うちへ帰る
やがて山の入り口に着く頃、わたしたちは藪の前で立ち止まった。
昔はよく、この辺りの山へ入って遊んだものだ。その時より背もだいぶ伸びたはずなのに、草木は一層高く生い茂っているような気がした。もしかすると、土地に子供がいなくなれば森は深くなるのかも知れないな、と何だか唐突に思った。
「おめえはもう帰れ。ここまででええ」
そう言ってじいちゃんはわたしの手からツルハシを奪い取ろうとその柄を掴んだ。その力は強く、しかしわたしは負けじと手を離さない。
「この辺りに埋めればよくない?穴掘るの手伝うからじいちゃんも帰ろう?」
「よくねえ、だめだ。俺は大丈夫だ」
何が駄目で、何が大丈夫なのか、わたしにはわからない。老人は頑固だ。人にはあれをするな、これをするなと言うくせに何故か自分だけは大丈夫だと思ってる。自分を老人だと思ってる老人はいない、とお母さんが前に言っていた言葉を思い出す。
いよいよ強引にツルハシをもぎ取られそうになり、こうなれば泣くしかないとわたしは心に決めた。孫に泣かれて無視できる祖父がいるだろうか。わたしはツルハシを握ったまま、泣いているふりをしようとうつむく。肩を震わせ、嗚咽を絞り出すとじいちゃんの力が一瞬弱まった気がした。チャンスだ。崩れ落ちるように地面に膝をつき、そのまま泣き真似を続けると、じいちゃんがそっとツルハシから手を離したのがわかった。やった。大成功だ。わたしは女優になれるのではないか、と心の中で賞賛した時、頭の上からじいちゃんの声が聞こえた。
「日奈子、だまれ」
だまれ、ってひどくない?と思いつつ、その低く、圧し殺した声に何かを感じて顔をあげる。じいちゃんは藪の向こうの暗闇を睨みつけていた。
何?
わたしの不安と同調するように、ぺテロがケフン!と一声吠えた。この鳴き方。嫌な鳴き方。暗闇の先を見る。茂みが揺れる。風じゃない。枝を踏む音が聞こえた気がした。
何かがいる。
じいちゃんがわたしを制すように手をかざしながら、ゆっくりとポケットに手を入れた。その仕草の意味する事が、わたしには信じられなかった。ぺテロを繋いだリードをぐるりと手に巻き、冷たいツルハシの柄を握りしめた。
こちらに近寄ってくる音がする。枝がバキバキと折れる音。その間隔がどんどんと速くなっていく。ちょっと、嘘でしょ。
大きな何かがこちらに向けて駆けてくる。
じいちゃんがポケットをまさぐる。明らかに手間取ってる。そんなところに入れるから。次の瞬間、勢いよくポケットから引き出したスプレーは手からすっぽ抜け、空中に可愛らしいイラストの熊がくるくると回転しながら舞った。
考える間も無く、茂みからすごい勢いで巨大な何かが飛び出した。大きな影。およそ、先ほどのスプレー缶のイラストとは似ても似つかない姿。その巨体が覆い被さり、じいちゃんはたちまちに引き倒された。頭に着けたライトが暴れ、暗闇を右に左に照らす。黒い影はその光の中でも尚黒く、じいちゃんの姿はすっぽりと 巨大な体の下敷きになり見えなくなった。
熊。どうみても熊だ。
わたしは手にしていたツルハシを握りしめていた。なんとかしなきゃ。そう頭では思っていても、わたしの体は動かなかった。ツルハシが重い。一歩も動けない。熊の体の下でじいちゃんの頭のライトの光が揺れる。
――じいちゃんが死んじゃう。
そう頭によぎった時、わたしの視界の端から白い影が飛び出した。
それが一瞬ぺテロだとわからなかったのは、今までに聞いたことのないような唸り声を出していたからだ。体を震わせ、牙を剥き出しにして、ぺテロは必死に熊の喉元に食らいつく。まとわりつくぺテロを振りほどこうとするように、熊は一瞬身を起こして立ち上がった。じいちゃんは体を縮めてうずくまり動かない。同時に色んなことが押し寄せて、わたしは何もわからなくなった。手にもったツルハシの感触は冷たく、重さしか感じなかった。こんなの振り回せる気がしない。狙いが外れればじいちゃんかぺテロに当たっちゃう。
わたしはツルハシから手を離した。体が一気に軽くなった気がした。うずくまり、必死に手であたりの茂みを探る。無い。暗くてわからない。確かこの辺にスプレーは落ちた。無い。無い。全然無い。
熊はぺテロを振り払うように体をブンブンと振った。ふき飛ばされ、地面に打ち付けられたぺテロはそれでも負けじと、再び熊に飛びかかる。
ぺテロ、頑張れ。
ぺテロ、頑張れ。
わたしはそう何度も心の中で唱えながら必死に足元をまさぐる。暗くてわからない。じいちゃんも、ぺテロも、死んじゃう。はやくはやく。焦れば焦るほどわけがわからない。涙で視界が滲み、余計に見えない。やっぱり来なければ良かった。いまさらほんとに泣いても遅い。じいちゃんが死んじゃう。わたしは馬鹿みたいに藪にうずくまってるだけだ。ぺテロも死んじゃう。あの鹿の足が憎い。足を捨てた鹿撃ちが憎い。なんでわたしたちがこんな目に遭わなければならないのだろうか。頑固なじいちゃんも憎い。馬鹿なぺテロも憎い。涙がいよいよ止まらなくなり、わたしは突っ伏するように茂みに――
光が照らした。涙で滲んだ明かりの先で、じいちゃんの頭のライトがわたしに向けられていた。眩しくてよく見えない。じいちゃんは倒れたまま、頭だけを動かして何かを訴えていた。
わたしの真後ろ。明かりが示す見当外れの茂みの影に、その真っ赤な色のスプレー缶は照らし出されていた。這うようにそれを拾い上げ、わたしはトリガーに指をかける。まるでさっき見た刑事ドラマの犯人みたいに、不恰好にその銃口を熊に向けて構えた。
あれ?違う、これ、どこ狙えばいいの?
じいちゃんと熊とぺテロは、いまや団子になって揉み合っていた。じいちゃんはぺテロに加勢しようと倒れたままスコップを振り回している。熊、熊だけ狙わないと。いや、それは無理。頭が回らず、何も考えられない。はやく、はやく、しないと。これ、大丈夫だよね?死なないよね?
考えるのをやめたわたしは、スプレーを、じいちゃんとぺテロと、巨大な熊に向かって噴射した。
わたしが思っていたよりも、遥かに激しい勢いで白い霧が吹き出す。熊に襲われていながら叫び声もあげなかったじいちゃんが、うおおお、と呻いた。それまで勇敢に戦っていたぺテロが鳴き声をあげ、尻尾を巻いて藪の中へ逃げる。肝心の熊には効いているのかいないのかよくわからない。煙から逃れるようにうつ伏せに転がったじいちゃんの背中に熊が覆い被さる。
わたしは見た。熊がじいちゃんの背中から麻袋を引きちぎるのを。まるでそれだけをはじめから狙っていたみたいに。袋を咥えた熊はすぐに踵を返し、悠々と藪の中へ姿を消す。
後に残されたわたしは、じいちゃんに駆け寄った。目尻を押さえながら苦しそうに呻いてはいるが、服のあちこちが破けているだけで怪我はない。尻尾を垂れ下げたぺテロが、とぼとぼと茂みから姿を見せた。
「いてえいてえ」と珍しく弱音を吐くじいちゃんの手を引き、ピーピー鼻を鳴らすぺテロをむりやりに引きずりながら、山道を引き返す。ごめんね、ごめんねと何度も謝りながら、わたしは暗い山道を下った。
じいちゃんにもぺテロにも不思議とケガは無い。むしろ、わたしが噴射したスプレーによる被害が一番大きい、というかその被害しかない。
じいちゃんの長靴は熊に襲われた時にどこかへ飛んでいったのか、片方だけ無い。あのカポカポと鳴る、間の抜けた音はもう聞こえなかった。
こうして鹿の足は山へ戻り、わたしたちは家に帰った。
◇
余談がある。
あれから数日経った後でお母さんが教えてくれた事。
わたしたちが山へ向かった夜、ばあちゃんは何故かずっと玄関に座り込んで動かなかったらしい。きっとじいちゃんの帰りを心配して待ってたんだね、とお母さんは言った。しかし、家にたどり着いたじいちゃんは一目散に洗面所に向かい顔を冷やしていたから気付いていなかったけれど。いや、もしかしたらあのじいちゃんの事だから知ってて知らない振りをしているだけなのかもしれない。今度聞いてみよう。
ばあちゃんは春になって施設に入った。ほとんど気配の無かったばあちゃんだけれど、その不在は一層の静けさを家の中にもたらした。じいちゃんは相変わらず、いつでもずっと不機嫌そうにしている。
ばあちゃんに会いに施設へ行った時、わたしはひとつだけ、あの夜にじいちゃんが言った言葉に嘘を見つけた。正確には嘘じゃなくて、受け取りかたの違いかもしれない。それが、あえて、かどうかは知らないけど。
その日、ばあちゃんは珍しく目の輝きが違った。ベッドの脇に座るわたしを捉える視線ははっきりとしている。言葉をいくつか交わした後、わたしは何となく、気になっていた事を聞いてみた。ばあちゃんの耳に口を寄せ、なるべくゆっくり、はっきりと喋る。
「ねえ、ばあちゃん。『かくも蹄の鳴る夜は』……ってどういう意味?」
しばらく、何かを思い出すようにキョロキョロと瞳を動かした後、ばあちゃんは懐かしい感じのする優しい口調でこう言った。
「季節と……季節の境目にはな、おかしな事がよく起こるべさ、はやくうちさ帰れ、ってことだわな」
続けてばあちゃんは、まるで怖がる子供を諭すようにこう言った。
「うちさいれば、安心だかんな」
◇
あ、余談ついでにもうひとつだけ。これはあの事件とは全く、関係ないけれど。
わたしはその日、庭ですっかりすねているぺテロのご機嫌取りをしていた。どうやらわたしが噴射したスプレーをいまだ根にもっているらしく、犬小屋にこもったまま全然出てこない。
何度も謝っているのにまったくへその曲がった奴だ。わたしは諦めて家に入ろうと立ち上がったがその時、何かが目の前をかすめ、犬小屋に当たって飛び上がり、空になったぺテロの銀の皿にすっぽり収まってカラン!と派手な音を立てた。
食べ物が飛んできたのかと身を乗り出すぺテロを制し、お皿の中を覗き混む。
中には黒い塊がひとつ。
おそるおそる指でつまみ上げたその物体は、少しだけ暖かい。太陽に透かすようにそれを見上げる。信じられない。わたしは思わず声に出して呟いた。
「……鉄砲の…弾?」
〈終〉