フラグ
「主任、今日も残業ですか?」
18時過ぎ、隣の課の新入女子社員、鈴木が梶原に声を掛けてきた。周りを見渡せば、横田も他のメンバーも席を外している。
……抜かりがないな。
「ああ。鈴木さんは、もう上がれる? 仕事、分かる様になった?」
「はい。主任のお陰で、何をしたらいいのか、ちゃんと聞けるようになりました」
「それはよかった。木村主任は優秀だから、何でも聞くといいよ」
木村は、鈴木の直属の上司で、梶原の同期だ。
「でも、まだ色々と不安なことばかりで……。相談に乗っていただけませんか? 今日はどうですか? よければ、残業終わるまで待ってます」
ニッコリ笑う鈴木は、今では社内で有名になっている。男性社員の間では、可愛くて同期の中ではNo1の称号を得、女性社員の間では、「ハンター」の異名をとり、距離を置かれているらしい。
情報源は、横田だ。彼の情報収集能力は、下手な女子社員より優秀かもしれない。
「いや、もう僕がアドバイスできることは、なにも無いから。これからも木村主任に相談するといいよ」
以前、結衣とのデート中にしっかり邪魔をされ、結衣に忠告を受けている。
「きっとまた誘われるよ。ああいうタイプは、断られると燃えるから」
「大丈夫。ちゃんと、お断りします」
「そうよね……。梶原さんには、ちょっと手に負えないかもね」
「……」
おや、随分挑発的な発言をするなと、結衣の顔を確認して思わず笑った。そうゆう余裕があるかの様なセリフは、もっと不安のない顔で言うもんだ。
「おっしゃる通り、僕には若過ぎて、手に余りそうだ」
「ほんと!? そうだよね! 若過ぎるよね!」
途端に顔が安堵に変わり、愛おしさが増したのが、昨日の事の様に思い出される。
「……そうですか。それは残念です。ではお先に失礼します」
「お疲れ様」
小さく溜息をつきながら仕事に戻れば、1分もせずに横田が席に戻ってきた。
「主任~。あっさり振っちゃって、もったいない~」
どこで見ていたのか、これだから彼は侮れない。
「何のこと?」
「またまた~」
にやけた顔に、釘をさす。
「僕がまた彼女と喧嘩して困るのは、横田君たちじゃないのか?」
「あっ、そうでした。主任のエネルギーロス、半端ないんでした。ていうか、早く彼女さんと落ち着いて下さいよ。じゃないと、おちおち冗談も言えません」
「……。今月、横田君は残業45時間までだからな。80はできないぞ」
「げっ! 俺、もうはみ出しちゃいました?」
「そう。無駄口叩いてる暇ないぞ」
「はーい」
彼女さんと落ち着いて……か。梶原の悩みのど真ん中を突かれ、人知れず落ち込んだ。
先月の夏休みの件で、梶原の心はもう決まっている。
結衣を、失いたくない。
けれど、僕にはあの母もいるのだ。何をどうしたって、避けて通れない現実だ。結衣とこの先も一緒にいたいが、苦しめることもしたくない。2人で乗り越えることができるのか、また失敗してしまうのか、問題の解決方法が見つからない……。
そしてもう1つ、梶原にはすでに、フラグが立っている。
「そう言えば主任、木村主任が今度、係長になるってほんとですか?」
横田が手を動かしながら、聞いてくる。近々、定期人事異動がある。そこで、そんな内示が出ていると、またどこからか情報を得てきたのだろう。大したものだ……。
「さぁ、僕は知らないけど」
「ふーん。じゃ、主任にはお話はないんですか?」
「残念ながらね」
デリケートな話をズバッと聞けるのが、横田の良い所であり、恐ろしい所でもある。
梶原が思っていた以上に、在宅勤務の選択は、人事評価に悪影響があったらしい。もちろん、木村の昇進をやっかんで考えていることではなく、過去の先輩達のことを総合的に考えて出した結論だ。
同期の中で昇進が同時にできなかった奴は、その後、彼らを追い越すことはない。
僕は、選択を間違えたんだな。
結衣の顔が、頭に浮かんだ。
「姫野さん、この間もらった信州のワイン、昨日飲んだんだけど、すごくおいしかった~。ありがとね」
「でしょ~。やっぱりさ、日本人には日本の水が合うのかしらね。ワイン詳しくないけど、ホント美味しかったもん」
「あれ、どこで買った? お取り寄せできるかな」
「通販でいけるよ。あとで、サイトのアドレス送るね」
「よろしく」
土曜日、派遣仲間の遠藤と、今日も朝から電話を掛け続けている。
「今日もデート?」
「うん。夜ね」
「いいなぁ。私さ、最近付き合っても、3ヶ月持たないんだよねぇ。いい相手が現れない……」
「出会いは、合コン?」
「アプリ」
「あぁ、私やったことないから、分かんないや」
「最初は私も不安だったんだけどね……、意外とまともなサイトもあってね」
「そうなんだ。今の若い子達には、当たり前の出会い方なのかな」
「きっと、そうだと思うよ」
途中、ちゃんと仕事も挟みながら、ぼちぼちとそんな話をした。
確かに、私達の頃には無かったシステムだから、まだまだ「自然な流れ」の出会いの方が安心する。けれど、それだけではもう、足らない時代になったのだろう。
「姫野さんの出会いは?」
「う~ん、町内会」
「えぇー! そんなの、奇跡だわ」
そう言われれば、町内会で条件が合う相手なんて、いないなぁ……と考えつつ、ふと、大輔の顔が浮かんだ。
「あ~、ないない」
思わず声に出て、遠藤から不思議な目で見られた。
梶原さんと出会えたのは、ほんとに色んな偶然の産物なんだよね。今更ながら、結衣はそのことを噛みしめた。うん、町内会の班長も、役に立つこともある!
夜、食事を終えて、梶原が結衣の部屋に泊まりたいと言い出した。結衣は明日も仕事だし、それに……
「あのね、泊まってもいいけど、今日は何もしてあげなれないよ」
「何もって?」
「うん……とね」
「女の子の日? そろそろだもんね」
「えっ……覚えてるの?」
「なんとなく。結衣ちゃん、割と安定した周期だよね」
「やだ、うそ……」
「キモイって言わないでよ。一応、結婚経験があるし、知ってる方がデートとかで無理させなくて済むし」
「……」
結衣は少し感動した。恥ずかしい気持ちより、そちらの方が勝った。
「一緒にいられるだけでいいんだけど、それも辛いかな? 1人の方が、楽?」
「ううん。そんなこと、ないけど……」
「じゃ、泊まりたい。手は出しません」
「……私、少し感動してます」
あまりの紳士っぷりに、感動の目で梶原を見つめたら、笑われた。
「じゃ、行ってもいいんだね。映画でも見よう。なかなか、2人でゆっくりできないから」
「うん。ありがとうございます」
「何で、お礼なの?」
また、笑われた。
画面には、結衣がネットから選んだ、3年ほど前の映画が映し出されている。梶原は、ティッシュケースをそっと結衣の前に置いた。
「ん゛……」
結衣はお礼の代わりに、コクリと小さく頭を下げ、横を向いて鼻を噛んだ。
梶原も内容に感動はしているが、涙になることはない。最近分かってきたが、普段から結衣は、テレビを見ても動画を見ても、すぐに泣く。だからちょっと、
「面白い……」
結衣が突然、席を立った。戻ってきたときには、手に缶ビールを2本持っていた。
「はい」
その内の1本を梶原に渡すと、何故だかテレビのスイッチを切ってしまった。
「何、どうしたの? まだ終わってないよ」
「いいの。もうこれ見るの3回目だから、ストーリーは頭に入ってる」
3回目でストーリーも分かってるのに、あんなに泣けるのか……。やっぱり、
「面白い?」
結衣が、問いかけて来た。
「えっ……」
梶原は、まるで自分の心を読まれたかの様に、言葉の先を言われて驚いた。
「梶原さん、何か悩んでる?」
「ん? いや?」
「最近、独り言が多いって、自覚してる?」
「えっ……」
「え~と、『くり返すわけには』『思ってたより』『間に合うのか』『行ったところで』だったかな。で、たった今が『面白い』」
結衣が思い出す様に、単語を並べた。
「……マジ?」
「はい、マジです」
「……」
どれもこれも、最近頭の中を巡っていることの、一部だ。まさか、声に出ていたとは……。
「お仕事の事ですか? それとも、家の事? 愚痴、聞きますよ。梶原さん、何でも自分で解決しちゃうの、大人だなって思ってますけど、たまにはアウトプットもしてください。人に話すことで、整理がつくこともあるじゃないですか。ねっ」
「……カッコ悪いね、僕」
「カッコいいですよ、梶原さんは」
溜息交じりに呟いた言葉に、すかさず結衣の言葉が飛んできて、少し面食らう。
「この間の、お返しです。ふふっ」
――バカじゃないよ、結衣ちゃんは
「あぁ……、そっか……」
梶原は大きく溜息をついた。話してしまうには、大前提がある。結衣の気持ちを、確認しなければならない……。
「結衣ちゃん、僕は、君とこの先、ずっと一緒にいたいと思ってる」
「へっ……」
まっすぐ見つめられて、結衣は飲みかけていたビールを、こぼしかけた。梶原の言葉は続く。
「君は、どう?」




