イベント
愚痴を聞くテンションで聞いていた結衣に、答えはすぐに出てこない。
「ちょっ、と、待って、梶原さん」
「うん」
「あの……、真面目な話?」
「うん」
どうやら、結衣の予想に反して、梶原の悩みは結衣にも起因しているらしい……。これは、真剣に答えねば。
「ずっとって、それは、いわゆる、ずっと?」
「他に、どんな『ずっと』があるの?」
梶原は、結衣の目を見ながら、言葉を選ぶ。この答え次第では、梶原の悩みは全て、無意味で無駄な時間だったということになる。
結衣はもう一度、梶原の言葉をのみ込み直す……。
自分の年齢、仕事のこと、母の事……。結婚はしたい。できることなら子供も欲しい。
そして何より、今まで1人でいて寂しいと感じたことがなかった自分が、梶原との時間を知って、会えないことを寂しいと思う様になったこと。
やっと答えが出てきて、結衣は膝の上で両手を揃えた。
「私も、梶原さんと、一緒にいたいです」
結衣の真剣なまなざしに、梶原はグッと奥歯を噛んだ。
「よかった……」
隣に座っている結衣の手を取り、そのまま肩を引き寄せて、抱き締めた。本当に、よかった……。
「梶原さん、なんか、思ってたのと違う」
「ん、何が……?」
結衣の言葉に、まだ結衣の香りに満たされていたかった梶原は、しょうがなくそれを手放した。そっと結衣の頭を解放し、顔を見られるようにする。
「もっとこう、イベントっぽいのかなって……」
「ん?」
「だって今の、プロポーズだよね」
途端に、梶原の眉間にしわが寄って、黙ってしまった。
「えっ、違うの?」
梶原は、結衣の体に回していた腕を、そっと下ろした。
肝心なのは、ここからなんだ……。
「結衣ちゃん、ごめん。まだ、それはできないんだ」
「……」
どういう事? と顔に描いた結衣が、そのままグッと体を引いて、完全に梶原から離れた。
手の平に残っていた結衣の感触が急になくなって、梶原をひどく焦らせた。
「僕はどうやら、大きな選択ミスをしたらしいんだ」
空いてしまった右手を、ギュッと強く握り締めた。
梶原は、辞令の話を始めた。
佐々木のことで選んだ選択が、これほどまでに簡単にキャリアに支障を来たすとは、正直考えていなかったという。
この先、自分の出世は、同期から1歩も2歩も遅れることになる。ただでさえ役職の整理が進んで、上のポストの空きが少なくなっているのに、だ。
梶原の職種では、仕事で成果を明瞭にしていくことは難しい。必要な改善を進めることだけでは、抜きんでることはできない。むしろ、マイナスを作り出さないことが、1番の評価に繋がるのだ。
失敗は取り消せない。そして、1度付けられた評価を覆すことも、不可能に近い。
「分かっていたつもりだった」
そう肩を落とす梶原を、結衣は穏やかな気持ちで見つめていた。
男性のプライドは、女性が考えるより遥かに高い。それなのに、こんな風に自分の弱さを見せてくれることに、きゅんとしてしまう。
出会ったばかりの頃なら、こんな姿は鉄壁の鎧で隠されていただろう。そう思うと、1年にも満たない2人の時間が、とても大切なものとして体に溢れた。
「でも、梶原さんがその選択をしてくれなかったら、私達、会えなかった……」
ハッとした梶原は、結衣に視線を戻した。まっすぐ見つめ返してくる結衣を見て、改めて2人の出会いを思い出す。
「結衣ちゃん……」
にっこりと笑う結衣の顔に、わだかまりが1つ溶ける。
「そうだったね」
「うん」
梶原は、1口ビールを飲んだ。
結衣は、あくまでもあの選択は、僕の人生に必要なものだったのだと思わせてくれる。また結衣に受け入れられて、だからこそ、この先を間違えたくないとの思いが強くなる。
「1つ、別の選択があってね」
「別の選択?」
「うん。名古屋に行けば、係長として迎えてもらえるんだ」
「名古屋って、ペナルティで行ってたところ?」
「そう。出向扱いで、ポストも確約してくれてる。本社にいて、下から上がって来る部下達を牽制しながら上を伺っているより、ずっと楽になる。多分、課長になるのも早いんだ。もちろん、仕事も十分やりがいがある」
「あら、素敵ですね。……でも、そんないいお話を躊躇してるってことは、梶原さんの中で、何かデメリットがあるんですよね」
さすがに鋭いなと、梶原は結衣からの視線を外した。
「いつ、こちらに戻れるのか、分からないんだ」
その言葉と共に、強い目で、結衣は見つめられた。
「結衣ちゃん、待てる?」
「……」
「最低でも3年は居ることになる。その後、本社に戻れるとは言ってくれてるけど、それもどうなるか分からないんだ。今、僕を呼んでくれている部長だって、いつ異動になるか分からないし、出向先から別の出向先に流れていく人も多いんだ」
「そうなんだ……」
さすがに小さくなった結衣の相づちに、梶原の心もまた、堂々巡りが始まってしまう。
「僕は、君との子供も欲しいと思ってる。小さい頃、僕は色々あったから、前は、子供が欲しいだとか、親になりたいだとか、あまり思ったことはなかったんだ。でも、結衣ちゃんと会って、結衣ちゃんとの子供が欲しいって思う様になった」
「梶原さん……」
「だけど、3年もしたら、僕は41だ。子供が大学出る時には、63だよ。定年間近だ。君だって3年後には35になる。高齢出産だよね。そんな危険、させたくないし……」
「あらあら」
結衣は、梶原の堅実さに小さく笑った。定年って……。
それに20年前とは違い、高齢出産の割合は随分と高くなっている。もちろん、母子共にリスクが減ることはないが、無事誕生を迎えている親子も増えているのだ。
こうやって、先の先まで回り込んで人生を歩んできたのかと思うと、やっぱり梶原は「ペンタクル」の人だと再認識する。
しかし、今までの梶原の話を聞いていると、出世の事とか、子供の事とか、いまひとつ、しっくりとこない。もっと大きなデメリットを懸念している様な気がする。
「それに、僕には両親もいる」
「あぁ……」
結衣はやっと納得した。そうだよね。きっとこれが、1番の課題なんだよね。
「あの母のことを考えると、君に苦痛を与えることは目に見えてる。同じ過ちは、繰り返したくないんだ。だけど、面倒を見る義務も……、いや、義務って言うのも違うと思うけど、それもやっぱり放棄できない」
「……うん」
結衣は、さっきの言葉の意味を、やっと理解した。
――まだ、それはできないんだ
梶原が独り言で言っていた言葉も、繋がっていく。ずっと悩んでいたのだと、心がフワッと温かくなった。それでも「一緒にいたい」と言葉にしてくれたことに、感謝の気持ちすら湧いてくる。
梶原は、私にどうして欲しいのだろう。一緒に悩んで欲しいのか、別れたいのか……。
いや、違うな。私が、どうしたいか、だな。
「梶原さん、こんな言葉知ってる?」
結衣が2人の沈黙を、破った。梶原は、もう1度結衣と視線を合わせた。
「人生は大抵、準備が整わないままに、次の変化がやってくる」
結衣はニッコリと笑って、梶原を見つめた。
「人の運命の流れは、自分が考えている以上に早いらしくてね。変化が起こる時は、次から次に色んな事が重なるって。全ての準備が整ってから、次の変化が起こるわけじゃないんだって……」
結衣の言葉に、梶原も知らず知らずのうちに、自分の人生を振り返る。確かに、そうかもしれない……。
「大抵、『あともう少しで、ひと段落』っていう時に、次の新しいことが始まっちゃって、もう怒涛の様に押し寄せる。誰でもバタバタするもんだっていうの」
結衣の話を真剣に聞いていた梶原が、それでも何かを否定しようとする。
「でも、だからこそ……」
結衣は、梶原の言いたいことは分かっている。それでは運命に翻弄されて、自分の人生を自分でコントロールできなくなってしまう。
「だからね、そんな時は慌てずに、もう腹を据えてね、よーし、次は何が来るんだって迎え撃つつもりで、目の前の事を1つずつ片付けていくしかないっていうのね」
結衣はもう一度、自分にも言い含める様に言葉を紡いだ。そして改めて、気持ちの中に取り込んでいく……。
「誰が言ったのか忘れちゃったんだけど、ホント、そうだなって思ってるの」
「……1つずつ」
また考え始めてしまった梶原に、結衣なりの解決方法を提案する。
「じゃ、すぐに子供を作っちゃうのは、どう?」
「えっ」
驚いた梶原を置き去りにして、先に進む。
「私、名古屋に行ったことないから、行ってみたい」
「えっ」
「ご両親は、まだまだお元気でしょ。60代だもんね。年寄り扱いしたら怒られる」
結衣は、少し強い眼をした。
「それに、お母さんのことは当分、お父さんに任せてもいいと思う。梶原さんが全て背負うのは、もっと先でいいんじゃないかな」
「ぁ……」
「どうなるか分からない先のことを考えて彷徨うより、目の前の幸せに根を張ることの方が、大事なんじゃないかな」
梶原は小さく息を止めた。
「取り敢えず今は、ぜーんぶ先送りにして、一緒に逃げちゃうのは、どう?」
この時の梶原の顔は、何度思い出しても笑えてくる。きっと、梶原の人生の中で、1度も浮かんできたことがない考えだったのだろう。あまりの驚きに、ホントに口をポカンと開けていた。
すました顔の結衣は、すぐにその顔を保てなくなった。梶原に、がっしりと抱き締められ、苦しくなったから。
「結衣ちゃん、僕と結婚して下さい」
「はい、よろしくお願いします」




