偽りの聖女は語らない
【フィオナ】
人々の役に立ちたい。
童話やお伽話に語られる聖女様のように、瘴魔を祓い、怪我や病で苦しむ人々を癒やす奇跡の力が欲しかった。
そうすれば、魔法の才能がない二番目の娘でも、姉と同じように愛してくれるかもしれない。
そんな浅ましく邪な気持ちで祈ったから、天罰が下ったのだ。
歴代の聖女すらも霞む癒やしと奇跡の力を授かったフィオナ・モンタントこと私は、その日から口を閉ざした。
「偽りの聖女よ、お前は聖女としての一切の責務を放棄した。それどころか、婚約者であるこの僕の面子まで尽く潰した。次期王太子妃として余りにも……余りにも、無責任だ!」
断罪の場。
それは奇しくも、私が聖女として力を授かった、屋敷内の祭壇部屋だった。
しかし、室内の様相はあの日と真逆。
血で汚れ、瘴魔が黒い霧となって大気を漂っている。
類稀な癒やしと奇跡の力を司祭たちに見抜かれた私は、あっという間に聖女として認められ、その報告を受けた王家から王太子の婚約者になるように取り計らわれた。
これまで浮気三昧だった父は、私の為に四方を駆けずり回って後ろ盾を取り持ってくださった。癇癪持ちだった母も、父が仕事に励む姿を見て精神的に前向きになったし、姉は良い婚約が結べたのは私のおかげと感謝してくださった。
何もかもが順調に動いていく私の周囲に反して、国は少しずつ瘴魔に呑まれ始めた。
流行病に村が滅び、疑心暗鬼で街は傾き、王都は災厄の足音に怯えてしまっている。
人々は求めていた。
瘴魔を祓う聖女と、国を導く王太子を。
病に倒れた子どもが目の前に運び込まれた事があった。
枯れ枝のような体は、人であるのかを疑うほどに細い。
聞けば、流行病で親を失い、碌に手入れもされない瘴魔に侵された畑では満足に農作物も実らないらしい。街道には魔物が巣食い、通る馬車を襲っている。
こんな状況では、いくら金があっても食料は買えない。
「偽りの聖女フィオナよ、お前は病で苦しむ子どもを見殺しにした!」
ギルバート王太子殿下の言葉に嘘偽りはない。
私は、子どもに癒やしと奇跡の力を使わなかった。
息を引き取るその瞬間まで、その枯れ枝のように細く小さな手を包んで涙を流す事しかしなかった。
創世の女神が太古に授けた聖なる印を模した信仰の証を握りしめて、沈黙を守る。
この胸の苦しみが、全ての罰なのだと信じるしかなかった。
「またダンマリか。自己弁護すらしないとは……お前は、どこまで……」
ギルバート殿下の歪んだ顔に胸が締め付けられる。
婚約が決まった日から、末端の貴族の二番目の娘という、社交界的にも何の価値もない私の事を常に気にかけてくださった。
さる高貴なご令嬢の悪意から常に私を守ってくださったし、沈黙を選んだ私に戸惑いこそすれど、悪意を向けるような事はなさらなかった……今日までは。
ギルバート殿下が、他に膝を突いていた私の肩を掴む。
いつもの彼らしくもなく、酷く青褪めた顔と怯えた声で叫んだ。
「フィオナ、頼むよ! なんで聖女の力を使わない!? そこにいるのは、お前の父と母だぞ! 何か言えよ!!」
末端の貴族でしかない父と母は、領地の民を守る為に兵を率いて魔獣との防衛戦に望んだ。
圧倒的な戦力差を前に、死の覚悟を決めた義勇兵たちの獅子奮迅ぶりは凄まじいものだった。鋼鉄に等しい魔獣に四肢を喰われ、その瘴魔を間近で浴びて呪毒に苛まれながらも、誰一人として死後も武器を手放す事がなかったという。
殿下にお会いする前に緊張していた父の顔は、もはや識別すらできない。
王妃にお会いして、下賜された化粧水を試した晩にはしゃいだ母は、その面影すら、どこにもない。
二人は、義勇兵を率いる為に最後までその場にいたのだ。
もう帰れない事を悟って、固く結んだ手に嵌めた指輪があったからこそ、二人だと判明した。
どうか二人に死後の安寧がありますように。
罪深い我らでありますが、二人は最期まで責務を果たしたのです。
祈る代わりに、聖印を握り締める。
幾度も握り締めた所為で、金属製にも関わらず、凹みや歪みが生じている。
「フィオナ、どうして母さんと父さんを見捨てるのっ!」
姉のリリーが殿下を押し除けて私の肩を掴む。
いつもなら義理兄のハルシオンが宥めるが、今回ばかりは昏い顔で目を背ける。
はにかみながらリリーの肩を抱いて挙式を挙げていた姿が蘇る。
言葉の一つも発さない私の事を疎んでいたのは薄々と気がついていたが、拍手する私を見て驚いていた。姉もその日は嬉しそうに笑っていたっけ。
父さんも母さんも揃って泣いていた。
治したいよ。私だって。
ちょっと祈れば、どんな傷も病も一瞬で消える。無かった事にできる。
奇跡の力を、聖女は持つんだ。
でも、それは使っちゃいけないんだ。
絶対に。絶対に。例え何があっても。
「フィオナ、教会から君に与えた『聖女』の称号を取り消すとの通達があった」
ギルバート殿下の深く沈んだ声。
出会ったばかりは美しい橙色のお髪も、覇気に満ちていた御尊顔も、すっかり翳ってしまわれた。
「僕は、君を愛していた。愛していた、つもりだったんだ。でも、王太子であるからには、聖女を妻に迎え入れないといけない」
ギルバート殿下のお言葉に、教会の最高責任者であらせられる教皇倪下が深く頷かれる。
「フィオナ、あなたのお力は一度たりとも振るわれていない。市井からその力を疑われている。聖女認定になにか不備があったのでは、不正があったのではないのか、と」
倪下の発言の裏に、どれだけの苦労があったのか。
推し量ることすら失礼なほどに、私の振る舞いは不可解で理不尽であった事は承知だ。
「フィオナ……偽りにして、沈黙の聖女よ。教会は汝に与えた称号を剥奪する」
聖印を握りしめた手から一筋の血が流れる。
聖女になりたかった。
誰も彼も救える、癒やしの力を分け隔てなく使うような心優しい聖女に。
どれだけ恐ろしい瘴魔と魔獣が襲い掛かろうとも、奇跡の力で退けて民を守れるような正義の聖女に。
万民に愛される清い聖女に。
今なら分かる。
なんて浅ましい願いだろうか。
なんて悍ましい願いだろうか。
なんて、身勝手で醜い願望。
命とは廻るもの。それを人の身と浅慮で阻んではならない。
正義とはあやふやなもの。絶対的なものは存在しない。
愛とは、無償で捧げるもの。相手の幸福を心から願う事。
愚かな私に、慈悲深き創世の女神は天罰を下した。
ギルバート殿下が一人の女性の肩を抱く。
「フィオナ、紹介しよう。彼女が後任の聖女となるレティシアーナ。公爵家の令嬢であり、血筋を辿れば聖女に連なる。王家と教会が二重で鑑定を行なった」
既に王妃教育を受けたのだろう。
嫋やかな手つきで、素人目から見ても完璧な淑女の礼をする。
「ごきげんよう、フィオナさん。初めてお会いしたのは、十五年前でしたかしら?」
私は何も言わず、聖印を握り締める。
「あなたは、本当に一言も喋らなかったわね」
レティシアーナ様とは、何度かお会いした。
私が教会で祈っていると、ふらりとやってきては、私の髪のツヤがない事や絶食に怒りを露わにしていた。
「フィオナさん、あなたは何を抱えているの?」
彼女の真っ直ぐな目が、私を見る。
優しく気遣う細い指に何度も聖印を手放しそうになった。
甘く柔い声に、胸の内に抱えた途方もない秘密を暴露しそうになった。
殿下と仲睦まじく言葉を交わす光景に、憎悪と嫉妬で頭がおかしくなりそうだった。
全ての責務を一身に背負う殿下の愚痴を受け止め、あるべき道に導くレティシアーナ様は私が夢にまで見た聖女の姿だった。
「……レティシアーナ様を、新たな聖女として任命する」
教皇倪下のお言葉に、私は地に臥した。
聖印を両手で握り、歯を食いしばる。
それでも、胸の奥底から、いや魂の奥底から湧いた絶叫を堪える事ができなかった。
「女神様、女神様、慈悲深き創世の女神よ。神託に従いました。貴女様が下した神託を成し遂げました。我らが聖女の過ちを、ようやく正せました!」
空を見上げる。
かつては創世の女神と天地創造を画家が描いた天井の一枚絵があった。
防衛戦によって崩れた天井から、瘴魔の雲を切り裂いて一筋の陽光が降り注ぐ。
その眩しさに目が眩み、激痛に視界が滲む。
【フィオナ】
創世の女神のお言葉に全身が震える。
一度ならず二度も名前を呼ばれた幸福な者は、私の他にいないだろう。
【よくぞ、我が神託を成し遂げました。癒やしと奇跡の力は、瘴魔を呼び寄せる悪魔の囁き。幾度も誘惑に耐えた貴女の名を、私はずっと忘れないでしょう】
女神様のお言葉に、みなが一様に驚く。
伝承では、聖女に癒やしと奇跡の力を施すのは女神の慈悲と記されている。
神託が下るその日まで、私もそう信じて疑わなかった。
【貴女に神託を与えたのは、必ず成し遂げてくれると信じたからです。フィオナ、幸せになりなさい。貴女の幸福を願う人は、貴女が思うよりも沢山いるのだから……】
瘴魔が陽光に清められていく。
その光景はあまりにも美しく、荘厳で、神聖だった。
この身に巣食う、偽りの癒やしと奇跡の力が、消える。
心を蝕む悪魔の囁きが、解けて溶けていく。
「ああ、女神様……」
この胸の内をなんと言葉にすればいいのか。
神託を罰だと思っていた己が恥ずかしい。
それすらも悪魔が堕落へと誘う罠であった。
惚けていた私は、駆け寄ってきたギルバート殿下や抱き締めてきたレティシアーナ様、姉のリリーや義兄ハルシオン、果てには教皇倪下に揉みくちゃにされた。
◇ ◆ ◇ ◆
女神様のお言葉を賜ってから数ヶ月後。
なんとか国は首の皮一枚で持ち堪え、建て直しの方向へ進んでいる。
悪魔の残した『聖女』という偽りの爪痕は、深く人々の心に残っている。
都合の良い夢物語に救いを求める人は多いけれど、ギルバート殿下とレティシアーナ様のご尽力で少しずつ緩和している。
どうやらあの場にいた全員が女神のお言葉を耳にしたらしく、特にギルバート殿下は事情を説明するまで離さないと私を抱きしめるから大変だった。
いずれ破局すると自分を律してエスコートからもやんわり逃げていた私にとって、殿下の纏う香水とか肌の温もりだけでも赤顔もの。
そこに更に教皇倪下や義兄のハルシオンが抱きしめてくるものだから、思わず絶叫してしまったのも、今では良い思い出。
「ふう、今日も耕した!」
汗を手の甲で拭う。
眼前には、何時間もかけて耕した畑が広がっている。
もう奇跡も癒やしもない、偽物の聖女の私は、罪滅ぼしも兼ねて経営者不在の孤児院を預かった。
ギルバート殿下もレティシアーナ様も、姉夫婦も、遊んで暮らしても怒られないだろうにと苦笑いをしていたが、何かしていないと退屈なのだ。
酷い前任者に心を閉ざしていた子どもたちはまだ私を警戒しているけれど、たまに物陰から様子を見に来ている。その姿が動物みたいで可愛い。
最近は年長の子が夕飯をお代わりするようになったので、きっとそろそろお喋りも楽しめるようになるかもしれない。その日がとっても楽しみだ。
「ああ! 聖女様、そんな畑仕事など私がやりますっ!」
「倪下に畑仕事なんてさせられませんよ」
「いえいえ、こう見えても下っ端時代は水汲みと畑仕事をしておりましたから!」
私の手から農具を掻っ攫った教皇倪下は、時々、仕事の合間を縫って孤児院を視察してくださっている。
力仕事を頼むと張り切って引き受けてくれるのだが、ご老体に障るので無理はしないでほしい。
「ところで、聖女様」
「はい、なんでしょう?」
「ギルバート殿下との婚約は、どうなさるので?」
ギルバート殿下は、私の意思を確認するまでは全て保留にすると根回しをしていたらしい。レティシアーナ様が後任の聖女になる件も、お二人で芝居を打って、私を試していたんだとか。本来なら軽く後任を匂わせて、私の口から事情を説明させるつもりだった、と。
その計画を聞きつけた教皇倪下のせいで、想定していたよりも大事になってしまったと珍しく愚痴を溢されていた。おかげで情報漏洩した侍女を炙り出せたと微笑んでいた姿は恐ろしいものだった。
「ギルバート殿下には、とても苦労をおかけしました。私のような何もない女では、彼の抱える重荷を分かち合う事もできません。婚約の件はお断りしようかと……」
ぞわり、と嫌な気配が。
倪下が『あとはお若い者同士で、爺は畑仕事を頑張ります』と退散する。その背中を追いかけようとした私を引き留める、すっかり聞き慣れてしまった二人の声が。
「あら、奇遇ですわねフィオナ。ところで、前回のお話は覚えておりまして? 王妃になれば、この孤児院経営をより良いものにできますのよ」
「おやおや、フィオナ。僕の重荷は部下が背負うから、君は何も心配しなくていいんだと何回、何千回、言葉で伝えれば良いのかな?」
「ひえっ」
レティシアーナ様は絶対零度の笑顔、ギルバート殿下は物凄い圧力の笑顔を浮かべている。
どう見てもお似合いのお二人なのに、義務感で元婚約者の私をどうにか元の位置に戻そうとしているのだ。
「フィオナ、わたくしは貴女をとても気に入っておりますのよ。その可愛らしくも凛としたお顔、ゆるふわカールの髪、まるでわたくしのお気に入りのプリンセスドールのよう……」
「最近になってますますフィオナの可愛らしさは増しているな。笑顔が増えただけでも“現”婚約者として嬉しい。今度、ささやかではあるが髪飾りを贈らせてくれ」
レティシアーナ様は、それはもう湯水のように私に化粧品を与えようとしてくるし、ギルバート殿下は些細な変化に気がついて褒め殺してくる。
二人は嵐のようにやってきて、お付きの従者に急かされながら嵐のように去っていく。
その背中を見送って、私はようやくほっと一息を……
「聖女のおねーちゃん、ギルバートさまのこと、好きなんでしょ」
「…………」
いつの間にか足元にやってきた孤児院の女の子が、私の顔を覗き込んでいた。
年長さんで、しっかり者なのか、たまにタオルを畑仕事の終わりに持ってきてくれる子だ。
「おねーちゃん、顔真っ赤だよ」
私は何も言えず、顔を覆って地面に崩れ落ちた。
その私の頭に、孤児院の女の子がポンポンと撫でる。
「ダメだよ、おねーちゃん。おうじさまがグイグイ押してくれるからって、それに甘えちゃ。愛は伝えられるうちに伝えないとだめって、女神さまが言ってたでしょ」
ぐうの音も、出なかった。
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「偽りの聖女は語らない」(恥ずかしいので、まだ婚約を承諾する返事ができない)
教皇倪下おじさんは仕事を抜け出してますが、事前に仕事を前倒しで片付けてから来ています。孤児院の子どもたちからは話が長いおじちゃんとして有名。




