殺しの美学
愛は直接伝えるべきだと前項で述べたが、行き過ぎた愛はどうなるのかと言うことが問題として出てくる。
行き過ぎた愛は殺意を通り越して狂気となる。
好きで好きで愛して愛されて最後は緩やかに終わりを迎える。これが恋愛というものだ。結婚だ、子育てだは関係ない。あれは情というものが発生して生まれるイレギュラーだ。恋愛の終わりはいつでも報われない。別れるか別れないかとかでもない。緩やかにどちらからともなく終わりを迎えるのだ。
だが、それに当てはまらなかった場合。
行き過ぎた愛が狂気、もしくは殺意で留まってしまった場合。
ここで初めて人は相手を殺すという手段を考慮する。
それは私の作品を読んでいただけた方ならよく分かるだろう。
愛したから私だけのものにしたい。俗に言う独占欲だ。人間は欲に溺れなければ生きていけない。私を見て、私だけを愛して。そうでなければ、どうぞ私の手で息の根を止めてとなるのだ。
極論かもしれない。生憎、私は幸せな恋愛を知らない。付き合ってる間あなたといれて幸せだというのは、果たして幸福だろうか。相手を殺したい、相手の人生を破壊したいと思う事こそが最上級に幸せな恋愛だと思う。ちなみに、最後に付き合った恋人は失踪したし、その前の人は音信不通に仕立てた。
私の殺しの美学は、この恋愛観から来ている。
愛のない殺しは美しくないのだ。自分の手でその命を刈り取る事が最も美しい殺しである。憎悪からの殺人があるがあれは最もポピュラーで最も美しくない殺しである。じゃあ、無差別が美しいか?そうではない。無差別でも美学がなければそれは美しい殺しにならない。殺しを是としているわけではない。この世で一番やってはいけない犯罪だ。倫理的には悪である。もちろん推奨しているわけでもない。でも、この愛のある殺しを美しいと思う人物がいるのも事実だ。現に560人の私の読者はその物語を必要としたのだから。
毒殺もまた美しくない。『アコニツムの紫色』では最後は片刃ノコによる失血死が直接の死因だ。誤解を招く書き方しかできないのは偏に私の文章力のなさである。ミスリードといえば聞こえはいいが、そうではない。毒はあくまで必ず殺すための技。つまり必殺技である。必殺技ではあるが決め手ではない。物語の重要なものではあるが、それが原因ではないという具合である。
愛と殺し。一見遠くのものに見えてもその本質はつながっているのだ。そして、必ず自分の手で殺すというのが私の殺しの美学。
美しい殺しは己の手を汚すものである。