帰り道と晩御飯
最初にそれを見つけたとき、漫画みたいに腕を振り回しながらわたしは後ずさった。
通学路とは名ばかりの、人気の無い雑木林の帰り道。ほとんど山道と言ってもいいその林の茂みが何かの気配でガサガサと揺れた。
夕暮れの始まりはいつも、少しだけ怖い感じがする。頭の上で響くカラスの鳴き声と、枯れ木の間を吹き抜ける風の音。何かが林の影からこちらを見ているような気がして、わたしは自然といつも早足になった。
だから、このお迎えはありがたい。気が早いけど、家に帰ってきたという気持ちになる。あいつがノミとダニだらけじゃなければもっと良いんだけれど。
どこで遊んできたのか、茂みから現れたぺテロは、いつも通りわたしを見つけて嬉しそうに走りよって来た。
夕暮れ時になるとじいちゃんが、散歩がてらにわたしを迎えに行け、とぺテロを勝手に放す。わたしの日常。何度も繰り返す、いつも通りのお迎え。
ただその日、ひとつだけ違っていたのはぺテロの白く、フサフサの体が何だか黒く見えたこと。もっともこいつはいつも泥だらけで、元が何色かわからないほど常に汚れていたから、特段おかしいとは思わなかったけど。
耳を寝かせ、嬉しそうに走りよってくるぺテロは何かを咥えていた。まるでその何かをわたしに自慢しようとでも言うように、得意気な顔をして向かってくる。それを迎えようと腰を屈めていたわたしは、異変に気付き立ち上がる。
あいつ、何か、変じゃない?
日が暮れかけているとはいえ、ぺテロの周りは影をまとっているかのように一層暗い。目を細め観察する。首筋が冷たい手に撫でられたようにざわざわとした。この音。自然と身の毛がよだつこの音。ちょっと、やめて。
その正体に気付いたわたしは後ずさり、背中を向けて駆け出す。走って逃げるわたしと、それを楽しそうに追いかけるぺテロ。
山道に響き渡るほどの悲鳴をあげながら全力で走る。ぺテロは体中にたくさんの黒い虫を集らせたまま、追いかけてくる。寂しい夕焼けの帰り道は、一辺して絶叫の追いかけっこに変わった。
結局、家に着くまでそのドタバタは続いた。庭に出ていたお母さんもぺテロの様子を見て同じように悲鳴をあげ、晩御飯前の静かな時間は大騒ぎになる。
わたしたちが上げる大声にさらに興奮していくぺテロは口に咥えたままの何かをブンブンと振り回して暴れまわる。家の中に退避したお母さんが、窓の隙間から助けを求めて叫んだ。
「じいちゃん!じいちゃん!」
その危機迫った呼び声とは裏腹に、じいちゃんはのっそりと納屋から顔を覗かせた。うるせえな、と言わんばかりに眉間に皺を寄せ庭を見渡す。暴れるぺテロを見て面食らった様子ではあったが、すぐに咥えていた何かを強引にもぎ取り、群がるハエを躊躇なく手で払った。
「バカ犬!どっから持ってきた!」
じいちゃんの怒気に負けじと、ぺテロが奪われたそれを取り返そうと飛びかかる。が、頭を一撃はたかれ、すぐに降参するように地面に伏せた。それでも、じっ、とうらめしそうにじいちゃんを見上げている。隙があれば奪われた物を取り返そうと機会を伺うぺテロから、じいちゃんはそれを遠ざけるように高く掲げた。
夕焼けに照らされて赤く染まるその物体は、わたしにはまるで作り物みたいに見えた。およそ、生き物の一部だったという実感とは結びつかない。
短い茶色の毛に覆われた動物の足。その先端には大きな蹄が黒光りしている。多分、鹿の足。夕日のせいだけじゃなくてそれは実際、乾いた血がこびりつき赤黒く染まっていた。
「日奈子!犬つないどけ!」
そう言ってじいちゃんは犬小屋を指差す。
え?わたしがやるの……?
未だ、散ったとは言え無数のハエがぺテロの周りを舞っている。おまけにバカ犬は口の端についた真っ赤な血を舌でベロりとぬぐった。
最悪……。
お母さんはいつの間にか、逃げるように台所に姿を消している。茶の間の窓際ではばあちゃんが、そんな騒ぎを見ていたのか見ていなかったのか、ただボーッと置物のように座っていた。
◇
「ありゃ、どっかの鹿撃ちが捨ててったんだべや」
夕飯の食卓を囲みながらじいちゃんは言う。外にはすっかり日が落ち、テレビではいつも通り天気予報が流れていた。わたしは先ほどの鹿の足が頭をちらついて、なかなか食事に手をつける気にもなれず、箸で芋の煮付けを転がしながらじいちゃんの話を聞いていた。
「でも何で足だけ捨ててくの?」
「知らん。トラックに積めんかったんかもな。いいからしばらく山さ近づくな。流れ弾飛んでくるど」
「流れ弾って……。鹿いるのって山奥の方でしょ。そんな危ないとかなくない?」
会話を聞いていたのかお母さんが台所から顔を出して言った。
「ほら、あのお前の同級生の山田くんのおじいちゃん。何年か前にそこの道で倒れて亡くなったじゃない?散歩してたら山から鉄砲の弾飛んできて、頭に当たって亡くなったって噂よ。今時期は危ないんだから。気を付けなさいよ」
それだけ言ってお母さんは忙しそうに台所に再び引っ込む。
嘘だ。そんな話あるわけない。山田のじいちゃんは何度か見たことあるが、鉄砲にやられなくても余命いくばくという感じだった。あのじいちゃんなら鳥のフンが頭に直撃しただけでもポックリ死にそうだ。
「とにかく、山には近付くでね」
そう言ってじいちゃんは口をつぐみ、明日の天気予報を眺めた。ボリボリと漬け物を噛む音だけが食卓にこだまする。
あの鹿の足はじいちゃんが埋めたらしい。何処に捨てたのか尋ねると、じいちゃんは家のすぐ脇の畑だとこっそり教えてくれた。
冬が近づくと地面は固く、草の根も張っていて穴を掘るのは億劫らしい。よく映画なんかで死体を埋めるのに穴を掘っているけど、実際はそんなに簡単ではないのかも知れない、となんとなく納得した。
家の脇の小さな畑は昔、ばあちゃんのものだった。育てたトマトやオクラなんかを、わたしによく食べさせてくれたのを覚えている。
だけどいつの頃からか、ばあちゃんはまったく興味を無くしたように畑は放置され、荒れた。今ではお母さんが引き継いで、何やら色々植えているけれど、あの時のキラキラした感じは不思議ともう無い。
「畑さ埋めたの母さんには内緒だぞ」とじいちゃんはわたしに耳打ちしたが、どうせならわたしにも内緒にして欲しかった。あの鹿の足は土に混ざり、養分になり、廻り廻って春には何かに形を変えてわたしの口に入る。遠い話だけれど、そう考えるとますます食欲が無くなった。
ばあちゃんは黙々と箸を動かし、じいちゃんとは対照的にまるで置物のように食事を進めている。全部丸のみしているのではないかと思えるほど噛む音がしない。
ばあちゃんは認知症だ。痴呆ともいう。まだトイレや食事は一人でできるけど、それも難しくなれば施設に入らなくてはならないらしい。
わたしはやっと一口、おかずをつまみながらそんなばあちゃんの姿を盗み見た。昔からもの静かで、一見するとあまり変わってないようにも思えるけれど、確かに異常なほど口数は減った。ばあちゃんのことは好きだし、ばあちゃんが家から居なくなる時が来るなんて信じられない。でもたまに、ほんのたまに、何だか別人が家にいるみたいで少しだけ怖い気持ちになることもある。
ちょっと日奈子、と再び台所から顔をだした母と目が合った。
「あんたぺテロにご飯あげてよ」
そう言ってお母さんはわたしに銀の皿を差し出した。
「やだ、あいつに近づきたくない。お母さんあげてきて」
「お母さんもやだよ!」
食卓の風景を反射して映す窓の向こうで、夕飯を心待ちにするぺテロが覗いてる。先程の事件のおかげで避けられているとはつゆ知らず、無邪気にご飯を心待ちにして目を輝かせていた。
その顔を見ているとなんだか可哀想な気もしてきたが、嫌なものは嫌なのだ。
「日奈子!」
母に促され、わたしは渋々立ち上がった。
窓際に近づいただけでご飯の気配を察したのかぺテロは尻尾を振り、つぶらな瞳を爛々といっそう輝かせる。
わたしはぺテロに絶対に触れないよう事を済ませようと、窓を少しだけ開き、僅かなその隙間からむりやりに皿を押しだそうとした。が、待ちきれないぺテロが身を乗りだし、わたしの腕に飛びついた。
銀の皿が手から落ち、大きな音を立てて転がる。
「日奈子! 何やってんの!」
ひっくり返ったご飯に食らいつこうと、ぺテロが家の中に上がり込もうとする。泥だらけの足が床を汚し、お母さんは再び大騒ぎをはじめた。
じいちゃんは我関せず、と母さんの叫び声に負けず劣らずボリボリと大きな音を立てて漬け物を食べ続けている。
あんた、もういいからご飯たべなさい、とお母さんに怒られ、わたしは食卓に戻る。今日は散々。主にぺテロのせいだ。いや、巡りめぐってどこかの無作法な鹿撃ちのせいだ。
開いた窓から入り込んだ風の冷たさのせいか、家の中は少しだけ寒い。明日は天気予報通りに雪が降るかも知れないな、と思いながらわたしはいよいよ夕飯に箸を伸ばす。
「かくも」
突然、ばあちゃんが出し抜けに何か言った。
じいちゃんの漬け物をかじる音が止まった。お母さんもひっくり返ったご飯を掃除する手を止める。茶の間に一瞬の沈黙が流れた。
ばあちゃんが何かを訴えようとしている。声を聞くのはいつぶりだろうか。わたしはその言葉を聞き逃すまいと、口元に耳を寄せた。
「かくも……」
かくも?何?
「 ……なる……」
ばあちゃんはまるで寝言のように、むにゃむにゃと口を動かしている。目も開いているのか閉じているのかわからない。
「ばあちゃん、何?」
本当に寝言なのでは、と思った次の瞬間、急にわたしの耳元でばあちゃんはご飯粒を撒き散らしながら咳き込んだ。驚いたわたしを尻目に、それきりばあちゃんは本当に眠ったように動かなくなった。
「ばあちゃん……?」
しばらくの沈黙の後、じいちゃんが漬物をかじる音が再び響きだす。ご飯をいよいよ待ちきれなくなったぺテロが窓に体当たりをし始め、お母さんが本気で怒り出した。
動かなくなったばあちゃんを横目に眺めながら、わたしも諦めて食事をはじめる。テレビではバラエティ番組が賑やかな音を立てて始まり、じいちゃんが苛立たしげにリモコンを探していた。
遠い世界の出来事みたいに聞こえるテレビの笑い声を聞きながら、しかし、わたしの頭の中には微かに聞き取れたばあちゃんの言葉が回っていた。
じいちゃんに負けじと漬物の音を立てながらも、わたしは断片的な言葉を頭の中で繋ぎ会わせる。かくも……ボリボリひづめが……ボリボリなる……ボリボリ。
リモコンをやっと見つけたじいちゃんが、テレビを消し、家の中には再び沈黙が降りた。
意味はわからないけれど──
『かくも蹄の鳴る夜は』
わたしには確かに、そう聞こえた。