記憶がなくなるその前に
作家としての私の記憶は24時間しか持たない。
病気ではない。医者にも相談したが、そういう性質なのだと言う。毎日記憶喪失になるわけではない。人物名も様々な知識も抜けることはあれど、思い出すことはできる。日常生活には支障はない。問題は創作活動だ。
1枚の絵があったとする。お題を玉ねぎとしよう。
私はもちろんお題に従って根の方から丁寧に書き上げていく。5時間も書いたところで身の半分くらいまでは書けるだろうか。それだけ書けばかなり疲労が貯まるのでその日は筆を置く。
問題は次の日だ。
さて続きを書こう。筆を取る。お題は玉ねぎであったな。
身の半分くらいまで書き上げた玉ねぎを見て首を傾げる。
「はて、私は何を書いていたのか。」
その絵を見ても、もう私には玉ねぎを書くことはできないのである。たしかにそれは書きかけの玉ねぎだし、玉ねぎという植物を認識することもできる。でも分からないのだ。果たしてこれはなんの絵だろうかと自問自答する。そして筆を置く。もうその絵が完成することは未来永劫ない。
これは小説でも当てはまる。
多くの作家は何ヶ月もかけて十万文字を書き上げる。相当な労力だろう。素晴らしい力作揃いだとも思う。
だが、私にはそれが出来ない。
1日にかけるのはせいぜい一万文字。それを生活時間を抜いた5時間程度で書き上げなければいけない。どうしてもその日のうちに書き上げられないという場合。大量のメモを用意する。それでもその小説のエンディングは変わってしまうことが多い。主人公を殺さない予定が殺す予定に変わるのは予定変更どころの騒ぎではないだろう。
それでも作家を辞めないのはやっぱり執筆活動が好きだからだ。言葉を紡ぐのはとても楽しい。難しい言葉を調べるのは面白い。他の作家さんの作品を読むのも楽しい。
だけどもし、記憶の持ち方が違ったのであればまた違った文章を書いたのであろうかと思う。
どうあがいても治らないものは仕方ない。
今日も私は変わらず筆を取る。