます。この南郷勇一こころからのお願いでございます。

では失礼いたします。                  敬具

  南郷グループ会長  南郷勇一 



       ※       ※      ※    



マモルからユー君への返事 


ユー君、お返事ほんとにありがとう! 

 さっそく家族全員でユー君の手紙を読みました。お父さんとお母さんは目をパチクリさせておどろいたし、妹のルミまで大よろこびできのうは一日中すごいさわぎでした。

でもユー君、夢の中でぼくのことをなんて呼んでるのか書いてくれなかったね。まさか「あなた様」なんて呼んでないよね。だったら「あなた様」なんて呼ぶのはやめてよ。それに「あなた様のご推察の如く」なんて言い方はむずかしすぎるし(どう読めばいいのかわからなくて何度も何度も国語辞典をひかなきゃならなかったんだよ)、だいいちこれじゃまるでおじいさんの言い方みたいでぜんぜんユー君らしくないよ。ぼくも夢の中で話すように書くからユー君もそうしてね、約束だよ。

ともかく一度ぼくのことを夢の中で呼んでるように呼んでみてね。

次の手紙まってます。

ユー君へ           マモルより




       ※       ※      ※    



ユー君からマモルへの返事


マモルおにいさん、ぼくはユー君です!

「マモルおにいさん」、ぼくは夢の中でいつもこう呼んでいます。マモルおにいさんのみる夢の中でもぼくはちゃんとこう呼んでいますか?

マモルおにいさん! こう呼んでいると、ぼくは今まるで夢の中にいておにいさんと話をしているような気がしてきます。おにいさんと初めて会った砂漠のことや美しい夢博物館、大きな船や小さな船で出かけた七つの海、その他いろいろな冒険のことがもう一度ありありと目の前にみえてくるようです。

おにいさん! もう今では平気でこう呼べます。これってなんと気持ちのいいことなんでしょう! ぼくは今この手紙を、夏の青空に向かって大きな絵筆と真っ白い色の絵の具でもって大空いっぱいにかいているような、そんなすがすがしい気分で書いているんです。

ご返事まっています!

マモルおにいさんへ              



       ※       ※      ※    



ユー君よりマモルからユー君への返事


ユー君お手紙ありがとう! ユー君の手紙を読んでぼくもいっしょに夢の中にいる気分になったよ。このところ天気がいいからあの楽しい夢はしばらくみてないけど・・・・・・

そうだ、きょうはまたききたいことがあるんだ。ねえユー君、きみはいつ夢をみるの? ぼくはいつもきまって雨のふる夜にユー君の夢をみて、その中でふたりしていろんな所へ出かけるの。ユー君もやっぱり雨の夜に夢をみてる?

もしそうならぼくたちふたりともさ、きっと同じ雨の夜に夢をみてさ、その夢の中身を同じなんじゃないかな! ねえ、どう思う? こう考えたら胸がドキドキワクワクしちゃって、もういても立ってもいられない気分! はやく返事ちょうだいね。

ユー君へ                 マモルより



       ※       ※      ※    



ユー君からマモルへの返事



マモルおにいさん、そのとおり! ぼくもあの夢はいつだって雨の夜にみるんです! これは何か深い意味があるのかな? いやいや、そんな意味だってどうだっていい、あの夢でマモルおにいさんとふたりで冒険ができるなら。それに今では雨の夜をまたなくても、こうしてお話しできるから。

マモルおにいさん、きょうはぼくからもおにいさんにききたいことがあるんです。

実は夢の中のことで気になることがひとつ出てきたんです。

おぼえていますか、おにいさん。あの夢博物館のこと。あそこでぼくらを案内してくれた係員の坊やがいましたよね。あの子って、ほら、ぼくらが虹の橋から落っこちた最後の海の冒険でぼくらを助けてくれたあの子どもに似ていると思いませんか? ぼくはどうしても同じ子のような気がしてならないんですよねえ。

たしかあの子はレイン坊とか名乗っていませんでしたっけ? えと、それとも何かそんな歌をうたっていたんだっけかな? ともかくあの子のことが急に気になりだしてしまって・・・・・・

おにいさんはあの子のことをおぼえていますか? あの子はいったいなんでしょう、おにいさんはどう思いますか? 

マモルおにいさんへ                  ユー君より



       ※       ※      ※    


マモルからユー君への返事  


あの子の名前はなんていうんだろう。あの子に名前を聞くチャンスがなかったんだけど、ユー君のいうとおり、あの子の歌っていた歌の中身からいうときっとレイン坊っていう名前なんだろうなあ。うん、ぼくもそう思うよ。

ユー君、ぼくもね、あのレイン坊のことはよくおぼえているんだ。夢博物館のあの悪夢の部屋で会ったときからふしぎな気がしていたもの。でもね、あの気持ちはユー君と初めて夢の中で出会ったときの気持ちとはまったくちがうんだ。ユー君とは初めて会ったときから、うん、これはぼくとピッタリ気が合う仲間だぞ、っていう感じだったよ。(ただし変な話しかたするなあとは思ったけどね。ごめんごめん、でも「時間がない時間がない」とか「なんとかじゃよ」なんてぜんぜんこどもらしくないんだもの!)でね、レイン坊との出会いに感じた気持ちはそれとはまったくちがっていたんだ。なんていうか、ちょっと悲しげというか、あの子がひとりぼっちでいる気がして気になるというか・・・ユー君おぼえてる? あのヨットの上でさ、レイン坊は声をおしころして泣いてなかった? そのくせサメが出てくると歌うことでそれをおいはらう力をみせつけたりして、うーん、とにかくふしぎな感じ。

それにさ、もっと気になることはさ、どうしてあの子はぼくらの夢に二度も出てきたんだろうってこと。だってほかにそんな人はいないでしょう? ぼくらの夢の冒険にはたくさん怪物やら怪人やら出てきたけど、みんな一度きりだったでしょう? レイン坊だけがふたたびあらわれた・・・・・・

でもぼくらはあの子に感謝しなくちゃいけないんだよね。だってあの「レイン坊の歌」のおかげでぼくたちはこの現実の世界でも会うことができたんだからね! 

ユー君ごめん、ほんとはもっともっと書きたいんだけど、そろそろ夏薬味の宿題がピンチなんだ。だからきょうはここまで! 

ユー君へ                 マモルより 



       ※       ※      ※    



ユー君からマモルへの返事 


マモルおにいさん、たしかにレイン坊には感謝いっぱいです!

 でもあの「レイン坊の歌」ってふしぎな歌ですよね。あれは何を歌った歌なんでしょうか?



イナイイナイ番地のレイン坊 

きょうはどこまで  虹かける 



これが一番の歌詞ですよね。この「イナイイナイ番地」とはどこなんでしょうか?  



ダルマさんがころん団地のレイン坊  

自分のなみだで   虹かける  



この「ころん団地」かな、「ダルマさんがころん団地」かな、こんな団地ってほんとにあるのかどうか。きっとどれもただの言葉あそびといかダジャレみたいなもので、はじめから意味なんかないのかも。

それはそうとこの歌な感じだと、まるでレイン坊に虹をかける力があるみたいに思えませんか? そういえば、ほら、あのヨットからレイン坊が小鳥をとばしたときにそのあとに大きな虹の橋がかかったじゃないですか。 泣いていたようなレイン坊がその自分の涙で虹をかけた・・・なあんて、歌詞の中身どおりなのかなあと気になってしまうんです。それにマモルおにいさんがいうように、どうしてレイン坊は二度もぼくらの夢にあらわれたんでしょうか?

マモルおにいさん、なんだか胸さわぎがします。レイン坊のことがますます気になります。それともこれはぼくが気にしすぎているんでしょうか? なんだか不安です。

早くお返事ください。

マモルおにいさんへ               ユー君より



       ※       ※      ※    



マモルからユー君への返事  


返事おくれてほんとゴメン! でもね主題がたまっちゃってたまっちゃってたいへんなんだ。それにユー君の手紙を読んだらぼくも「レイン坊の歌」が気になりだしちゃって、そしたら宿題が手につかなくなっちゃってますます宿題がおくれちゃって、ああもう! こんなわけでなかなか返事が書けなかったんだ、ごめんなさい。

実はね、ぼくも前からうすうす考えていたんだよね、「レイン坊の歌」には何か特別な意味があるんじゃないかって。きっとそのせいでいつのまにかぼくはあの歌をときどきひとりで口ずさむようになっていたのかもしれない。(そのおかげで飛行機のトイレの前でもあの歌が出てきて、そのぼくの鼻歌をユー君がきいたんだよね! だからぼくたちにとってはすっごく意味があったね!)

この歌自体のほんとの意味をしらべようと思ってね、きのうぼくはある本を近くの図書館で借りたんだ。(ほんというと実は宿題をやりに図書館へ行ったんだけど、どうしてもあの歌のことばっかり気になっちゃって本をさがしたんだ、へへへ)借りたのは天気の本。虹のことがたくさん書いてあるんだよ。

でね、この本を読んでみてふたつのことに気がついたんだ。ひとつはね、虹ってほんとはかけ橋みたいなアーチじゃなくて真ん丸の円の形をしているってこと。虹がほんとは円だったなんてぼくはぜんぜん知らなかったなあ。だけど、もしそうならばあの歌の一番の歌詞はどんな意味になるんだろう?




イナイイナイ番地のレイン坊

きょうはどこまで  虹かける




この最後の「どこまで」はふつうに考えれば「どこまでですか?」の意味だと思うけど、実は「どこまでも ずっと」の意味もあるんじゃないかって、そう考えたんだ。

つまりね、もし虹が完全な円だとしたら虹は世界中をぐるっとまわっている、そんなふうにも考えられないかなと思うんだ。そうするとレイン坊って虹をかければ世界のどこまでも行ける。こう考えたとたん「イナイイナイ番地」が気になってね。「イナイイナイ番地」って「どこにもない番地」みたいな感じだけど「世界中のどこでも」と関係して考えると「番地がない イコール どの番地でもありうる」ってならないかって! どうどう? これってつじつま合ってるかな? ぼくはこれ考えついたとき、ひらめいたあ! なんて思っちゃったんだけど、だめかな? 

でねでね、この考えがオーケーだとしたらこの歌詞は「レイン坊はどこにでもあらわれる 虹さえかかれば」ってならない? これはレイン坊の力、すごい能力だよね。

さて、この本を読んでわかったのは、虹が出るのはやはり雨の後だということなんだ。そりゃそうだってことなんだけど、ここでぼくがピンと来たのはあの歌の二番の歌詞なんだよね。レイン坊はこう歌っていた。




自分のなみだで  虹かける




もしもほんとに自分のなみだで虹をかけるとなったらすっごい大量のなみだがいるよね。これはもう巨人のなみだ。でもさ、レイン坊はあんなに小さな子だった。自分のなみだで虹かけるなんてとてもむりだよね。でもね、もしもこの歌詞の「なみだ」が何かのたとえだったらどうだろう? たとえば、そう、「雨」のたとえだったらさ。

でもなあ、ここまではなんかかっこよさげに推理してみたけど、なみだが雨のたとえだと「自分のなみだ」が「自分の雨」ってなっちゃうんだよなあ。自分の雨ってなんじゃらほい、でしょう? あ、そうか、今思いついたんだけどこれって自分で自由に雨をふらせることができる、って意味? いやあ、それもイマイチしっくりこないなあ・・・

わからないことはまだまだあるんだよね。たとえば



ダルマさんがころん団地のレイン坊



これはいったい何でしょう? 団地はどう考えても団地じゃないの? でもこんな名前の団地なんて聞いたことないし。ユー君は知ってる?

ああ、ユー君にはききたいことがいっぱいあるよ。もう山ほどさ! それも今すぐに! どうしてユー君ここにいないの? そんなこといってもしかたないか・・・・

とにかくこの歌の歌詞についてユー君が何か思いついたことや知ってることや考えていることがあったら教えてね。全部だよ! それも今すぐに!

もうこんな時間だよ、寝なくちゃいけないや。頭もなんだかフラフラしてきたし。じゃあおやすみ、ユー君。           マモルより




       ※       ※      ※    




ユー君からマモルへの返事  



マモルおにいさん、やっとご返事がとどいてホッとしています。手紙の返事を待つというのはとっても楽しいことだけど、それと同時にこんなにも待ちどおしいものなのですね。たった一日や二日のおくれだけで、こんなにもヤキモキするのですからねえ。だからきょうはご返事もらえてほんとにうれしいです。

夢の中でもいつだってマモルおにいさんにたくさん教えてもらってきたけれど、きょうもらった手紙でもまたパっと目がひらけました。イナイイナイ番地のところなどほんとうになるほどなあと思いましたもの。でもやはり最後の歌詞の「ダルマさんがころん団地」のところですよねえ。ぼくにもさっぱりわかりません。でもあきらめずにいろいろ考えてみますね。

まずは「ダルマさんがころんだ」という遊びについて考えてみたんですよ。オニになった子が「ダルマさんがころんだ!」と何回かいったあとにふりむいて次のオニをさがす。オニが「ダルマさんがころんだ」といっているあいだにできるだけオニに近づいて、オニがうしろをふりむく前にオニにタッチできたらその子の勝ち、オニの負け。そのときはオニがもう一度オニをやる。オニがうしろをふりむいたときにあとの子たちは全員すぐに動きをとめてピクリとも動かないようにする。動いているところをオニに見られたらオニの勝ちでオニを交代する。「ダルマさんがころんだ」というこの呪文みたいなことばは数えてみると十文字で、おそらく十かぞえることの代用と考えられること・・・うーん、どれもピンときませんねえ。

もともと手足のないダルマさんの人形が「ころぶ」というのは現実には起こり得ないわけでしょう? そういう不可能なことをいってるということは「こんな団地なんて存在しないんだよ」という意味なんでしょうか。でもそれだとまったくわけがわからないし・・・・・・。せっかくマモルおにいさんにたよりにされたからここは一番がんばるぞ! って全力で考えてみたのですがわかりませんでした。ちょっと、いや、かなりくやしいです!

マモルおにいさん、レイン坊とはいったい何でしょう? ぼくやマモルおにいさんと同じようにレイン坊もまたこの現実世界のどこかに実在している人物なのでしょうか? それとも夢の中にだけ住んでいてぼくらに何かのメッセージを伝えようとしている、それこそ夢のような存在なのでしょうか? ぼくらはいつかまたレイン坊の出てくる夢をみることがあるのでしょうか? ほんとうに気になります。

ほんと、たよりにならなくてごめんなさい。でもまたご返事くださいね。それから宿題がんばってください! 

マモルおにいさんへ               ユー君より 



       ※       ※      ※    



マモルからユー君への返事  


ユー君、あしたで夏休みも終わりだよ。あんなに長く続くと思ってた夏休みなのに、あとたった一日で終わっちゃうなんて・・・・・・・。

でもね、今年の夏休みは最高だった。だってユー君と会えたもん! それにこの文通もね、すっごく楽しかった。こんなにたくさん手紙を書いたなんて生れて初めてだよ。

ぼくね、ユー君からの返事がまちどおしくて毎日毎日ゆうびん屋さんが家の前にくるたびに玄関先に立ててあるポストまで走って出ていくんだ。そんなだからゆうびん屋さんのおじさんもぼくの顔をおぼえてくれてね、「坊や、きょうはおめあての手紙があるよ、はいどうぞ」といって手わたししてくれるんだよ。

それにユー君の手紙にはってある切手のきれいなこと! ユー君がはってくれる切手はとびっきりきれいで楽しくておもしろくて、それに同じものが一枚もない! ぼくはもう切手マニアになっちゃうよ!(あ、でも、ぼくの家には特別きれいな切手がなくていつも同じ切手でごめんね・・・・・・・)

ぼくはね、ユー君。手紙をもらうことがこんなにも楽しいことだなんて知らなかった。それに返事を書くのがまた楽しいよね。次はなにを書こう、あれも書こうこれも書きたい、そうだこう書いたらもっと手紙がおもしろくなるぞって、机の前だけじゃなくてね、おふろやらトイレやら、ときには家の外に出てるときにだっていろいろ次の手紙の中身を考えたりするんだよ。これがとっても楽しいよね。夏休みだからたっぷり時間もあるしね。でもその夏休みもあとすこしで終わっちゃうんだなあ・・・・・・

ユー君、ぼくは手紙を書くのがおそくていつも三時間も四時間もかかるので(自分の中ではあっというまに時間がすぎてるんだけどね、書き終わって時計をみるとすごい時間がすぎているんでいつもびっくりするんだよね)新学期が始まると今までみたいにたくさんの手紙が書けるかどうかわからないんだ。いやだなあ。宿題もまだ終わってないしね。

ユー君がレイン坊の歌のことをこんなにもいっしょうけんめい考えてくれてほんとにうれしかった。ありがとう! ああ、レイン坊のこと気になるよねえ、ほんと気になる。だけど今はそれをむりにでも忘れて宿題をやんなきゃいけない。宿題なんかよりこっちのほうがずっとずっと大事だって思うんだけど、やっぱやんなきゃなあ。でしょ? しょうがないよね。だからレイン坊のことはひと休み、だね。あーあ、すぐまた夏休みになんないかなあ。

ではユー君、元気でね。返事まってます。

ユー君へ        宿題で頭がぐちゃぐちゃのマモルより



       ※       ※      ※    





 さて、このマモルからの手紙をユー君こと南郷勇一氏が自宅で受け取ったのが九月の一日だった。もうおとなで仕事からの引退を表明した南郷氏にはとっくに夏休みなどというものは関係なかったが、それでもやはり南郷氏の夏休みは終わったのだった。夢の中の大切な人と現実世界でも出会うという信じられない出来事。手紙を書けばすぐにその人から返事が返ってくるという黄金の日々。それらはすでに去った。マモルから宿題と新学期のせいでしばらく手紙が書けないという知らせを受けたとき南郷氏はこう悟ってガックリ肩を落とした。

それこそ毎日のように手紙をやりとりして、マモルとふたりでいっしょにひとつのことを真剣に考える。これがどれほど南郷氏にはうれしかったことか。それは夢の中の冒険にもおとらぬほど胸のおどる興奮の連続だった。しかしその幸せが連続する糸は断たれたのだ。マモルからの手紙はこれまでのように毎日のようには届かないだろう。あのマモルおにいさんがいうことなのだからそれは確かなのだ。

そうわかると、一人暮らしのこの屋敷が急にやたらとバカでかいむなしいがらんどうの空間に感じられた。(南郷氏はオフィスビルの住まいのほかに住居用の屋敷を持っていた。かつては愛する妻やこどもたちとここに住んでいて、今はマモルの手紙に集中したいがためにオフィスビルの住居からここへ戻ってきていた)書いてもすぐには返事が来ないと思うと、きのうまであれほど楽しかったマモルへの手紙書きも今はノロノロと筆が進まないのだ。文通が終わってしまったわけでもないのに、すぐにお返事がもらえないというただそれだけの理由でこんなふうになってしまったのを自分でもおろかしいと思うのだけど、やはりペンはなかなか先に進まなかった。パソコンやスマホでなく、あえて手書きにして、それをきのうまではおおいに楽しんでいたのに、そのために新しい外国の高級ペンやインクや素晴らしく美しい切手までそろえたのに、今では慣れた仕事用パソコンでかんたんに書こうかなあとつい考えてしまうほど元気がなくなっている。

こうして勇一の鈍く重く心はずまない一週間はすぎた。

ダラダラと六日もかけて書いた手紙、そのわりには内容も枚数もうすっぺらな手紙の上に勇一が切手をはろうとしたまさにその時だった。郵便配達のオートバイが屋敷の前で止まった。まず音に気づき、次に屋敷の窓から目で確認したそれはまちがいなく郵便配達の人だった。仕事関係の郵便物はすべてオフィスに回すよう手配してある。だからこの屋敷にはプライベートな郵便物しか来ない。そしてプライベートな郵便物というのはマモルからの手紙でしかありえない。

マモルから手紙が来たのだ!

それはもう久しぶりに(といっても待ったのはほんの一週間なのだが勇一にはまるでもう一か月くらいたったように長く思えたので)うれしくなって勇一は小走りに屋敷の郵便受けへと向かった。うれしいことにポストには見慣れたマモルの手書き文字でこの自分への宛先が書かれた手紙がちゃんとおさまっていた。

光の速さで手紙をつかむと部屋へと歩いたが、もうとても待ちきれずに途中で立ちどまって手紙の封を切ってしまった。もちろん本文は部屋でゆっくり読むつもりだが、せめて最初の数行だけでもちょっぴり味わいたと思ったのだ。満面の笑みで読み始めた勇一だが、ほんの数秒でその表情が変わってしまった。勇一の目はカッと見開かれ、口は少しあいて、ときおりつばをゴクリと飲み込みながら勇一はマモルの手紙から目が離せなくなってしまった。そのままその場に立ったまま、勇一はマモルの手紙に読みふけった。それもそのはず、手紙には次のようなショッキングなことが書かれていたのだ。「マモルからユー君への緊急通信」の言葉で手紙は始まっていた。



       ※       ※      ※    



マモルからユー君への手紙 



マモルからユー君への緊急通信! ユー君! 早くこの手紙を読み終わってすぐに、できるだけ早く考えはじめてください。これがいったいどういうことなのか、ぼくといっしょに考えてください! 

実はもうよっぽど電話しようかと思ったんだけど、だって緊急に知らせたかったからさ、でもこんなに頭がこんがらがっていたんじゃうまく話せっこないと思って電話はやめたんだ。うん、やっぱり手紙だ。手紙じゃなくちゃ。

このことはあんまりぶっとんだことなんでお父さんにもお母さんにもまだ何も相談してないんだよ。いま書いてるこの手紙だってもう何度も書いてはやぶってはのくり返しなんだ。これ五度目の書き直しだよ(ああ、今度こそ最後までうまく書けますように!)どっから書こうかほんとに迷っちゃって、でもどうやら初めから順を追って話したほうがよさそうなので初めから話すね。

この前の手紙を出してから全力だしてなんとか宿題やっつけて始業式に出たんだけど、寝不足やらなんやらでぼくの頭はもうフラフラだった。教室にもどってからもただぼんやりしていて、(ああ、きょうはもう帰りたいなあ、眠くてしょうがないや、すぐに帰ってたっぷり昼寝したあい、そいでもって夕方にはユー君に手紙を書くんだ!)なんてことばかり考えていてね。だから先生が教室に入ってきたのも、クラスが急にさわがしくなったのもすぐには気がつけなかったんだ。

「みなさん、おはようございます!」

ぼくはその声でハッとしたんだよ。だって女の人の声だったから。ぼくらの担任の先生は男なのに! 

「わたしはこのたび新しくこの学年の音楽の授業を受け持つことになりましたアマノといいます」ぼくは急いで先生のほうを見た。そうしてもう一度びっくりしたんだ。だってこの先生とっても美人なんだもの。

「うわあ!」

クラス全体からもこんな声があがって、すぐさまこの先生のニックネームは美人先生にしよう、いやビューティーのほうがいいよ、なんて口々にいいだしたんだ。ぼくとしてはビューティーのほうがいいと思うけど、いや、こんな話はどうでもいいんだよ。ユー君にぜひ知ってほしい問題はこれからなんだ。

 そのアマノ先生のとなりにはいつもの担任の先生が立っているんだけど、よく見るとね、アマノ先生のうしろには、そのかげにかくれるようにして小さな男の子が立っているんだ。どうやら転校生らしいんだけど顔が見えないんだ。みんなから顔をそむけるように黒板のほうばかり見ていてね。するとビューティーが(ぼくはこっちのニックネームがいいな!)いったんだ。

「みなさん、この子はわたしの弟なんです。きょうからみなさんと同じクラスになります。どうか仲良くしてやってくださいね」

クラス中がまたざわざわとさわがしくなった。すっごい恥ずかしがり屋だね、とか、お姉さんと弟が同じクラスなんておかしくない? とか、みんないろいろいってた。でもね、ぼくがほんとにおどろいたのは次のことなんだよ。

ビューティー先生が「さあ、ごあいさつして」とその子の両肩を両手でつかんでクルリと前を向かせたときなんだ。ねえユー君、おちついてきいてよ? その子の顔はね、あのレイン坊にそっくりだったんだよ!

でもはずかしかったのかな、その子の顔はもう真っ赤になっていて、ひとこともしゃべらずにクルっとまたうしろを向いてしまってね。よほどのはずかしがり屋さんらしい。クラスのみんなはクスクス笑ってたけど、ぼくはそれどころじゃなかった。だってそうでしょ? レイン坊にそっくりな子が教室に来たんだよ。ぼくはなんとかしてもう一度その子の顔を見たいから、もう席を立って黒板のところまで走っていきたかったよ。だってぼくの席はいちばんうしろの席だからどうもはっきり見えないんだ。もうほんとにイライラというかジリジリというかつらかった。

そのうちだれかが「その子、なんていう名前ですか?」ってきいたんだ。先生はすぐに黒板に名前を書いた。


雨野 怜


「アマノ レイです。みんな仲良くしてやってくださいね」

ユー君! この名前を見てよ! これはいったいどういうことなの! 

ぼくが「あっ!」と言うのと同時にその子は急に走りだして教室をとびだしていった。美人の先生と、ずっとそのとなりに立っていたいつもの担任の先生があわててあとを追いかけてね。すぐにその子は先生たちにつれられて教室にもどってきたんだけど、それを見てみんなは大笑いしてたんだけど、ぼくだけがただボーっとして頭がぜんぜんまわらなかった。

その子ときたらそれからもずっと下をむいたままで顔がよく見えないし、ぼくの頭はくらくらしたままだし、そのうち夏休みの宿題が集められたりしてその日は終わっちゃった。でもねユー君、ぼくの話はまだまだ終わってないよ。次の日のことがまた大事なんだ。

次の日はクラスの席がえがあった。そしてねユー君、なんとぼくはその子といっしょにすわることになったんだよ! 

すごいキセキだと思うでしょ? でもごめんね、実はこれ、ぼくが仕組んだことなんだ。ぼくらのクラスの席がえルールは前の学期とちがう子ならばだれとでも自由にすわっていいんだよ。だからね、ぼくは思いきってその子に声をかけたんだ。声をかけるとき、そりゃもう心臓がドキドキしちゃってね、汗なんかも出てきてね。だってその子はすっごいはずかしがり屋さんだろう? きっとにげちゃうだろうなって思ってさ。でもその子はイヤとは言わなかったんだ。

ぼくらが席についたとき、すぐにぼくは「はじめましてだね、ぼく九重守です。よろしくね」と自己紹介したんだ。すると意外にもその子は顔を赤くするでもなく、おちついた感じで自分のノートをぼくの前にさしだして、何も言わないままある部分を指でさすんだ。そこには「雨野怜」と小さく名前が書いてあった。

いつのまにかまわりの席の子たちが集まってきて

「ねえ、どこから来たの? 何のゲームが好き? テレビは何を見るの?」といっせいに聞き始めた。するとその子は顔を真っ赤にして何も言わずにうつむいちゃってそれきりになっちゃった。ああ、ぼくはもっと話したかったのに、みんなのせいでだいなしだよ。

でもねユー君、授業が始まってからその子が何をしていたか、わかる? アマノ君はね、となりからジーっとぼくの顔をのぞきこんでいるんだよ! それに気づいたぼくがアマノ君を見るとすぐに下をむいちゃったんだけど。でもぼくがまた黒板のほうをむくとね、アマノ君はまたすぐに横からジーっとぼくをのぞきこむんだよ。あのはずかしがり屋のアマノ君がだよ! そしてこれがずっと続いているんだよね、席がえの日からずっと! ユー君、これをどう思う? 

ぼくはこう思うんだ。この子はレイン坊なんだ! 

ぼくらが八月のあいだ手紙の中でいっしょにずっと考えていたようにレイン坊はほんとにいたんだ! そしてぼくらの前に現れた! 

だけどあの子は自分がレイン坊だと名のらない。どうしてなんだろう? あの子はぼくらの前に現れていったい何をしようというんだろう? 

ユー君、ぼくはとっても不安なんだ。きみの助けがいるんだ。だからこの手紙を読んだらすぐに、一分でも早くぼくのところに来て! 

まっています。

ユー君へ            マモルより



               

                    第8章 謎とき




まだ朝の六時だった。マモルの家の玄関チャイムが鳴った。

「まあ、こんなに朝早くだれかしら? あなた、出てくださる?」

パジャマ姿のお父さんはガウンをはおり、きつい寝ぐせのついた髪の毛を手のひらでなでつけながらインタホンをのぞくと、急に目を大きくあけて「そんな、まさかな」とひとりごとを言い、早足で玄関まで行きドアをちょこっとわずかに開けてのぞいてみた。そしてびっくりするような大きな声でこう叫んだ。「会長!」

お父さんがあわてたようすでカギを全部はずしてドアを全開にすると、九月のまぶしい朝陽を背に受けた南郷勇一氏がそこに立っていた。

「いやあ、どうも、こんなに朝早くから申しわけございませぬ。えーと、その、マモルさんに会えるかね?」

南郷氏の目はかがやいている。まるで青年ざかりの若い男のように顔がほんのり赤く上気している。

するといきなり階段からドタンバタンとすごい音がしたのでお父さんがふりかえると、これまた赤く顔を上気させたマモルが玄関にとびこんできて大声でこう言った。

「ユー君!」

「マモルおにいさん!」勇一もマモルにまけないくらいの大きく快活な声でそれにこたえた。ふたりはキラキラとかがやく瞳でたがいを見つめた。

「おにいさん、って? ・・・あのう・・・会長・・・」

お父さんがポカンとしたようすでふたりを見つめると、勇一とマモルはお父さんにニコニコと笑顔を向けると、やがて大きな笑い声をひびかせた。それはおなかの底からほとばしる快い笑い声。それにつられてお父さんも少し笑ったが、その笑いはぎこちなかった。

「さあユー君、あがってあがって! ね、お父さん、いいでしょう?」

お父さんがやはりぎこちなくうなづくと、ふたりの子どもたちは手をつないで二階へとかけあがっていった。

「あなた、だれだった? マモルの友だちが来たの?」

お母さんがこう聞いた。

「マモルの友だちだって? いや、ちがうんだよママ、だれだと思う! あ、いや、待って・・・そうか、そうだね! うん、そうだよ、マモルの友だちさ、友だちが来たんだよ! ああ、なんて気持ちのいい朝なんだ。ゆり子! きみはなんてきれいなんだ!」

お父さんはお母さんを抱きしめた。

「ちょっ、まあ、なあに、どうしたの?」

驚きながらこう言いながらも、お母さんはうれしそうに笑っていた。

さて、お父さんには聞こえなかったが「ユー君、ルミはまだ寝てるからここからは静かな声でね」とマモルがそう言ったあと、ふたりは二階のマモルの部屋に入ってさっそく作戦会議にとりかかった。いかにも楽しそうに見えたふたりだが、その心はそれほどおだやかではなかった。レイン坊のなぞはふたりに大きくのしかかっていたのだ。

「マモルおにいさん、なんて言ったらいいのか、いやあ、まったく不思議なことだ。あの手紙のあとでまた何か気になることはあったの?」

「うん、それがね、あの子の住所がわかったんだ」

「え、住所?」

「そう。やっぱり団地だったんだよ、ユー君!」「そうか! やっぱり団地かあ!」「それだけじゃないよ、ユー君。その団地はね」

勇一は話にひきこまれ思わずマモルの顔の近くまで自分の顔を近づけた。ふたりはもうまったく相手の年齢や姿かたちを気にしていないようだった。心と心がじかに対話している。そんな感じだ。

「その団地がどうしたの?」

いかにも待ちきれないというようすのユー君を見て、マモルまで自分の言葉にドキドキしてきた。

「うん、その団地は大きな丘の上にあって丸山団地という名前なんだけど、その真ん中あたりにダルマ堂という文房具屋さんがポツンとたっているんだ。そのまわりにはお店なんてない場所なのに一軒だけそこにね」

「うんうん」

「その団地に住んでる小学生たちにはけっこう有名な店で、ぼくも団地に住んでる友だちから聞いて名前は知ってたんだよね」

「ダルマさんがころん団地だ!」「そうそう! だからこの友だちにその店のことをさ、もう一度くわしく聞いてみたんだよ、何か知らないかって。そうしたら出てきたんだよ」

勇一はもうすっかりユー君の顔つきになって次の話が待ちきれないよお、という表情をマモルに見せている。「そのダルマ堂の名前の由来がまたけっこう有名らしくてね。なんでも昔そのお店の場所は古い神社だったらしくて今でも店の裏にには小さな洞窟みたいな穴があってね、それがなんと」

「なんと?」

「達磨大師のほこら」の跡だっていうんだ」

「だからダルマ堂!」

「そういうこと!」

「で、その神社は何か残ってるの?」

「うん、それが団地工事の前までは何か残ってたらしいんだけど今ではすっかりあとかたもなし」

「そうか、なるほど! ダルマさんは消えた! つまりダルマさんは転んだんだ!」

「そう! だからあ?」

ここでふたりは歌を歌いだすように一、二、三と調子を合わせてふたりで同時にこう叫んだ。

「イナイイナイ番地!」

「うーん・・・」

寝ていたルミが声をあげたのでふたりは大あわてで口に指をあててシィーっという仕草を互いにしあった。ルミは寝返りをうってまた眠った。

マモルは慎重すぎるくらいの小声で勇一の耳もとにささやいた。

「ダルマさんは転んでいなくなった。だからダルマさんの番地は消えてイナイイナイ番地、ってわけだね。決まりだよユー君、ここがダルマさんがころん団地だ」

「すごいよ、マモルおにいさん! こんな短期間にここまでわかるなんて! さすがマモルおにいさんだ!」

「ユー君、あの子はレイン坊だよ」

「うん、きっとそうだ。いやまちがいない! あれ、マモルおにいさん、どうしたの?」

はしゃっぎっぱなしだった勇一はようやくマモルの顔色に気がついた。マモルは自分の推理を自慢するどころか、何かを深く心配するような陰気な顔をしていた。

「あ、ごめんユー君。ぼくもレイン坊が出てきたのを手放しに喜びたいんだけど・・・」

「だけど? なに?」

「うーん、それがどうもうまく言えないんだけど、うーん、なんだろう、この気持ちは・・・」

「マモルおにいさん・・・」

「ごめんごめんユー君。レイン坊が自分から名のってくれないのが気になってるんだと思う。何かかくしたいのかな、って」「でも今ぼくらはレイン坊がどうしてぼくらの前に現れたのか、それを探るべきでしょう?」「その通りだね、ユー君。うん、そうだよ! とにかくぼくらがレイン坊に会えたのはすてきなことなんだものね! ユー君の言うとおりだ!」

「ぼくはまだじかには見てないけど」

「それだよユー君! まずなんといってもユー君に見てもらわなくちゃ。ユー君の目から見てもあの子がレイン坊に見えるかどうかって! さあ行こう」「え? これからぼくも学校へ行くの?」

「来てくれる?」

勇一は息をのんだ。これから大冒険が始まるときのあの胸の興奮が勇一の全身を突然包んだからだ。まるであの夢の中のように。そして、夢の中でいつもそうだったように、一瞬臆病になってしまう自分をしかりつけ、思いっきりの勇気を出して言った。あの夢の中でそうしてきたように。

「もちろん。もちろんだよ、マモルおにいさん!」それを聞いたマモルの顔はふたたび喜びに輝いた。

「じゃあ計画はこうだよ、ユー君。きょうの昼休みにぼくがあの子と校庭へ出ていくからユー君の目でしっかり見てほしいんだ。あ、でもユー君はその姿で学校へ入れるかな?」

勇一はニヤリと笑ってみせる。

「マモルおにいさん、だいじょうぶ。ぼくね、夢の中よりこちらの世界のほうがちょっとばかり使える手が多いみたいだから」

マモルも笑う。

「あ、そうかそうか、そうだよね、オッケー。じゃあ・・・よし、十二時半に校庭のジャングルジムの下でどう? あそこなら校門のすぐそばだし」

「アイアイサー! 了解!」そう言って勇一がおおげさに船乗りのような敬礼をしたものだから、その気配でルミが起きそうになった。

「おっと、いけない。ユー君、下へ行こう」

ふたりは一階へおりた。

「じゃあユー君、昼休みに校庭で!」

「うん、ジャングルジムで!」

勇一は若いきっぱりとした声でそう言うなり足早に玄関を出て行った。ほどなく自動車のエンジン音が高く響いたと思うとその音はすぐに遠くなった。

食堂の入口からひょっこり顔を出したお父さんとお母さんがきく。

「マモル、あれは・・・」

ふりかえったマモルは元気にこたえる。

「うん、ユー君だよ! ぼくの友だち。ねえ、やっとユー君に出会えたよ! もう最高だ!」

お父さんとお母さんは顔を見合わせた。

「ユー君て・・・あなた、あれ南郷会長さんよね? ちがう?」

「もちろんそうだよ。南郷会長だ・・・いや・・・ちがう・・・」

「え? ちがうの?」

「うん、ちがう。あれはやっぱりマモルのお友だちだよ。ユー君だ」

とたんにお母さんは心配そうな顔になった。

「あなただいじょうぶ? 熱でもある? 気分わるいの? きょうは会社やすむ?」

「気分は最高さ、ゆり子」

そう言いながらお父さんはお母さんの両手をやはり自分の両手でぎゅっと握りしめた。そしてとてもあたたかいやさしい笑顔でお母さんを見つめた。するとお母さんはなんだかとっても幸せな気分になれた。マモルも夫もあれは友だちのユー君だって言っている、だったらそれでいいじゃないか、それはきっとすてきないいことに決まっているのだから。心の底からそうすなおに思えるのだった。



                   第9章  ジャングルジム




 その朝、マモルは学校につくと校庭のジャングルジムのところへ行き、まわりをぐるりと一周してから教室へ行った。

教室へ入ると雨野怜はすでに席についていた。

マモルはいつもどおりに雨野怜の横にすわったが、心臓のほうはドキドキと高鳴っていくばかりで、いつもどおりには雨野怜にたくさん話しかけることができなかった。いや、たくさんんどころか朝からずっとひとことも話しかけなかったので、マモルのいつもとちがうようすに雨野怜はだんだんと落ち着かない感じになってきた。しかしそれすらマモルは気づきもしなかった。

(もうすぐだ、もうすぐだぞマモル。いよいよレイン坊とユー君がこの現実世界で顔をあわせるんだ!)

こんなことばかり考えていたので授業もそっちのけ、雨野怜もそっちのけになっていたのだ。

マモルは何度となく教室の時計を見ていたが、そのうち針はようやくお昼近くにたどりつこうとしていた。

(ああ、ついに昼休みだ! ぼくら三人が出会う決定的瞬間なんだ! 給食なんて今日はなければいいのに! 早く校庭へ出たい!)

その給食も終わり、給食当番だけを残してクラスのみんなは秋晴れの校庭へとびだしていく。この時になってようやくマモルは今日はじめて雨野怜に話しかけた。

「雨野くん、きょうはぼくといっしょに校庭で遊ぼうよ。どう?」

雨野怜の顔にいっぱいの笑顔がひろがった。マモルの沈黙がよほど不安だったのだろう、やっと話しかけてもらえたうれしさから雨野怜は何度も何度も何度もうなずいてこう言った。

「ハイ」

マモルは心底ホッとした。もし断られたらどうしよう。マモルは午前中ずっとそれをおそれていたのだ。

ふたりはいっしょに校庭へ出た。ジャングルジムはすぐそこだ。ユー君はまだ来ていない。どこかものかげからぼくらをじっと見ているのだろう。打合せどおりだ。

「ねえ雨野くん、ジャングルジムで遊ぶのは好き?」

「ココノエくんと」

「え? ぼくと? ああ、ぼくとならジャングルジムでも遊びたいってこと?」

「ハイ」

これで第二関門もクリアだ。マモルはまたひとつ安心した。

ふたりはジャングルジムについた。そこでは何人もの子どもたちが子猿のような器用さでジムの鉄柱をくぐりぬけていくジャングル鬼ごっこに熱中していた。だがマモルはその前で立ちどまったきり動こうとしないので、雨野怜はふしぎそうな顔をしてマモルの顔をのぞきこんだ。

「ああ、ごめんね。ちょっとここにこうしていようか」

そう、動く気はないのだ、ユー君が来るまでは。あ、ほらあそこ、校舎のかげからユー君が出てきたよ。ずいぶん離れて待っていたんだな、ユー君。もうすぐだよ、もうすぐだ、ユー君もついにレイン坊に会うんだ!

 そのときだった。

「どきな!」

とつぜんマモルはうしろからだれかに肩をこづかれた。

「どけってんだよ! おまえに用はねえんだ!」

乱暴な声がした。

「おい、そこのおまえ。おまえだよ、このボーっとしたやつ! おまえ、一組に来た転校生だな。そうなんだろ。おい、聞いてんのか!」

その乱暴な声は雨野怜に向けられていた。マモルはとっさに雨野怜をかばおうと前へ出たが、すぐに両腕をふたりの男子にひっぱられて前へ行けなかった。「ふん」

乱暴な声はマモルをさげすむようにそう言った。

「転校生だろと聞いてんだ。どうしてこたえねえんだ、このやろう!」

その乱暴な声の持ち主をマモルは知っていた。なんでもかんでも腕力にものをいわせて押し通そうとするいやな子で、五年生の間でも有名なやつだ。マモルを押さえているのはその子の言うことなら何でも聞くと噂されている男子たちで、まるでヤクザの親分子分といった感じだった。

親分づらをしたその男の子はどなった。

「おれをバカにしてすむと思ってんのかよ!」

乱暴な声でそう言うなり、そいつは雨野怜の体をぐいぐいとジャングルジムに押しつける。その目は充血して真っ赤に残忍な光をたぎらせている。雨野怜は目をつぶり、苦痛に顔をゆがめている。

「なにをするんだ! やめないか!」

いきなり響くカミナリのようなでっかい声。その迫力たるや、マモルたちだけでなくジャングルジムのまわりにいた子たち全員がいっせいに動きをとめてしまったほどだ。

「ユー君!」

いつのまにか勇一がそこに立っていた。顔を真っ赤な怒りに染めて。

「ちっ」そう舌打ちをすると乱暴な三人の子どもたちは走り出して校舎のかげに消えていった。

しゃがみこむ雨野怜のかたわらにひざまづき、マモルは言った。

「こわがらないで雨野くん。あいつらはもういないよ。それにこの人はこわい人じゃないよ。とってもやさしい人なんだ。ほら、ほんとはきみも知っているでしょう? あのユー君なんだよ。いつもぼくといっしょにいたあの小さな子だよ、あの船でもあの島でもさ。信じられないかもしれないけどほんとうなんだ」

雨野怜はゆっくりと勇一を見あげた。しかしその目に恐怖の色はなかった。それどころかどこかなつかしげなようすでずっと勇一を見つめている。

マモルは思った。(あ、これはいい反応だぞ。ユー君をぜんぜんこわがってない。やっぱりレイン坊なのか・・・)

マモルは手をさしのべて雨野怜といっしょにゆっくりと立ち上がった。いよいよぼくら夢の仲間三人が一堂に会するのだ!

「あううう! いたあああ!」

雨野怜が悲鳴にも似たうめき声をあげて倒れるようにしてしゃがみこんだ。「ど、どうしたんじゃ!」

勇一がうろたえる。だがマモルは見た。雨野怜の体からパラパラパラといくつもの石ころがこぼれ落ちたのだ。そして雨野怜のひざから血がにじみ出したのをはっきりと見た。

「やっほー! やったやったあ!」

それはあの意地悪で乱暴な声だった。マモルが声のほうをふりかえると例の男子たちが校舎のかげから身をのりだしてはしゃいでいた。親分格のあいつが手に何か持っているのも見えた。

「石を投げおったな! それともパチンコでも使ったか。なんてやつらだ、許せん! マモルおにいさん、ここはワシが行ってやめさせてくるからここをたのむ。こらあああ!」

勇一はどなりながら追いかけたが悪童たちは大きく笑いながら逃げていった。「雨野くん、だいじょうぶ?」マモルはまた雨野怜の横にしゃがんだ。ひざのほかにひじのへんからも血が出ているようだった。たいした傷ではなさそうだったが、自分の手のひらにうっすらとついた血を見た雨野怜はガタガタと身をふるわせている。

「保健室へ行こう? あっ!」

マモルはころんだ。だれかに押されたのだ。

「おい、まだ話はすんでねえぜ!」

乱暴な声がほえた。あいつだ!

「このやろう、転校生のくせにオレさまを無視するなんてふざけるな! そのうえあんなへんなじじいをオレにけしかけやがって、こいつめ!」

あの親分格の乱暴者が雨野怜のむなぐらをつかんでいる。どうしてこいつがここにいるのか? そうか、あの投石さわぎは体の大きいユー君をこの場から引き離すためのトリックだったんだ! ようやくそう悟ったマモルは顔をしかめた。

(雨野くんをつれて早く逃げなくちゃ!)

とっさにマモルはそう思い雨野怜の手をつかもうと右手をのばした。ところが・・・マモルは雨野怜にふれることなく、その右手をもとにもどしてしまった。

(いや待てよ、マモル。思い出せよ)

どういうわけかマモルは自分で自分にこう問いかけていたのだ。

(夢をもう一度思い出してみろ。レイン坊があらわれたのはいつもぼくらがピンチの場面だっただろう? そうだ、ちょうど今みたいな場面だよ。そんなときレイン坊はいつも不思議な力をみせてぼくらを助けてくれたじゃないか。きっと今だって何か特別なパワーを出してこの悪たれを追い払うかもしれないじゃないか。もしそんなことが起こったらそれこそ雨野くんがレイン坊だっていう何よりの証拠になるぞ、そうだろう? いやもう雨野くんはレイン坊にきまってるんだからきっと何かしてくれる。さあレイン坊、この乱暴者をやっつけてよ!)

これから起こるにちがいないすごい場面をよく見ようとしてマモルは雨野怜から一歩はなれた。マモルが自分からはなれたことに気づいた雨野怜はハッとしたようにマモルを見あげた。その目は不安でいっぱいでだんだんと涙までたまっていった。しかし一歩はなれてしまったマモルにはそれが見えなかった。マモルは雨野怜の口もとばかり見つめていたのだ。

(さあ、もうすぐあの歌を歌うぞ。レイン坊の歌だ!)

マモルが思ったとおり雨野怜の口もとが動き始めた。何か言っている、たしかに何かを言っている!

(きっとあの歌詞だ、歌が始まったんだ!)マモルも自分であの歌を無言で歌い始めた。何か始まるという予感で胸は高鳴った。だがすぐにマモルはあれ、と首をかしげた。自分が無言で口ずさむレイン坊の歌と雨野怜の口の動きがまるで合わないのだ。

(おっかしいな。まるっきし合わないや)

「このやろう! なに口をパクパクさせてやがる。どっち見てるんだ。オレさまのほうを見ろ、無視すんな! こいつめ!」

あろうことかそいつは雨野怜の体を踏みつけるように蹴りだした。思わずマモルの体は雨野怜をかばうように動いて、そのためマモルは雨野怜の声が聞こえた。

「・・・タ・ス・ケ・テ・・・たすけて・・」

マモルの全身は凍りついた。そして見た。あふれる涙をぬくおうともせず、ただただマモルを見あげる雨野怜の目を。

「こっち向けってんだよ! ちくしょう、耳が聞こえねえのか。じゃあ、こうしてやる!」

乱暴者は雨野怜の後ろからえり首をひっつかんで激しくふりまわした。

その時だった。

「うおっ! うおわおおおおおお、ああああああーーー!」

雨野怜が絶叫した。それは周囲の子どもたちがなにごとかと遊ぶ手を止めてふりかえるほど大きな声で、そのあまりの異様な声のボリュームにあの乱暴者さえも一時その手をゆるめてしまうほどだった。

するとあたりが急に暗くなった。まるで部屋の電灯をスイッチで消したみたいに一瞬で暗くなった。校庭にいたみんなが空を見上げるとその真上で真っ黒な雲たちが次々と集まっていくのがわかった。たちまち黒一色になった空が鋭い閃光を放った。

ガラガラガラガラピッシャーン!

 たたきつけるすさまじい雷鳴。それと同時に地面に倒れふす雨野怜。

「うわあああ、すごい雨だ! うわあ」

いっせいにさわぎだす校庭の子どもたちの頭上に滝のような豪雨が降りそそぐ。それらの変化はあまりにも急だったので校庭の子どもたち同様にあの乱暴者もパニックになっていた。「うわうわ、なんだこの雨は! うわあ、たまらねえ!」

あいつはそう言いながら教室へと逃げもどる子どもたちの波に消えていった。「マモルおにいさーん。どこだあ。マモルおにいさーん」

びしょぬれのハンカチを頭にのせた勇一がようやくもどってきた。

「ごめんごめん。あいつら足が速くてとうとう見失ってしまったよ。ひどい雨だ。校舎へ入ろう。それにしてもさっき聞こえたものすごい叫び声はなんだったのかな、マモルおにい・・・ああっ!」

勇一はようやく惨状に気づいた。

レイン坊かと思われた雨野怜は泥水の中ですわったまま首をうなだれ、マモルおにいさんはその雨野怜のまん前でぼうぜんと立ちつくしている。絶望にたたきのめされたようなマモルの顔つきを見て勇一は言葉をうしない動けなくなった。

三人のほかにはだれもいなくなってしまった無音の校庭で、銀色のジャングルジムだけがバチバチとはげしく雨つぶをはじく音をたてていた。








                            (第二部おわり)





    



 





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