山へ
夕飯も食べずにじいちゃんは納屋からスコップやらツルハシやら、ありとあらゆる物を引っ張り出している。そのどれもが古ぼけて、所々は錆び付き、いかにも頼りない気がしたが、じいちゃんは黙々と身支度を続けていた。
昔から、わたしにとってじいちゃんの納屋は何でも出てくる秘密の場所だ。用途のよくわからない道具から、仕事の機械、昔の本や写真、果ては錆びだらけの古い鉄砲まで、そこにはじいちゃんの歴史が無造作に押し込まれていた。
畑から掘り出した鹿の足は布を巻き、ビニールシートにくるまれ、さらに麻袋に何重にもして地面に置いてある。もっとも、あれがそもそもただの鹿の足だったのかどうか今では怪しいとわたしは睨んでいた。
土に埋めた、ただの死体の一部。それがよくわからないものを引き寄せている。あんなに虫や動物が集まることがあるだろうか。異常だ。おかしい。変だ。
昨日に引き続きほとんど箸を付けずに夕飯を済ませたわたしは玄関に座りながら、黙々と身支度をするじいちゃんの様子を見守っていた。
じいちゃんはスコップを背負い、頭にはバンドで固定された工事用のライトを着け、見ようによっては宝探しに出掛けるみたいにも見える。
無言で淡々と身支度をするじいちゃんは真剣だった。ポケットにグイグイとスプレー缶を押し込むのが見えた。赤い背景に、可愛らしい熊が泣いて逃げるイラストが描かれているその缶は、熊撃退スプレーだ。そうまでして、何故にこれから山に入らなければいけないのだろうか。じいちゃん曰く、山の物は山へ返さなければならない、ということらしいが正直意味がわからない。日が落ちれば鹿撃ちはいなくなる。じいちゃんは今から山へ入り、誰の目にも届かない山奥へ鹿の足を埋め直すらしい。
準備ができたのか、じいちゃんは行ってきますの言葉も無く、足の入った袋を担ぎ歩き出した。
わたしは急いで靴を履き、その後を追う。
何だか不安な気がした。こんなのはおかしい。あんな鹿の足一本で、どうしてわたしたちがこんな目に遭わなければならないのか。夕暮れの最後の名残が遠くの山合を紫色に染めていた。嫌な色。とても不吉な色。
じいちゃんがわけのわからないものに飲み込まれて行くような気がして、わたしは必死でその後を追った。
「じいちゃん待って!わたしも行く!」
その呼び声にじいちゃんは立ち止まり振り向いた。その表情は暗くてよく見えない。知らない人がそこに立っているような気がして、わたしは少しだけ怖くなった。
「馬鹿こくな。帰れ」
そう言ってじいちゃんは再び歩きだそうとする。
「じゃあ途中まで。重いでしょ」
じいちゃんが片手に持った小型のツルハシを強引に奪う。問答無用で追い返されると思ったが、じいちゃんは少し考えるように黙った後、暗闇に沈む我が家の明かりを顎で指して言った。
「したら懐中電灯と、バカ犬さ連れてこい。帰りは暗えぞ」
「わかった。ちょっと待ってて」
わたしは急いで家に引き返し、満足そうに夕飯後の眠りを堪能しているぺテロを無理やりに起こした。文句を言わんばかりに片目をちらりと開けて、うらめしそうにわたしを見る。
ほら、散歩いくよ、散歩、散歩、と連呼すると、寝起きだというのにぺテロは嬉しそうに飛び起きた。単純なやつだ。騙すみたいで可哀想な気もしたが、元はと言えばぺテロが持ち込んだ厄介事だ。これくらいの罪滅ぼしはしてもらわないと。
玄関のドアをそっと開き、下駄箱の上に置かれた懐中電灯をこっそり拝借する。お母さんにバレるとめんどうなので、わたしは息を潜めて
玄関の扉を閉め、急いでじいちゃんの後を追った。
すでにじいちゃんは暗闇の中へ歩き出していた。その背中はなんだか昔よりも小さくなったような気もする。どう考えてもじいちゃんがこんなよくわからない事で危険な目に遭うのはおかしい。何とか言いくるめて途中で引き換えさせよう、とわたしは心に決めた。
山への道は暗く、静かだった。と言ってもここら一体もすでに山であることに変わりはない。この先にある勾配が急になる獣道、そこから向こうが土地の人が言う『山』だ。
わたしたちは並んで歩く。
じいちゃんの履いた長靴は底のゴムが剥がれかけているのか、歩く度に空気が漏れる間の抜けた音がカッポカッポと鳴った。苛立つようにじいちゃんは長靴を脱ぎ、地面に何度か叩きつけ履き直す。が、しばらく歩くとまたその音が鳴りはじめた。
ぺテロの荒い鼻息の間に響くその音を聞いていると、ばあちゃんが昨日呟いた言葉が自然に頭に甦る。なんだっけ、たしか……かくも……ひづめの……
「かくも蹄の鳴る夜は」
まるでわたしの頭を覗いていたみたいにじいちゃんがぽつりと呟いた。すごい。こう言う事ってなんだか嬉しい。誰かと、まったく同じことを考えている瞬間。
それ、どういう意味?と興奮気味に尋ねたわたしとは裏腹に、じいちゃんは淡々と、低い声で答えた。
「別に意味はねえ。今時分の話だ。冬は土がかてえから蹄の音がよく鳴る。馬やら牛やら……鹿やら。だが雪が積もればいよいよ音はしなくなる。雪が積もる前の一番さみい夜ば昔はそう言ったもんだ」
なるほど。言われてみれば足の下の地面は硬い。じいちゃんの長靴は別として、私たちにも蹄があればカッポカッポと小気味良い音が響くのかもしれない。土をわざと強く踏み締めながら、へー、やっぱりさ、じいちゃんもばあちゃんもさ、物知りだよね、と感心するわたしを尻目にじいちゃんは、独り言のように闇に向かって呟いた。その言葉は何気無さとは裏腹に、わたしの胸に突き刺さった。
「そったらことばっか覚えててもしゃあねえべな。もう俺の事もわからんくなったくせしてよ」
そして、じいちゃんは黙った。
わたしも黙った。
長靴の間の抜けた音だけが響く。
ばあちゃんの事を言っていた。知らなかった。ばあちゃんが、じいちゃんの事をわからなくなってたなんて、わたしは、全然気付かなかった。
じいちゃんは昔から、いつも怒っているみたいに振る舞う。眉間にしわを寄せ、どんな時でもまるで不機嫌に見える。
でもそれは別に、わたしや、お母さんや、他の誰かや、ましてばあちゃんに対して怒ってるわけではない。それが何となくわかっていたから、じいちゃんの事を怖いと思ったことは一度もない。だけど、何に対してそんなに怒っているのか、わたしにはずっとわからなかった。
じいちゃんは背負った麻袋を忌々しげに担ぎ直し、黙々と歩く。その歩みは明らかに昔よりも力無い。
ばあちゃんがおかしな振る舞いをすると、じいちゃんはいつも叱りつけるようにして怒鳴った。何について怒られているのかわかっていないばあちゃんは、恥ずかしそうにうつ向くだけだ。わたしはその姿を見る度に胸が締め付けられた。ばあちゃんが可哀想だと思った。じいちゃんをひどいと思った。
じいちゃんはきっと、見えない何かに対して怒っているのかも知れない。突然変わる天気とか、時間とか、どうにもならない病気とか、老いとか、ばあちゃんの頭の中の何かとか。それこそ、今背負ってる鹿の足の意味不明さとか。よくわからないけど、何かそういう、得体の知れないものすべて。
月が隠れ、辺りに一層深い闇が落ちた。じいちゃんは頭のライトをまさぐり明かりを点ける。光が眩しくて表情はよく見えなかったけれどその横顔は、負けるものか、と歯を食い縛っているように見えた。